逃亡 犯 条例 わかり やすく。 逃亡犯条例の問題点をわかりやすく解説!抗議デモの理由や何が問題なのかについても

香港デモをわかりやすく解説!理由や場所は?6月9日に103万人との情報も

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北海道・東北• 東海・甲信越• 近畿・北陸• 中国・四国• 九州・沖縄• 林鄭氏は4日夕、公邸に親中派の立法会(議会)議員らを緊急招集した後、午後6時(日本時間午後7時)からテレビ演説した。 改正案の撤回表明は、市民やデモ隊の要求の一部を受け入れるものだ。 中国政府が後ろ盾となった政策を市民が完全撤回に追い込んだことは、香港政府のみならず、中国政府の権威も揺さぶりそうだ。 ただ、デモ参加者らの要求はすでに改正案の撤回にとどまらず、林鄭氏の辞任、警察の暴力追及や拘束された仲間の釈放、普通選挙の実施などに広がっており、撤回表明は遅きに失したとの見方もある。 デモは本格化してから3カ月近くなり、警察との衝突が激しさを増し、観光や経済にも影響が広がっている。 10月1日には中国の建国70周年が控えており、香港と中国の両政府は事態収拾を急ぎたい考えだが、民主派や市民の反発が収まるかは微妙な情勢だ。 (香港=平井良和、広州=益満雄一郎) 「逃亡犯条例」改正案 昨年、台湾で殺人の疑いをかけられた香港人の男が香港に逃げ帰り、台湾当局の訴追を免れたのがきっかけ。 今年2月、男の身柄を台湾に引き渡すため香港政府が発表した改正案は、犯罪容疑者の身柄を中国本土に引き渡すことを可能にする内容だったため、乱用を恐れた市民らが強く反発した。 抗議デモの高まりを受けて林鄭月娥行政長官は審議の継続を事実上断念し、7月、「改正案は死んだ」と発言したが、正式な撤回表明はしていなかった。

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逃亡犯条例をわかりやすく解説!香港デモ?一国二制度や雨傘運動についても

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なぜ香港デモは起きたのか? 香港デモとは、2019年逃亡犯条例改正案に反対するデモのことを指します。 2018年2月に台湾で被害者・容疑者ともに香港人の殺人事件が起こりましたが、台湾は逃亡犯条例が適用される国・地域ではなかったため、容疑者の身柄を台湾に引き渡すことができませんでした。 そこで、引き渡し対象となる国や地域を拡大した2019年逃亡犯条例改正案が提出されることになったのです。 しかし、2019年逃亡犯条例改正案では、新たに引き渡し対象となる国や地域として、台湾だけでなく中国も含まれていました。 つまり、中国から罪に問われた香港人が強制的に中国に引き渡されるだけでなく、中国の法律で裁かれることも定めていたのです。 香港では中国政府の在り方に懐疑的な人が多く、香港に中国の支配が及ぶことを嫌悪する発言も少なくありません。 そのため、香港が中国の一部になってしまうことを反対する香港人が集まり、香港全体を巻き込んだデモ活動へと発展していきました。 逃亡犯条例についてと撤廃までの流れ 元来、逃亡犯条例は20の国や地域を対象として適用されていました。 これらの対象となる国や地域から香港人が罪を問われた場合、国や地域からの要請があれば、複雑な手続きを経なくても香港人の身柄を引き渡すことができます。 しかし、改正案では、中国を含む多くの国や地域からの要請があれば簡単に犯罪容疑者の身柄を引き渡せるということを定めていました。 香港で活動する人々が中国から言論や活動を統制される可能性が高く、香港人の自由が拘束されることは想像に難くありません。 国家規模でのデモが連日おこなわれ、10月23日には改正案の撤回が決定しました。 香港デモの主張:5大要求 元々は2019年逃亡犯条例改正案に抗議するために始まった香港デモでしたが、デモが長引くにつれ、改正案撤回以外の要求も含まれるようになっています。 デモで掲げられた5大要求は以下の通りです。 香港デモの5大要求• 2019年逃亡犯条例改正案の撤回• 香港デモにおける逮捕者の逮捕取り下げ• 普通選挙の実現• 裁判官をトップとする独立調査委員会の設置• 香港デモを「暴動」と認定しないこと 最初の要求である2019年逃亡犯条例改正案の撤回は、10月23日に実現しています。 しかし、ほかの4つの要求は実現していないため、香港では引き続きデモがおこなわれています。 なお、5番目の要求は、キャリー・ラム行政長官の発言に基づいているものです。 2019年6月13日までにデモによる負傷者が72人にのぼったことを受け、キャリー・ラム行政長官は香港のデモを「組織的な暴動」だと非難しました。 しかし、デモ参加者は「暴動ではなく香港の民主化のための市民運動だ」と主張し、5大要求の1つにキャリー・ラム行政長官の発言撤回とデモの位置づけの再認識を掲げています。 デモの背景を理解するには香港の歴史を知ろう 逃亡犯条例の改正案が提出されたことだけで、なぜこのように大規模なデモが起こったのでしょうか。 デモの背景を理解するためには、香港の特殊な歴史を紐解く必要があります。 忘れてはならないのは、香港は150年以上もの長きにわたってイギリスの植民地であったという事実です。 香港が1997年に中国に返還されることは1898年から決まっていたことですが、イギリスの民主主義の中で生活してきた人々にとっては、返還後に中国の社会主義体制になることや言論の自由が奪われることは恐怖でもあったのです。 また、香港はその立地を活かして貿易港として発展し、著しい経済成長を遂げています。 しかし、1997年前後の中国は経済的な力が弱く、とりわけ香港の富裕層の間で「返還前に海外に移住しよう」という動きも見られました。 香港デモの背景1.一国二制度 民主主義を謳歌していた香港が、1997年7月1日以降いきなり中国の体制に取り込まれたのではありません。 返還前の1984年に中国政府とイギリス政府が話し合い、返還後、香港は中国の一部になるが、最初の50年間は外交と国防以外では自治性を維持できることと決定しました。 つまり、香港は中国ではあるものの、中国と香港の2つの制度を持つ「一国二制度」が採用されることになったのです。 現在、香港は「香港特別行政区」として、香港だけに適用される法律や権利が認められています。 しかし、返還後徐々に自由が抑圧されていると指摘する香港人も多く、香港の自治性が失われつつあるのが現状です。 香港デモの背景2.雨傘運動 2014年、民主派の立候補者を実質的に香港行政長官の候補者から排除する選挙法を中国政府が決定したことを受けて、数万人規模の香港市民や学生、若者がデモをおこない、香港の繁華街を占拠しました。 警察はデモ隊を鎮圧するために催涙スプレーを用いましたが、市民はスプレーよけの雨傘を差してデモに参加したため、「雨傘運動」や「雨傘革命」と呼ばれるようになりました。 2019年の香港デモの5大要求の1つにも「普通選挙の実現」が掲げられていることからも分かりますように、香港では、市民が直接的に代表者を選ぶ普通選挙はおこなわれていません。 現在でも、香港の政治のトップである行政長官は、中国本土の政府から支持されている人物の中から選出されています。 また、ほかの高官たちも少数の選挙委員会を通して選出されているため、純粋な意味で市民の代表者とは言えないのです。 香港デモに対する諸外国の反応 日本では香港のデモ関連の話題が連日報道されていますが、香港と関連の深いイギリスや、台湾などの周辺国でも大きなニュースとして取り上げられています。 とりわけ近年、中国との貿易問題が深刻化しているアメリカでも、香港のデモについて大きく報道されています。 アメリカでは、香港デモを「中国の支配的な態度に反発する香港の市民運動」と捉え、デモに参加する香港市民を支持する政治家や市民が少なくありません。 また、中国との貿易摩擦と絡め、香港市民を応援するコメントをSNS等で発信する人も多く見られています。 なぜ香港デモが起きたのかは歴史背景を知るとわかりやすい 半年以上も続く香港のデモは、香港人が香港人として生活したいという意思の表れとも見ることができます。 雨傘運動から続く普通選挙の実現を要求する動きも、香港人が香港人の手で政治をしたいという気持ちから発生しています。 なぜ香港デモが起こっているのかを知るためには、デモの背景となる香港の歴史を知る必要があるのです。 香港デモの基盤のひとつとなっている民主化・民主主義については、こちらの記事にまとめられているので、あわせてご覧ください。

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香港デモの起きた理由は?逃亡犯条例とは?原因を分かりやすく簡単にまとめるよ

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中国広東省の沿岸部、深セン市の南部に位置する地域を「香港」といいます。 香港島、九龍半島、新界と呼ばれる島しょ部に分かれていて、2017年現在の人口は約740万人。 市街地は香港島北部と九龍半島に集中していて、人口密度がきわめて高いことでも有名です。 周囲は天然の良港になっていて、古来より貿易拠点として発展してきました。 現在は観光地としても栄えていて、その数は年間6500万人以上。 「百万ドル」と称される夜景は、「世界三大夜景」に数えられています。 中国の一部でありながら独自の行政機関をもち、独自の法律が運用されているのが特徴。 このように高度な自治権を認める制度を「一国二制度」といい、この制度が適用される地域は「特別行政区」と呼ばれます。 中国では、香港とマカオが「特別行政区」です。 香港が、特例といっても過言ではない「一国二制度」となった背景には、後述する歴史が深く関わっています。 「アヘン戦争」後の1842年から1997年までイギリスの植民地だった香港は、経済をはじめとするさまざまな制度が中国本土と異なっていました。 イギリスから返還される際に、円滑に統治するために「一国二制度」を適用することになったのです。 その結果、法律の体系は植民地時代とほぼ同じで、中国本土とは異なり資本主義にもとづく政策が実施され、死刑制度もありません。 公用語は中国語(広東語)のほかに英語も用いられています。 政治的、経済的、文化的な差異があることから、香港には強権的な中国政府に対する不信感があるといわれています。 たとえば1989年に「天安門事件」が発生した際、香港議会は中国政府の武力行使に対するけん責を全会一致で採択、各地で反発のデモもみられました。 中国本土ではタブーとなっている「天安門事件」の追悼も、香港では公におこなわれています。 2019年には、中国本土へ容疑者の引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」の改正案をめぐって、大規模なデモが発生。 催涙弾や火炎瓶が使用され、怪我人も多数発生する事態になっています。 ここからは、香港の歴史を詳しく振り返りながら、デモの原因など中国とすれ違っている理由を解説していきましょう。 香港の歴史:紀元前から明朝まで 香港周辺には、旧石器時代から人が居住していたと考えられています。 2006年に、香港東部の黄地ドウから約4万年前のものと推定される旧石器が見つかり、話題になりました。 その後、紀元前214年に秦が現在の広東省付近に進出して「南海郡」を設置。 香港周辺も秦に支配されることになります。 しかし紀元前206年に秦が滅亡すると、紀元前203年に現在の広東省からベトナム北部にかけて「南越国」が成立。 一時、地域一帯が中国王朝から自立しました。 「南越国」は100年ほど続きましたが、その後漢に征服され、以後さまざまな中国王朝が香港周辺を支配します。 唐の時代には、香港近郊の広州市が貿易の拠点として発展。 現在の新界一帯に「屯門軍鎮」が設置されました。 さらに明の時代になると、ポルトガル人などヨーロッパ人が来航。 この頃から、史料内に「香港島」という地名が登場するようになります。 香港という名前の由来は定かではありませんが、一説によると地域一帯が香木を集積する港湾として機能していたことからきているといわれています。 香港の歴史:イギリス植民地時代に文化が発展 清の時代になると、イギリスと朝貢の形式で貿易をするようになり、広州が貿易の窓口に。 しかし三角貿易を通じてアヘンが清に密輸されるようになると、これがきっかけで1840年に「アヘン戦争」が勃発します。 結果は、イギリスが勝利。 講和条約として1842年に「南京条約」が結ばれ、これによって香港はイギリスに割譲されました。 ここから約150年間、イギリスの植民地となるのです。 1856年に勃発した「アロー戦争」では、九龍半島南部もイギリスに割譲。 さらに「日清戦争」後は西欧列強による「中国分割」が進展します。 その過程で九龍半島北部と新界地域を99年間租借することが決まり、現在の香港全域がイギリスの統治下に置かれるようになりました。 イギリスは統治機関として香港政庁を設置。 あわせてイギリス資本の進出にともない、競馬場や大学、図書館、劇場などさまざまな設備が作られます。 その結果、中国本土とは異なる法制度や文化が発展していったのです。 香港の歴史:日本統治から再びイギリスの植民地に 1941年12月に「太平洋戦争」が勃発すると、開戦直後より日本が香港を攻撃します。 12月25日にイギリス軍が降伏すると、日本が敗戦するまでの約3年8ヶ月、香港は日本軍の軍政下になりました。 クリスマスにイギリス軍が降伏したことから、香港ではいまでもこの日を「黒色聖誕節(ブラック・クリスマス)」と呼ぶそうです。 日本は統治期間中、それまで使用されていた香港ドルを強制的に回収し、代わりに「軍票」を発効。 しかし無計画に「軍票」を発行したため経済が混乱し、さらに日本の敗戦で価値がなくなったため、その補償を求める抗議がおこなわれました。 日本軍が撤退した後は、再びイギリスによる統治が再開されます。 「国共内戦」を経て中華人民共和国が成立すると、社会主義をきらった中国人の資産家や、経済の混乱や弾圧から逃れようとした人々が香港に流入。 彼らは「逃港者」と呼ばれ、この資本と労働力の流入が、戦後の発展の基盤となりました。 1970年代後半になると、租借期限が近付いたことで今後の香港の在り方が議論されるようになります。 イギリス首相だったマーガレット・サッチャーと、中国の指導者鄧小平の間で交渉がおこなわれます。 この時サッチャーは租借の継続を目指しましたが、鄧小平は武力行使もちらつかせて反発したそう。 交渉は最終的にサッチャーが折れる形でまとまり、1984年に「中英共同声明」が発せられ、「1997年にイギリスから香港が返還されること」「返還後50年間は社会主義政策を実施しないこと」「外交と軍事以外の面で高度な自治を保障すること」などが決められたのです。 この声明にもとづき、香港は1997年7月1日にイギリスから返還。 「中華人民共和国香港特別行政区」が成立しました。 しかしその後、中国政府による干渉が強まりつつあり、これが後述する「逃亡犯条例」改正への抗議デモ拡大に繋がっていくのです。 香港デモの原因は?背景や「逃亡犯条例」などをわかりやすく解説 「逃亡犯条例」改正に対する抗議デモが拡大する背景には、いくつかの原因があります。 まずひとつ目は、先述した中国政府に対する不信感です。 香港には「逃港者」のように中国政府から逃れてきた人々が暮らしています。 しかしイギリスから中国に返還された後、徐々に言論統制や選挙干渉が生じるようになり、強権的な中国政府によって自分たちの自由が奪われることを警戒するようになっていったのです。 ふたつ目は、香港で暮らす人々は、その歴史的な経緯から自分が「中国人」だという意識をあまりもっていないことが挙げられます。 2019年6月に香港大学が実施した調査によると、18歳から29歳の若者の75%が「自分は香港人」と回答した一方で、「自分は中国人」と答えた若者は2. 7%にとどまりました。 中国本土と香港では歴史的な背景が大きく異なり、帰属意識についても大きな隔たりがあります。 これも中国政府への反発に繋がっているといえるでしょう。 最後に、今回の抗議デモの発端となった「逃亡犯条例」の改正についても、大きな問題点が指摘されています。 そもそも「逃亡犯条例」は、香港が協定を結んだ国や地域に、罪を犯した容疑者を引き渡す制度です。 2019年現在、香港はアメリカなどと協定を結んでいる一方で、中国本土やマカオ、台湾などとは協定を結んでいません。 しかし2019年2月、香港議会でこれらの地域とも容疑者の引き渡しを可能にする改正案が提出されました。 この改正によって、中国当局が香港市民を取り締まることができるようになったのです。 中国政府に批判的な立場をとる人物が、中国本土に引き渡される可能性が出てきました。 長い間認められてきた香港の自治が揺らぐことに対する警戒心や反発が、デモの原動力になっているといえるでしょう。 中国返還後の動きをまとめた一冊 香港をとりまく歴史や経済だけでなく、人口動態やサブカルチャーなど60の項目について解説した作品です。 日本の漫画やアニメが香港に与えた影響など、ほかの書籍ではなかなか知ることができない情報を取りあげているのが特徴になっています。 その一方で、複雑な選挙制度や国籍の在り方など、専門的な分野もしっかりまとめられていて、さまざまな観点から香港の姿に迫ることができるでしょう。 本書が刊行されたのは2016年のことなので、2019年に起きたデモについては触れられていませんが、2014年に発生した「雨傘運動」と呼ばれる抗議デモについてはまとめられています。 これは香港の特別行政区政府に対する抗議として起こったもので、どのようにして発生したのか、どう解決したのかを知ることで、2019年に生じたデモが今後どうなっていくのかを考えるきっかけになるでしょう。

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