ここ から 法隆寺。 【法隆寺】アクセス・営業時間・料金情報

法隆寺・西院

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「法隆寺」。 今から、1400年以上も前に創建され、かの有名な聖徳太子ゆかりのお寺としても知られています。 この長い歴史を持つお寺は、現存する世界最古の木造建築であり、世界文化遺産に登録されています。 そして、沢山の謎に包まれたお寺でもあります。 日本でも1. 2位を争う屈指の古寺であり、謎多き法隆寺の歴史を一緒に紐解いていきましょう。 法隆寺の成り立ちとは 当時、仏教は日本でNEW FACEだった! 法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある古寺です。 今から1400年以上前に創建されましたが、誰がどのような目的で建てたのでしょうか?一般的に聖徳太子(しょうとくたいし)が創建したと思われがちですが、実際は、聖徳太子のお父さんである用命天皇(ようめいてんのう)が創建を命じたと伝えられています。 1400年前は、飛鳥時代(あすかじだい)と呼ばれていた時代です。 まだ、仏教は日本には深く浸透していませんでした。 その頃の日本は神道が主流で、中国から渡来した仏教は広まり始めたばかりで、日本人の心に新しい文化として人気が出始めた時代でした。 そのため、仏教により国家を守護・安定させる力があるとする思想を元にした国家鎮護(こっかちんご)の寺院は存在していませんでした。 法隆寺が創建された理由も607年に聖徳太子の父である用明天皇が自身の病気平癒(びょうきへいゆ)を願って、後に妹にあたる日本初の女性天皇となる推古天皇(すいこてんのう)と息子である幼少の聖徳太子(しょうとくたいし)に命じて建立されたと言われています。 法隆寺は、本堂と五重塔を中心とする西院伽藍(さいいんがらん)と夢殿を中心とする東院伽藍(とういんがらん)とにわかれています。 西院伽藍は現存する木造建築の中で、世界最古と言われています。 お寺の広さは、約18万7千平方メートルもありその東京ドーム4個分の境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の最高峰の仏教建築物が軒をつらねており、国宝が約38件、重要文化財に指定されたものが約190件眠っています。 そして、1993年に日本ではじめて「法隆寺地域の仏教建造物」がユネスコの世界遺産に登録されました。 まさに日本が世界に誇れるお寺の一つですね。 一度、全焼してしまったの?法隆寺! 明治半ばまでは、法隆寺の金堂や五重塔などがある西院伽藍は、創建されてから一度も消失されていないと伝えられてきました。 しかし、法隆寺は一度すべて火災で焼失されたことがわかったのです。 そのことは、日本書紀に記録が残っており、670年4月30日のページに「夜半災法隆寺、一屋無余、大雨雷震」(暁に法隆寺で出火があった。 一屋も残らず焼けた。 大雨が降り雷鳴が轟いた)とあり、創建わずか64年後に一夜にして焼失したことが書かれています。 そして、焼失後は710年前後に再建されたと言われています。 この記事の真偽をめぐって、長い間論争が起きました。 現在ある法隆寺西院伽藍は用明天皇が命じた創建時のままであるとする説、 670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立しました。 それは、1887年(明治30年)頃から1939年(昭和14年)まで続きました。 そして、結果は発掘調査の結果や建築用材の伐採年代の科学的な調査から裏付けされ、現存する法隆寺西院伽藍は焼失した後に再建されたものであるということが定説となりました。 ところが、2001年に五重塔の解体修理がはじまり、その際に腐食して取り出された心柱の標本を「年輪年代法」と呼ばれる測定法で測定したところ、594年に伐採されたヒノキ材であることが判明しました。 この結果を見ると、670年に起きた火災で全てが焼失して、710年頃に再建されたとされる再建論に再び疑問が生じてきたのです。 710年に法隆寺が再建されたと考えると594年に切られた木がなぜ使われているのでしょうか?また再建論・非再建論の論争が再び起こりそうだと考えられています。 しかし、どちらにしろ世界最古の木造建築物には違いなく、貴重な建物群であることには変わりありません。 このように古寺には、様々な謎が生まれます。 それを科学の力で紐解くのも私たち現代人の楽しみなのかも知れませんね。 聖徳太子って何者? 聖徳太子ってなんで有名なの? 法隆寺を語る上で、「聖徳太子」は欠かせない人物です。 法隆寺は、別名「斑鳩寺」(いかるがでら)とも言われています。 聖徳太子一族は、斑鳩の地に宮を建てて住んでいたとされており、法隆寺の夢殿を中心とする東院伽藍は、その斑鳩宮の跡地に建てられています。 法隆寺は、創建は聖徳太子のお父さんの命令でしたし、建立された場所は聖徳太子が住んでいた跡地でした。 以上のように法隆寺と聖徳太子は深い関係があるのです。 聖徳太子とは、どのような人物だったのでしょうか? 昭和の時代を生きてきた方ならご存知だと思いますが、百円札、その後は千円札、五千円札、一万円札の肖像となったとても有名な聖徳太子。 誰もが知る歴史上の人物ですが、実際に何をした人かについてはあまり知られていません。 聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、西暦574年、用明天皇の第二子として誕生しました。 幼名は厩戸豊聡耳皇子(うまやどとよとみみおうじ)と言いました。 聖徳太子が世に残した偉業は以下の3つが有名です。 有名な小野妹子が派遣されたのです。 当時の倭国(日本)は、随からみたら、小さな島国で格下の存在でした。 その随に「対等に外交をしましょう。 」と提案したのです。 随の皇帝は、激怒したが受け入れ対等の外交をしたと伝えられています。 その当時の日本は、家柄によって位は決まっていました。 親が偉ければ子も偉いまま、貧しければ貧しいまま。 それを親の身分など関係なく、能力がある者が平等に出世できるような新しい制度をつくったのです。 そして、誰が見ても冠の色で、その役人がどのくらい偉い位なのかが一目で分かるように12色の冠をつくって区別しました。 とても画期的でわかりやすい制度ですね。 当時の日本は、皇位継承権を巡って豪族同士が戦っていたりと国家として危うい状況にありました。 そこで、「和」がなによりも大切で、皆で相談し争いを起こさず仏教の教えを尊びましょう。 と国家の代表的存在である役人の心構えを示したものでした。 以上のように聖徳太子は、当時の日本では最先端の考えを持ち、日本を導く素晴らしい政治家だったのです。 実は聖徳太子はいなかった? 飛鳥時代のスーパースター聖徳太子。 最近になり「聖徳太子は実はいなかった。 」という説が出ているのをご存知ですか?それは、奈良時代に成立した日本の歴史書、日本に伝存する最古の正史といわれる「日本書紀」にある厩戸皇子の記載が不自然な点が多いことが原因です。 日本書紀において厩戸皇子は特別視されているように思われます。 それは、以下のような点です。 また、「聖徳太子」という名前は、厩戸皇子の死後かなり月日が経ってから付けられてた称号なので、日本書紀などには聖徳太子とは記載が一切ありません。 生まれた時から話すことができた。 1度に10人の相談を聞いて間違えないですべて理解できた。 また、未然(未来のこと)を知っていた。 など、不自然に神格化されています。 「日月失輝、天地既崩。 自今以後、誰恃哉。 」(日と月は輝やかなくなり、天地が崩れました。 今後、私たちは誰を頼ればいいか。 )とまで書かれています。 他の天皇や皇子が亡くなった際にはそのような記載はありません。 以上のように、日本書紀の編纂者は、わざわざ幾つもの名で曖昧に名前を表記したのか?不自然なほどの聖人伝説を記載したのか?民衆から慕われていたことを誇示したのか?そもそも厩戸皇子自体が存在したのか?と疑問が持たれているのです。 日本書紀は、720年に完成したと言われています。 その時の政治の中核にいた人物は、有名な藤原不比等(ふじわらふひと)です。 平安時代まで続く栄華の藤原氏を築いた人物。 その藤原不比等の父は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)。 645年、中臣鎌足は「大化の改新」(たいかのかいしん)で蘇我氏を滅ぼしました。 そして、その蘇我氏は聖徳太子の一族を滅ぼしたと言われています。 ここまで、読んでお分かりになりましたでしょうか?藤原氏は、自分たち一族が行なった所業を正当化するために、架空の偉大な皇子を造り上げたと考えられないでしょうか?「偉大な皇子を滅ぼした悪い一族である蘇我氏を私たち藤原氏が倒した」のだと。 しかし、これはあくまでも仮説にすぎません。 真実は今はもう誰もわかりません。 古代史は、文献が少なく解釈も様々でたくさんの仮説が立てられ調査されています。 これからも、いろいろな謎や真実が出てくることでしょう。 古代の歴史が少しずつ紐解かれるのが楽しみですね。 「五重塔」は世界で一番古い木造建築! 世界には約196の国があると言われています。 その世界中で法隆寺は、一番古い木造建築物なのです。 まさしく「世界の宝」といえるのではないでしょうか? 法隆寺のすべての建物が世界最古ではありません。 飛鳥時代に創建された西院伽藍である「五重塔・金堂・中門・回廊」の四つが世界最古の建物です。 詳しく見ていきましょう。 まずは、法隆寺のシンボル五重塔。 この五重塔は、仏教の開祖であるお釈迦さま(おしゃかさま)の遺骨を祀るために造られた塔である「仏塔」の形式の一つです。 五重塔は、下から順に地、水、火、風、空の5つの世界を表しているとされ、仏教的な宇宙観を表現しています。 このように五重塔は、仏教寺院においてとても重要な建物とされています。 法隆寺の五重塔は、高さ約32メートルあり、日本だけでなく世界最古の五重塔です。 この五重塔の中にもお釈迦さまの遺骨(仏舎利)が安置されていると言われています。 地下1. 5mの深さにある建物の礎石上部に仏舎利容器が納められおり、その舎利容器の中には釈迦の遺骨が6粒納められているそうです。 (本当にお釈迦様の遺骨かは、わかっていません。 )その安置方法が、古代インドに伝わる正統な方法と全く同じで、それが残っているのは大変珍しく奇跡と言われています。 この五重塔には、檜(ひのき)が使用されており、1400年以上にわたって天災、人災に耐え抜いてきました。 それは、とても高い建築技術によるものです。 この五重塔は、「積み上げ構造」といわれる建築様式を採用しています。 名前の通り各重ごとに積み上げていく方法です。 ただ各階を単純に重ねていき、取り付け具で留めているだけ。 塔の真ん中には、一本の柱が長く天に伸びて通っているようにみえますが、これは各重とは切り離されている構造で実際には、繋がっていません。 この構造は、大変地震に強いしくみだそうで、地震が起きても各重が互い違いに揺れて、振動を吸収する構造になっています。 この建築方法は、なんと現代の高層ビルでも採用されているとか。 1400年以上前の匠の技!素晴らしいですね。 そして、現代の東京のシンボルであるスカイツリーを建築する際にも、同じ技法が採用されているそうです。 まさしく国の宝!金堂とは? 五重塔と同じく法隆寺のシンボルといえば「金堂」(きんどう こんどう)。 法隆寺のご本尊を安置している聖なる場所とされています。 そして、五重塔と同じく飛鳥時代に創建された世界最古の木造建築物です。 威風堂々とした建物は、全体の形は正方形に近く、二層の入母屋造り。 上の屋根は2方向に、下の屋根は4方向へ勾配している姿はとても美しく、また当時でも珍しい造りとなっています。 上の屋根と下の屋根をつなぐ支柱に巻き付けられた龍の彫り物も圧巻なので、ぜひ一度その目で確かめて下さいね。 また、この金堂の建築の中でも、一際注目すべきは「エンタシスの柱」です。 エンタシスというのは、遥か遠くギリシャのパルテノン神殿で使われていた技法。 柱の中央に膨らみをもたせる技法のことです。 この技法が、日本の法隆寺の金堂、中門、回廊の柱に使用されています。 古代ギリシャ発祥の建築方法は、中国を経て、日本に渡来してきたのでしょうか?奈良はシルクロードの終着点だったと言われており、ペルシャなど西域の人も多く、様々な国の人々が渡来した国際都市だったとも考えられています。 そのため、このようなヨーロッパの技法も伝わってきたのでしょうか?ペルシャから伝わってきたのか、日本人の美意識から造られたかは定かではありませんが、日本の歴史は奥深くとてもロマンチックですね。 この法隆寺の金堂の中は、何が納められているのでしょうか?最初に書いたようにご本尊などが安置されています。 作者は日本最初の仏師として歴史に名を留める仏師鞍作止利(くらつくりのとり)。 面長で、杏仁形(アーモンド形)の眼をしており、穏やかな笑みを浮かべるように見える唇(アルカイック・スマイル)、長く伸ばした爪など大陸から伝わってきた古い仏像の特色が強く出ています。 この仏像の光背銘(仏像の背中に付いている丸いものに書かれた文章)に、「病気になった用明天皇は、586年に寺(「法隆寺」と明記はされていない)と薬師像を造ることを願ったが、それを果たさないうちに亡くなったので、後を継いだ推古天皇と聖徳太子が607年に薬師像と寺とを造った」という意味のことが書かれており、法隆寺の建立の起源がここに記載されていると言われています。 他にも、聖徳太子の母のために造られたと言われる金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)やそれを守護するように造られた日本最古の四天王像(白鳳時代)など多くの国宝が安置されています。 ぜひ、遥か1400年前の癒しのアルカテックスマイルをご自身の目で確かめてみて下さいね。 聖徳太子一族は、主権争いのため蘇我入鹿に攻められ、全員が自害して滅びました。 滅んだ後、斑鳩宮跡は荒廃していました。 739年(天平11年)頃、それを嘆いた行信(ぎょうしん)という僧が「上宮王院」としてその地に寺を創建したといわれています。 後日、この上宮王院が法隆寺に統合され、現在に至ります。 回廊(建物や中庭などを取り囲むように造られた廊下)に囲まれた八角形の「夢殿」を中心に、回廊の南面には「礼堂」、回廊の北面には「絵殿」「舎利殿」が建立され、少し離れて「伝法堂」が建っています。 その東院伽藍の中心である「夢殿」。 それほど大きくはない建物ですが、古くから多くの人々の心を引きつけ、聖徳太子信仰の聖地とされています。 この夢殿は八角形になっており、絶妙なバランスで見た目も素晴らしいお堂です。 八角形は、何か深い意味がありそうですよね?中国の八方位陰陽説で、八角形はその角を繋いでいくと円に近いかたちになるとされ、非常に縁起が良いと考えられていたそう。 また、円のお堂は故人を供養する堂の形の典型とも言われています。 このお堂が「夢殿」と呼ばれるようになったのは平安時代以後ですが、その名の由来は、かつて聖徳太子が創建された当時の法隆寺に参籠し、瞑想(めいそう)にふけった際、金色に輝く人が現れる夢を見たという故事に基づいたとされています。 夢殿は聖徳太子を供養する聖地であると同時に、聖徳太子が見た夢そのものとも言えますね。 謎多き秘仏!封印されていた救世観音 法隆寺にある数々の素晴らしい仏像の中で最も謎に満ちている仏像が、夢殿に安置されている「救世観音像」(くぜかんのんぞう)。 739(天平11)年に夢殿に納められたとされる救世観音像は、とてもミステリアスで人間味を帯びた仏像です。 この救世観音像は長い間秘仏とされ人の目に触れることはありませんでした。 江戸時代では、約200年の長きに渡り法隆寺の僧侶でさえも拝むことができない絶対の秘仏だったそうです。 理由は、明らかになっていません。 秘仏の封印を解けば祟りで天変地異が起こると伝えられていたとか。 この秘仏の封印は、1884年(明治17年)アメリカ人で東洋美術史家のアーネスト フェノロサによって解かれました。 フェノロサたちは、明治政府の依頼で公式の寺院などの宝物調査を行っていました。 フェノロサは、法隆寺の僧侶たちに観音像の開帳をお願いしましたが、祟りを恐れ僧侶たちは頑に拒んだと言われています。 何度か説得を試みて、最後にはフェノロサの要求が受け入れられました。 厨子(仏像が安置されている箱)の扉を開くと僧侶たちは、恐怖のあまり皆逃げてしまったと言われています。 観音像は、包帯のように木綿の布で幾重にもグルグル巻きにされており、その布の長さは、450メートルもあったと記録されています。 布をすべて取り除くと、金箔に輝くすらりと背丈の高い飛鳥仏が姿を現しました。 そのアルカテックスマイルを浮かべた穏やかな眼差しは、その場にいた者すべてが魅入られたとされています。 この観音像には、もう一つ不可解な点があります。 それは光背(仏像の後ろにある丸い光を表したもの)の付き方。 通常、仏像の光背は 、足元の台座から支え木で仏像の頭部まで持ち上げられているのが一般的。 しかし この救世観音像は 頭に直接釘が打たれ、光背が打ち付けられているのです。 尊い仏像の頭に直接釘が打たれているのは、おかしいと思いませんか? このように何百年も秘仏とされていたり、頭に釘を打たれていたりと救世観音には、不気味とも言える謎が沢山あります。 他の仏像よりも生々しく人間味を帯ているこの救世観音は、現在でも年2回、私たちも実際に見ることが可能です。 春と秋の特別展に足を運んではいかがでしょうか? 表の七不思議 法隆寺には、中世から伝わる七不思議があります。 とても興味深いものなので、詳しくご紹介します。 法隆寺の伽藍には、蜘蛛が巣をはらず、雀が糞をかけない 実際は、蜘蛛が巣をはりますし、鳥のフンもあるそうです。 これは法隆寺を綺麗な状態で清いお寺に保とうという僧侶たちの心持ちを表したものだと言われています。 南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある 南大門の階段を下りると、すぐに魚の鯛にそっくりな石が埋め込まれています。 そこにこのような石があるのか謎のままですが、伝承としては、どんなに大雨が降ってもここまでしか浸水はせず、法隆寺を守っている「守り石」であると言われています。 五重塔の上に大鎌が刺さっている 五重塔のてっぺんに屋根から天に向かって突き出た金属製の相輪があります。 そこに4本の大鎌ががっちり固定されています。 このような鎌が刺さっているのは日本全国探しても法隆寺の五重塔だけ。 諸説ありますが、避雷針と同じ役割を果たしていると考えられます。 また、雷は古来より魔物の象徴と見ることが多く、この鎌は「魔除け」の意味も持っているとされています。 またこの鎌が上向きに見えるとその年は米が豊作になり、下向きに見えると凶作であるとも言い伝えられています。 不思議な伏蔵(隠された蔵)がある 法隆寺には、「伏蔵」と言われる地下に隠された蔵があります。 これは伝説ではなく、実際にあります。 伏蔵を封ずる石蓋が地上に出ているので、現代の私たちも伏蔵の場所を知ることが出来ます。 しかし、「法隆寺存亡の一大事の時しか開けることが出来ない」と伝えられており、頑にその教えを守っているので誰も中身を見た者はいません。 法隆寺の蛙は、片目しかない 昔、因可池 よるかのいけ という池があったそうです。 聖徳太子がその池の側で学問に勤しんでいた時、カエルがうるさかったので、太子は「静かにせよ!」と筆でカエルの片目を突いた。 すると、聖徳太子の神通力により、法隆寺のすべての蛙はすべて片目になってしまったと言われています。 6夢殿の礼磐(坊さんがすわる石)の下が汗をかく 夢殿の救世観音像の前に、礼盤と呼ばれるお坊さんが座る台があります。 この礼盤は毎年2月に外に出して太陽の光を当てますが、不思議なことに汗のような水分が染み出て来るそうです。 この行事は「夢殿のお水取り」と呼ばれ、その水分の量でその年が豊作か凶作を占うことになっています。 雨だれが落ちても穴が地面に出来ない 雨が降れば、当然屋根から落ちる雨水が、直接地面に落ちます。 軒下には当然、雨が落ちて雨だれの穴が出来るのですが、法隆寺にはそれが出来ないと言われています。 実際は、雨だれが当然見られます。 法隆寺は、水はけのよい土地であり、境内がきめ細やかに整備されていたことを示すための伝説だと思われます。 裏の七不思議 上記の有名な七不思議は、法隆寺でも公認の七不思議です。 しかし、もう一つ七不思議があるのをご存知でしょうか?これは、梅原 猛 氏が考えた歴史的に見た七不思議で、裏の七不思議と言ってもいいかもしれません。 「日本書記」にある法隆寺の記述があいまいな点 これほど規模も大きく用明天皇が創建したお寺と伝えられているのに、日本書紀に法隆寺創建にまつわる記事が一つも無いのは、不自然で政治的な意図が考えられると言われています。 厳格であるべき「法隆寺資材帳」(寺の財産目録帳)の記述があいまいなこと 日本書紀には、法隆寺の火災と焼失の記載があるのに関わらず、資材帳には再建に関する記述がない。 これも政治的な意図が隠されているとされています。 中門の真ん中に不自然に柱があること 中門の中央に行く手を阻むように真ん中に柱があります。 これは異様な構造と考えられる。 中央を柱で塞ぐようにすると、怨霊が外に出るのを防ぎ封印する意味があるとしています。 金堂に三体もご本尊があること 一つのお堂にご本尊が三体あるのは不自然で、そのご本尊である仏像たちの衣装や印などが従来の仏像と比較して多くの不自然な点が見受けられると言っています。 五重塔に不自然なことが多すぎること 塔の柱の穴から火葬された人骨が出てきたが、それは誰なのでしょうか?また、舎利器の中にあるはずの舎利が存在しないのは、なぜなのでしょうか?とても不可解ですね。 夢殿にある救世観音がなぜ秘仏だったのか なぜ、夢殿を建てる必要があったのか?そして、なぜ救世観音像は秘仏とされ、白布で巻かれて封印されていたのか? 7. 聖霊会(しょうりょうえ)に関する謎 聖霊会とは、聖徳太子の命日に行なわれる魂を供養する法要です。 そして、舞楽『蘇莫者』が奉納されますが、その舞楽の主役が怨霊の姿をしており、不自然であると考えられます。 これらの不思議を紐解いていくと、法隆寺そのものが実は、聖徳太子の祟りを恐れ、怨霊を封じ込めるために建てられたという結論になります。 法隆寺という日本が世界に誇る古寺に怨霊の世界があるとする主張は、大変興味深くとても斬新な七不思議です。 謎を秘めたミステリアスな法隆寺をぜひその目で! いかがでしたでしょうか?1400年を持つ古寺には、さまざまなロマンと謎があります。 世界最古の建物郡や謎を秘めた数々の仏像。 ぜひ、斑鳩の里に足を運んで古代のミステリアスな歴史をご自身の目で確かめてみて下さい。 新たな謎に出会えるかもしれませんよ。

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近鉄で法隆寺にアクセスする方法!バスも使って案外楽ちん!

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法隆寺について 法隆学問寺とも、斑鳩寺とも称する南都七大寺の一つ。 木造建築物では世界最古であり、ユネスコの世界文化遺産に姫路城とともに、日本ではじめて登録された。 推古天皇の時代に聖徳太子により建立され、飛鳥時代を始めとする各時代の貴重な建造物や宝物類が広大な境内に存在している。 必ずご自身で事前にご確認の上、ご利用ください。 営業期間 拝観時間:2月22日〜11月3日 8:00〜17:00 入場は閉門の30分前まで 拝観時間:11月4日〜2月21日 8:00〜16:30 入場は閉門の30分前まで 所在地 〒636-0115 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 0745-75-2555 交通アクセス 1 法隆寺駅から徒歩で20分 2 法隆寺駅からバスで5分(法隆寺門前バス停下車すぐ)• 法隆寺を含むこのエリアは日本での世界遺産認定第1号だそうです。 斑鳩の里、世界最古の木造建築群、法隆寺。 飛鳥時代の建築物、金堂や五重塔のある「西院」と、夢殿のある「東院」のエリアがあります。 ふたつのエリアの間に宝蔵院などがあるので、見学しながらゆっくり歩いて巡ると良いと思います。 法隆寺には、梅原猛の著書『隠された十字架』に見るように、多くの謎がありますよね。 太古のロマンへの興味をかきたててくれる斑鳩の里です。 法隆寺の山門の仁王像がものすごい迫力で(2019年8月現在営繕中)今にも動きそうな躍動感にあふれており印象的でした。 駐車場は周辺に結構あります。 門前の大通りの両脇はお土産屋さんや食堂などが多くありました。 観光MAP• horyuji.

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「法隆寺」。 今から、1400年以上も前に創建され、かの有名な聖徳太子ゆかりのお寺としても知られています。 この長い歴史を持つお寺は、現存する世界最古の木造建築であり、世界文化遺産に登録されています。 そして、沢山の謎に包まれたお寺でもあります。 日本でも1. 2位を争う屈指の古寺であり、謎多き法隆寺の歴史を一緒に紐解いていきましょう。 法隆寺の成り立ちとは 当時、仏教は日本でNEW FACEだった! 法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある古寺です。 今から1400年以上前に創建されましたが、誰がどのような目的で建てたのでしょうか?一般的に聖徳太子(しょうとくたいし)が創建したと思われがちですが、実際は、聖徳太子のお父さんである用命天皇(ようめいてんのう)が創建を命じたと伝えられています。 1400年前は、飛鳥時代(あすかじだい)と呼ばれていた時代です。 まだ、仏教は日本には深く浸透していませんでした。 その頃の日本は神道が主流で、中国から渡来した仏教は広まり始めたばかりで、日本人の心に新しい文化として人気が出始めた時代でした。 そのため、仏教により国家を守護・安定させる力があるとする思想を元にした国家鎮護(こっかちんご)の寺院は存在していませんでした。 法隆寺が創建された理由も607年に聖徳太子の父である用明天皇が自身の病気平癒(びょうきへいゆ)を願って、後に妹にあたる日本初の女性天皇となる推古天皇(すいこてんのう)と息子である幼少の聖徳太子(しょうとくたいし)に命じて建立されたと言われています。 法隆寺は、本堂と五重塔を中心とする西院伽藍(さいいんがらん)と夢殿を中心とする東院伽藍(とういんがらん)とにわかれています。 西院伽藍は現存する木造建築の中で、世界最古と言われています。 お寺の広さは、約18万7千平方メートルもありその東京ドーム4個分の境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の最高峰の仏教建築物が軒をつらねており、国宝が約38件、重要文化財に指定されたものが約190件眠っています。 そして、1993年に日本ではじめて「法隆寺地域の仏教建造物」がユネスコの世界遺産に登録されました。 まさに日本が世界に誇れるお寺の一つですね。 一度、全焼してしまったの?法隆寺! 明治半ばまでは、法隆寺の金堂や五重塔などがある西院伽藍は、創建されてから一度も消失されていないと伝えられてきました。 しかし、法隆寺は一度すべて火災で焼失されたことがわかったのです。 そのことは、日本書紀に記録が残っており、670年4月30日のページに「夜半災法隆寺、一屋無余、大雨雷震」(暁に法隆寺で出火があった。 一屋も残らず焼けた。 大雨が降り雷鳴が轟いた)とあり、創建わずか64年後に一夜にして焼失したことが書かれています。 そして、焼失後は710年前後に再建されたと言われています。 この記事の真偽をめぐって、長い間論争が起きました。 現在ある法隆寺西院伽藍は用明天皇が命じた創建時のままであるとする説、 670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立しました。 それは、1887年(明治30年)頃から1939年(昭和14年)まで続きました。 そして、結果は発掘調査の結果や建築用材の伐採年代の科学的な調査から裏付けされ、現存する法隆寺西院伽藍は焼失した後に再建されたものであるということが定説となりました。 ところが、2001年に五重塔の解体修理がはじまり、その際に腐食して取り出された心柱の標本を「年輪年代法」と呼ばれる測定法で測定したところ、594年に伐採されたヒノキ材であることが判明しました。 この結果を見ると、670年に起きた火災で全てが焼失して、710年頃に再建されたとされる再建論に再び疑問が生じてきたのです。 710年に法隆寺が再建されたと考えると594年に切られた木がなぜ使われているのでしょうか?また再建論・非再建論の論争が再び起こりそうだと考えられています。 しかし、どちらにしろ世界最古の木造建築物には違いなく、貴重な建物群であることには変わりありません。 このように古寺には、様々な謎が生まれます。 それを科学の力で紐解くのも私たち現代人の楽しみなのかも知れませんね。 聖徳太子って何者? 聖徳太子ってなんで有名なの? 法隆寺を語る上で、「聖徳太子」は欠かせない人物です。 法隆寺は、別名「斑鳩寺」(いかるがでら)とも言われています。 聖徳太子一族は、斑鳩の地に宮を建てて住んでいたとされており、法隆寺の夢殿を中心とする東院伽藍は、その斑鳩宮の跡地に建てられています。 法隆寺は、創建は聖徳太子のお父さんの命令でしたし、建立された場所は聖徳太子が住んでいた跡地でした。 以上のように法隆寺と聖徳太子は深い関係があるのです。 聖徳太子とは、どのような人物だったのでしょうか? 昭和の時代を生きてきた方ならご存知だと思いますが、百円札、その後は千円札、五千円札、一万円札の肖像となったとても有名な聖徳太子。 誰もが知る歴史上の人物ですが、実際に何をした人かについてはあまり知られていません。 聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ)は、西暦574年、用明天皇の第二子として誕生しました。 幼名は厩戸豊聡耳皇子(うまやどとよとみみおうじ)と言いました。 聖徳太子が世に残した偉業は以下の3つが有名です。 有名な小野妹子が派遣されたのです。 当時の倭国(日本)は、随からみたら、小さな島国で格下の存在でした。 その随に「対等に外交をしましょう。 」と提案したのです。 随の皇帝は、激怒したが受け入れ対等の外交をしたと伝えられています。 その当時の日本は、家柄によって位は決まっていました。 親が偉ければ子も偉いまま、貧しければ貧しいまま。 それを親の身分など関係なく、能力がある者が平等に出世できるような新しい制度をつくったのです。 そして、誰が見ても冠の色で、その役人がどのくらい偉い位なのかが一目で分かるように12色の冠をつくって区別しました。 とても画期的でわかりやすい制度ですね。 当時の日本は、皇位継承権を巡って豪族同士が戦っていたりと国家として危うい状況にありました。 そこで、「和」がなによりも大切で、皆で相談し争いを起こさず仏教の教えを尊びましょう。 と国家の代表的存在である役人の心構えを示したものでした。 以上のように聖徳太子は、当時の日本では最先端の考えを持ち、日本を導く素晴らしい政治家だったのです。 実は聖徳太子はいなかった? 飛鳥時代のスーパースター聖徳太子。 最近になり「聖徳太子は実はいなかった。 」という説が出ているのをご存知ですか?それは、奈良時代に成立した日本の歴史書、日本に伝存する最古の正史といわれる「日本書紀」にある厩戸皇子の記載が不自然な点が多いことが原因です。 日本書紀において厩戸皇子は特別視されているように思われます。 それは、以下のような点です。 また、「聖徳太子」という名前は、厩戸皇子の死後かなり月日が経ってから付けられてた称号なので、日本書紀などには聖徳太子とは記載が一切ありません。 生まれた時から話すことができた。 1度に10人の相談を聞いて間違えないですべて理解できた。 また、未然(未来のこと)を知っていた。 など、不自然に神格化されています。 「日月失輝、天地既崩。 自今以後、誰恃哉。 」(日と月は輝やかなくなり、天地が崩れました。 今後、私たちは誰を頼ればいいか。 )とまで書かれています。 他の天皇や皇子が亡くなった際にはそのような記載はありません。 以上のように、日本書紀の編纂者は、わざわざ幾つもの名で曖昧に名前を表記したのか?不自然なほどの聖人伝説を記載したのか?民衆から慕われていたことを誇示したのか?そもそも厩戸皇子自体が存在したのか?と疑問が持たれているのです。 日本書紀は、720年に完成したと言われています。 その時の政治の中核にいた人物は、有名な藤原不比等(ふじわらふひと)です。 平安時代まで続く栄華の藤原氏を築いた人物。 その藤原不比等の父は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)。 645年、中臣鎌足は「大化の改新」(たいかのかいしん)で蘇我氏を滅ぼしました。 そして、その蘇我氏は聖徳太子の一族を滅ぼしたと言われています。 ここまで、読んでお分かりになりましたでしょうか?藤原氏は、自分たち一族が行なった所業を正当化するために、架空の偉大な皇子を造り上げたと考えられないでしょうか?「偉大な皇子を滅ぼした悪い一族である蘇我氏を私たち藤原氏が倒した」のだと。 しかし、これはあくまでも仮説にすぎません。 真実は今はもう誰もわかりません。 古代史は、文献が少なく解釈も様々でたくさんの仮説が立てられ調査されています。 これからも、いろいろな謎や真実が出てくることでしょう。 古代の歴史が少しずつ紐解かれるのが楽しみですね。 「五重塔」は世界で一番古い木造建築! 世界には約196の国があると言われています。 その世界中で法隆寺は、一番古い木造建築物なのです。 まさしく「世界の宝」といえるのではないでしょうか? 法隆寺のすべての建物が世界最古ではありません。 飛鳥時代に創建された西院伽藍である「五重塔・金堂・中門・回廊」の四つが世界最古の建物です。 詳しく見ていきましょう。 まずは、法隆寺のシンボル五重塔。 この五重塔は、仏教の開祖であるお釈迦さま(おしゃかさま)の遺骨を祀るために造られた塔である「仏塔」の形式の一つです。 五重塔は、下から順に地、水、火、風、空の5つの世界を表しているとされ、仏教的な宇宙観を表現しています。 このように五重塔は、仏教寺院においてとても重要な建物とされています。 法隆寺の五重塔は、高さ約32メートルあり、日本だけでなく世界最古の五重塔です。 この五重塔の中にもお釈迦さまの遺骨(仏舎利)が安置されていると言われています。 地下1. 5mの深さにある建物の礎石上部に仏舎利容器が納められおり、その舎利容器の中には釈迦の遺骨が6粒納められているそうです。 (本当にお釈迦様の遺骨かは、わかっていません。 )その安置方法が、古代インドに伝わる正統な方法と全く同じで、それが残っているのは大変珍しく奇跡と言われています。 この五重塔には、檜(ひのき)が使用されており、1400年以上にわたって天災、人災に耐え抜いてきました。 それは、とても高い建築技術によるものです。 この五重塔は、「積み上げ構造」といわれる建築様式を採用しています。 名前の通り各重ごとに積み上げていく方法です。 ただ各階を単純に重ねていき、取り付け具で留めているだけ。 塔の真ん中には、一本の柱が長く天に伸びて通っているようにみえますが、これは各重とは切り離されている構造で実際には、繋がっていません。 この構造は、大変地震に強いしくみだそうで、地震が起きても各重が互い違いに揺れて、振動を吸収する構造になっています。 この建築方法は、なんと現代の高層ビルでも採用されているとか。 1400年以上前の匠の技!素晴らしいですね。 そして、現代の東京のシンボルであるスカイツリーを建築する際にも、同じ技法が採用されているそうです。 まさしく国の宝!金堂とは? 五重塔と同じく法隆寺のシンボルといえば「金堂」(きんどう こんどう)。 法隆寺のご本尊を安置している聖なる場所とされています。 そして、五重塔と同じく飛鳥時代に創建された世界最古の木造建築物です。 威風堂々とした建物は、全体の形は正方形に近く、二層の入母屋造り。 上の屋根は2方向に、下の屋根は4方向へ勾配している姿はとても美しく、また当時でも珍しい造りとなっています。 上の屋根と下の屋根をつなぐ支柱に巻き付けられた龍の彫り物も圧巻なので、ぜひ一度その目で確かめて下さいね。 また、この金堂の建築の中でも、一際注目すべきは「エンタシスの柱」です。 エンタシスというのは、遥か遠くギリシャのパルテノン神殿で使われていた技法。 柱の中央に膨らみをもたせる技法のことです。 この技法が、日本の法隆寺の金堂、中門、回廊の柱に使用されています。 古代ギリシャ発祥の建築方法は、中国を経て、日本に渡来してきたのでしょうか?奈良はシルクロードの終着点だったと言われており、ペルシャなど西域の人も多く、様々な国の人々が渡来した国際都市だったとも考えられています。 そのため、このようなヨーロッパの技法も伝わってきたのでしょうか?ペルシャから伝わってきたのか、日本人の美意識から造られたかは定かではありませんが、日本の歴史は奥深くとてもロマンチックですね。 この法隆寺の金堂の中は、何が納められているのでしょうか?最初に書いたようにご本尊などが安置されています。 作者は日本最初の仏師として歴史に名を留める仏師鞍作止利(くらつくりのとり)。 面長で、杏仁形(アーモンド形)の眼をしており、穏やかな笑みを浮かべるように見える唇(アルカイック・スマイル)、長く伸ばした爪など大陸から伝わってきた古い仏像の特色が強く出ています。 この仏像の光背銘(仏像の背中に付いている丸いものに書かれた文章)に、「病気になった用明天皇は、586年に寺(「法隆寺」と明記はされていない)と薬師像を造ることを願ったが、それを果たさないうちに亡くなったので、後を継いだ推古天皇と聖徳太子が607年に薬師像と寺とを造った」という意味のことが書かれており、法隆寺の建立の起源がここに記載されていると言われています。 他にも、聖徳太子の母のために造られたと言われる金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)やそれを守護するように造られた日本最古の四天王像(白鳳時代)など多くの国宝が安置されています。 ぜひ、遥か1400年前の癒しのアルカテックスマイルをご自身の目で確かめてみて下さいね。 聖徳太子一族は、主権争いのため蘇我入鹿に攻められ、全員が自害して滅びました。 滅んだ後、斑鳩宮跡は荒廃していました。 739年(天平11年)頃、それを嘆いた行信(ぎょうしん)という僧が「上宮王院」としてその地に寺を創建したといわれています。 後日、この上宮王院が法隆寺に統合され、現在に至ります。 回廊(建物や中庭などを取り囲むように造られた廊下)に囲まれた八角形の「夢殿」を中心に、回廊の南面には「礼堂」、回廊の北面には「絵殿」「舎利殿」が建立され、少し離れて「伝法堂」が建っています。 その東院伽藍の中心である「夢殿」。 それほど大きくはない建物ですが、古くから多くの人々の心を引きつけ、聖徳太子信仰の聖地とされています。 この夢殿は八角形になっており、絶妙なバランスで見た目も素晴らしいお堂です。 八角形は、何か深い意味がありそうですよね?中国の八方位陰陽説で、八角形はその角を繋いでいくと円に近いかたちになるとされ、非常に縁起が良いと考えられていたそう。 また、円のお堂は故人を供養する堂の形の典型とも言われています。 このお堂が「夢殿」と呼ばれるようになったのは平安時代以後ですが、その名の由来は、かつて聖徳太子が創建された当時の法隆寺に参籠し、瞑想(めいそう)にふけった際、金色に輝く人が現れる夢を見たという故事に基づいたとされています。 夢殿は聖徳太子を供養する聖地であると同時に、聖徳太子が見た夢そのものとも言えますね。 謎多き秘仏!封印されていた救世観音 法隆寺にある数々の素晴らしい仏像の中で最も謎に満ちている仏像が、夢殿に安置されている「救世観音像」(くぜかんのんぞう)。 739(天平11)年に夢殿に納められたとされる救世観音像は、とてもミステリアスで人間味を帯びた仏像です。 この救世観音像は長い間秘仏とされ人の目に触れることはありませんでした。 江戸時代では、約200年の長きに渡り法隆寺の僧侶でさえも拝むことができない絶対の秘仏だったそうです。 理由は、明らかになっていません。 秘仏の封印を解けば祟りで天変地異が起こると伝えられていたとか。 この秘仏の封印は、1884年(明治17年)アメリカ人で東洋美術史家のアーネスト フェノロサによって解かれました。 フェノロサたちは、明治政府の依頼で公式の寺院などの宝物調査を行っていました。 フェノロサは、法隆寺の僧侶たちに観音像の開帳をお願いしましたが、祟りを恐れ僧侶たちは頑に拒んだと言われています。 何度か説得を試みて、最後にはフェノロサの要求が受け入れられました。 厨子(仏像が安置されている箱)の扉を開くと僧侶たちは、恐怖のあまり皆逃げてしまったと言われています。 観音像は、包帯のように木綿の布で幾重にもグルグル巻きにされており、その布の長さは、450メートルもあったと記録されています。 布をすべて取り除くと、金箔に輝くすらりと背丈の高い飛鳥仏が姿を現しました。 そのアルカテックスマイルを浮かべた穏やかな眼差しは、その場にいた者すべてが魅入られたとされています。 この観音像には、もう一つ不可解な点があります。 それは光背(仏像の後ろにある丸い光を表したもの)の付き方。 通常、仏像の光背は 、足元の台座から支え木で仏像の頭部まで持ち上げられているのが一般的。 しかし この救世観音像は 頭に直接釘が打たれ、光背が打ち付けられているのです。 尊い仏像の頭に直接釘が打たれているのは、おかしいと思いませんか? このように何百年も秘仏とされていたり、頭に釘を打たれていたりと救世観音には、不気味とも言える謎が沢山あります。 他の仏像よりも生々しく人間味を帯ているこの救世観音は、現在でも年2回、私たちも実際に見ることが可能です。 春と秋の特別展に足を運んではいかがでしょうか? 表の七不思議 法隆寺には、中世から伝わる七不思議があります。 とても興味深いものなので、詳しくご紹介します。 法隆寺の伽藍には、蜘蛛が巣をはらず、雀が糞をかけない 実際は、蜘蛛が巣をはりますし、鳥のフンもあるそうです。 これは法隆寺を綺麗な状態で清いお寺に保とうという僧侶たちの心持ちを表したものだと言われています。 南大門の前に鯛石と呼ばれる大きな石がある 南大門の階段を下りると、すぐに魚の鯛にそっくりな石が埋め込まれています。 そこにこのような石があるのか謎のままですが、伝承としては、どんなに大雨が降ってもここまでしか浸水はせず、法隆寺を守っている「守り石」であると言われています。 五重塔の上に大鎌が刺さっている 五重塔のてっぺんに屋根から天に向かって突き出た金属製の相輪があります。 そこに4本の大鎌ががっちり固定されています。 このような鎌が刺さっているのは日本全国探しても法隆寺の五重塔だけ。 諸説ありますが、避雷針と同じ役割を果たしていると考えられます。 また、雷は古来より魔物の象徴と見ることが多く、この鎌は「魔除け」の意味も持っているとされています。 またこの鎌が上向きに見えるとその年は米が豊作になり、下向きに見えると凶作であるとも言い伝えられています。 不思議な伏蔵(隠された蔵)がある 法隆寺には、「伏蔵」と言われる地下に隠された蔵があります。 これは伝説ではなく、実際にあります。 伏蔵を封ずる石蓋が地上に出ているので、現代の私たちも伏蔵の場所を知ることが出来ます。 しかし、「法隆寺存亡の一大事の時しか開けることが出来ない」と伝えられており、頑にその教えを守っているので誰も中身を見た者はいません。 法隆寺の蛙は、片目しかない 昔、因可池 よるかのいけ という池があったそうです。 聖徳太子がその池の側で学問に勤しんでいた時、カエルがうるさかったので、太子は「静かにせよ!」と筆でカエルの片目を突いた。 すると、聖徳太子の神通力により、法隆寺のすべての蛙はすべて片目になってしまったと言われています。 6夢殿の礼磐(坊さんがすわる石)の下が汗をかく 夢殿の救世観音像の前に、礼盤と呼ばれるお坊さんが座る台があります。 この礼盤は毎年2月に外に出して太陽の光を当てますが、不思議なことに汗のような水分が染み出て来るそうです。 この行事は「夢殿のお水取り」と呼ばれ、その水分の量でその年が豊作か凶作を占うことになっています。 雨だれが落ちても穴が地面に出来ない 雨が降れば、当然屋根から落ちる雨水が、直接地面に落ちます。 軒下には当然、雨が落ちて雨だれの穴が出来るのですが、法隆寺にはそれが出来ないと言われています。 実際は、雨だれが当然見られます。 法隆寺は、水はけのよい土地であり、境内がきめ細やかに整備されていたことを示すための伝説だと思われます。 裏の七不思議 上記の有名な七不思議は、法隆寺でも公認の七不思議です。 しかし、もう一つ七不思議があるのをご存知でしょうか?これは、梅原 猛 氏が考えた歴史的に見た七不思議で、裏の七不思議と言ってもいいかもしれません。 「日本書記」にある法隆寺の記述があいまいな点 これほど規模も大きく用明天皇が創建したお寺と伝えられているのに、日本書紀に法隆寺創建にまつわる記事が一つも無いのは、不自然で政治的な意図が考えられると言われています。 厳格であるべき「法隆寺資材帳」(寺の財産目録帳)の記述があいまいなこと 日本書紀には、法隆寺の火災と焼失の記載があるのに関わらず、資材帳には再建に関する記述がない。 これも政治的な意図が隠されているとされています。 中門の真ん中に不自然に柱があること 中門の中央に行く手を阻むように真ん中に柱があります。 これは異様な構造と考えられる。 中央を柱で塞ぐようにすると、怨霊が外に出るのを防ぎ封印する意味があるとしています。 金堂に三体もご本尊があること 一つのお堂にご本尊が三体あるのは不自然で、そのご本尊である仏像たちの衣装や印などが従来の仏像と比較して多くの不自然な点が見受けられると言っています。 五重塔に不自然なことが多すぎること 塔の柱の穴から火葬された人骨が出てきたが、それは誰なのでしょうか?また、舎利器の中にあるはずの舎利が存在しないのは、なぜなのでしょうか?とても不可解ですね。 夢殿にある救世観音がなぜ秘仏だったのか なぜ、夢殿を建てる必要があったのか?そして、なぜ救世観音像は秘仏とされ、白布で巻かれて封印されていたのか? 7. 聖霊会(しょうりょうえ)に関する謎 聖霊会とは、聖徳太子の命日に行なわれる魂を供養する法要です。 そして、舞楽『蘇莫者』が奉納されますが、その舞楽の主役が怨霊の姿をしており、不自然であると考えられます。 これらの不思議を紐解いていくと、法隆寺そのものが実は、聖徳太子の祟りを恐れ、怨霊を封じ込めるために建てられたという結論になります。 法隆寺という日本が世界に誇る古寺に怨霊の世界があるとする主張は、大変興味深くとても斬新な七不思議です。 謎を秘めたミステリアスな法隆寺をぜひその目で! いかがでしたでしょうか?1400年を持つ古寺には、さまざまなロマンと謎があります。 世界最古の建物郡や謎を秘めた数々の仏像。 ぜひ、斑鳩の里に足を運んで古代のミステリアスな歴史をご自身の目で確かめてみて下さい。 新たな謎に出会えるかもしれませんよ。

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