山本 浩二。 山本浩二と秋山幸二でトータルでどちらが凄かったですか?

法大三羽ガラス 山本浩二氏も田淵氏祝福「天国の仙も喜んでいる」― スポニチ Sponichi Annex 野球

山本 浩二

元広島監督の山本浩二氏(72)が長期療養していることが明らかになった。 29日に「サントリー・ドリームマッチ」が東京ドームで開催されたが、「ザ・プレミアムモルツ球団」監督の山本氏は欠場。 司会の徳光和夫アナウンサー(78)が「体調不良のために、残念ながら欠席されました。 本当に本人も残念がっておりました」と発表した。 山本氏は3月29日の今季開幕戦・広島-巨人(マツダ)、4月16日の巨人-広島(鹿児島)で日本テレビの中継の解説を務めた。 同28日の巨人-DeNA戦(東京ドーム)も当初は名前があったが、元阪神の赤星憲広氏(43)に変更。 以降は3カ月も公の場に姿を見せていない。 年に1度の「サントリー・ドリームマッチ」には昨年まで18回出場。 このイベントに欠かせない1人だが、そこに出て来られないとあって、多くの球界関係者から「同い年の衣笠(祥雄)さんや、星野(仙一)さんが亡くなっているし、浩二さんは大丈夫かな?」と心配する声が挙がった。 現役時代からの盟友で、この日監督代行を務めた東尾修氏(69)は「今日の昼に電話で『私が代行しますんで』と話しましたよ。 勝ってよかった」と7-2の勝利にホッとした表情。 現役時代に広島で同僚だった池谷公二郎氏(67)は「浩二さんは東京に住んでいて、こっちは広島だから会ってはいないけど、電話で話はしている」と明かす。 日本テレビは8月に巨人戦を13試合行うが、解説に山本氏の名前はない。 ミスター赤ヘルの元気な姿を誰もが待ち望んでいる。

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衣笠さんと山本浩二氏は実は“犬猿の仲”だった 元ニッポン放送アナ・深澤氏が明かす (1/2ページ)

山本 浩二

経歴 [ ] プロ入りまで [ ] 実家が当時のの練習場であったと選手寮(秀鷹寮)の近くでパン・菓子屋を営んでおり 、幼少期は南海選手から可愛がられていたと、が野球中継解説時に語っている。 また、実父は当時の監督であったと懇意にしており、二軍選手はもちろんのこと、上記の皆川以外にも、、らの主力選手もからもよく声をかけられていて、「功児、合宿所に遊びに来い」と度々誘いを受け、選手寮の食堂で選手たちと食事をともにするだけでなく、帰る前に湯船に浸かっていくこともあったという。 その中でも特に可愛がっていたのは穴吹で、堺市の浜寺公園にあった自宅にも、ちょくちょく招いてもらっていた。 では1年生からレギュラーとなる。 エースを擁し、五番打者、一塁手として決勝に進出するが、に敗れる。 3年次にのに出場。 準々決勝に進出するが、の()に抑えられ、1-2で惜敗。 同年夏は県予選準々決勝でに敗退。 1学年後輩に(元・)、2学年後輩に(元近鉄)がいた。 でオフに監督に就任したから度々誘いを受け、地元の球団の南海ホークスから3位指名(1位は、2位は)を受けるも拒否し、に進学。 理由は法政大学に進学した兄がプロ入り出来なかったことで、「法政の野球部はそんなにレベルが低いところなのか」を試す為であった。 ではら強力投手陣を擁し、2年生までに3度の優勝を経験するが、その後は優勝に届かなかった。 リーグ通算86試合出場、282打数79安打、打率. 280、3本塁打、44打点。 ベストナイン(一塁手)2回。 、には日本代表に選出されている。 大学同期にの前村泰正()、の佐々木幸治()らがいる。 卒業後はに入社。 には、にはの補強選手としてに連続出場。 1974年のにも出場し、本塁打を放った。 には第2回日本代表に選出されている。 同年、ドラフト5位でに入団。 現役時代 [ ] 1年目のから一軍で起用されるが、本来の守備位置である一塁手にはがおり、外野手も兼ねて出場機会の確保を目指す。 のとのでは第4戦の7回にとして起用され、から自身のシリーズ初安打を放つ。 には主にとして51試合に先発出場、打率. 291の好成績を残した。 同年オフの監督による「」にも参加する。 同年からにかけ、7試合に四番打者として起用された。 王の引退後のにはと一塁手の定位置を争う。 守備には定評があったが、打撃面での不調もありレギュラーは奪えなかった。 の戦では代打として出場、を相手にショートフライに打ち取られると思いきや、中日ののがまさかの失策を犯してしまい、山本もを一周して同点となる本塁を目指したが、本塁で刺殺された。 詳細は「」を参照 の中日戦では星野からサヨナラヒットを打った。 同年は主にとして70試合に先発を果たす。 、との交換トレードでへ移籍。 同年は開幕から一塁手、五番打者に定着し、初めてに到達、打率. 301(9位)を記録している。 翌も中心打者として活躍、1984年から2年連続でを受賞した。 はシーズン序盤に故障欠場するが、その後は中日に移籍したに代り、23試合に四番打者として起用される。 しかしにはが一塁手に定着、コーチ兼任となり同年限りで現役を引退した。 引退後 [ ] ~までロッテの一軍打撃コーチ、は二軍打撃コーチ、~まで再び一軍打撃コーチ、~まで二軍監督を経て~までロッテの監督を務めた。 監督辞任後、一家でに移住する予定であったが、巨人時代の先輩であるが2003年オフの巨人の一軍監督へ就任し、堀内監督からの要請があったため、に二軍ヘッド兼打撃コーチとして巨人に復帰、からは一軍ヘッド兼打撃コーチとなるがチームの不振で堀内監督は辞任し、山本も同年限りで退団した。 ここで初めて現場から離れたこととなり、復帰もなかった。 翌年のからまで野球評論家、ラジオ日本野球解説者を務めた。 に慢性心不全を発症してからは病院への入退院を繰り返しながら療養に努めていたが、長男の武白志(むさし)がへの進学を機に同校のある福岡県へ妻と共に移住した。 10月から12月まで「と題して、『』紙上で半生を振り返るコラムを連載した。 、肝臓癌のため北九州市内の自宅で死去した。 64歳没。 指導者として [ ] 山本の指導者としての経歴は、現役最終年となる88年の選手兼任打撃コーチに始まり、二軍打撃コーチ、二軍ヘッドコーチ、二軍監督、一軍打撃コーチ、一軍ヘッドコーチ、一軍監督と指導者としてのすべてのポジションを経験するという稀有なキャリアを持つ。 特に巨人に復帰した2004年の二軍ヘッド(のちに打撃コーチ兼任)というポジションは通常ありえない役職であった。 この二軍ヘッドコーチという役職はすでに組閣を終えた後に、堀内監督が山本をどうしても復帰させたい、としたため急きょ作ったものであった。 翌2005年には一軍ヘッド兼打撃コーチに昇格した。 ロッテの二軍打撃コーチ時代の1994年開幕直後、山本は当時高卒入団1年目の投手で共に打撃センスがあったとの二人を呼び出しバッティング練習をさせ、福浦に「おまえ、今すぐにバッターへ転向しろ」と福浦に打者転向を命じた。 福浦は当初は拒否したが、その後も山本は執拗に福浦に打者転向を迫り、オールスター明けには打者に転向させた。 福浦は「ある意味で、山本さんに無理やりという感じじゃないですか(笑)。 」と振り返っている。 なお、小野はその後も投手として活躍している。 ロッテの監督としての選手起用については、当初はやなど生え抜きの若手を積極的に起用したものの決定的な実力不足を痛感し、ベテラン勢や外部補強選手を中心に戦いながらや、などの台頭を気長に待つことになる。 こうして監督を務めた5年間、チームは全て5位か4位に終わっているが、年々勝率を上げ2003年には借金1にまでチームを戻したところで辞任した。 特に2003年の9・10月は22勝8敗1分で勝率. 733という好調ぶりだった。 二軍監督から一軍監督時代の間に獲得・育成した選手が第2次政権下でのリーグ優勝・日本一に貢献する事となり、その手腕が評価された。 山本は熱血漢ゆえにファンや審判とやり合うことも多く、2002年3月19日のオープン戦で塁審に「しっかり見ろよ、川口。 このタコ! 」と暴言を吐いて退場となった。 オープン戦で監督が退場処分を受けるのは、1982年の阪神監督以来20年ぶり2人目だった。 さらに、2003年9月9日にも同じく川口審判に暴言を吐いて退場となった。 また、2003年5月31日のダイエー戦で、小林宏の(登板過多による)故障を危惧した女性ファンが試合終了後に「壊れちゃう」と山本に言い寄ったところ、山本が「(小林宏は)2日休んでるんだ、バカヤロー! 」とやり返した。 ほか、「立川の打順は下げたんじゃない。 勝手に下がったんだ! 」 など名言には事欠かない。 退団が決まった2003年の最終戦では、選手側から「試合後に監督を胴上げしよう」という提案があった。 そして試合終了後、胴上げをするべく選手達がベンチから出ようとしたところ、山本は「胴上げは次の監督にやってあげてくれ。 ありがとう」と涙ながらに固辞した。 そして2年後()、チームは31年ぶりのリーグ優勝を果たし次期監督であるの胴上げが実現した。 エピソード [ ] この節に。 事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または。 ( 2011年7月)• 打席に入り構える際に身体を幾度かの様に左右に揺らす(但しを持つ手は不動)独特の構えがあった。 現役当時、山本の法政大学野球部の5学年先輩に当たるの4番打者であると同音の姓名であったため、主に広島戦で偽物を意味する『 ニセこうじ』と野次を飛ばされることが多々あった。 また、ジャイアンツ内でもという同姓同名の捕手が在籍していたため区別するのが困難であった(背番号も功児と一番違いの43番)。 『ニセこうじ』と呼ばれた事に対しては、「偽者と野次られるのも、同姓同名の偉大な先輩がいてこそ」と、山本浩二への尊敬の念も含めて答えていた。 巨人選手時代、控えとなる場合が多い中、元同僚で阪神へ移籍したには抜群に相性が良く、小林が登板する試合にはフル出場する事が多かった。 44という背番号については、「と同じ番号で気に入っている」と言い、巨人時代、活躍を認められて小さい番号に変更する話もあったもののこれを拒否し、ロッテに移籍後も同じ番号を背負い続けた。 好きな歌はで有名なである。 のファンでサインを貰い少年の様に喜んでいた一幕があった。 人情味があって熱血漢な性格である。 ロッテの監督時代に戦で相手の野次に対し、日本ハムの監督とベンチ越しで野次の応酬をしていた。 のシーズン最終戦、当時ロッテのフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きたとき、「何で最後の試合の前に…。 こんなことがあってはいかん。 」 という怒りのコメントを述べている。 このとき、山本はすでに監督解任が決まっており、山本自身も最後の試合であったがこのように部下への気遣いから怒りをあらわにするような性格であった。 コーチ、監督時代、1時間でも2時間でもつきっきりで打撃指導するなど指導熱心であった(スタンドのファンから「山本イズム」と書かれた垂れ幕が掲げられた)。 だが、その一本槍の性格がゆえに監督になってから一打席ヒットが出ないだけで、すぐに選手のバッティングフォームを変えさせようとするなどして首脳陣との軋轢が生じ、オフに退団するコーチが多かった。 また、一本槍な性格がゆえに、思い込みから失言してしまうこともあった。 が浦和で怪我と闘っていた時期、マスコミに復帰時期を尋ねられ、「練習していない人間を一軍に上げるわけにはいかない」と発言した。 チームの成績は低迷したが、上記の性格もあり選手からも慕われていた。 特に山本に見出され巧打・巧守の一塁手として主力選手に成長した福浦は、子供の名前の一部に「功」の字を入れるほどである。 の対広島戦においてロッテのが通算150セーブを達成したとき、小林雅はヒーローインタビューで「山本監督に感謝しています」と発言があった。 山本が慢性心不全を発症したの時点で、長男の武白志は小学4年生(10歳)であった。 当時、自宅で武白志の打撃練習に立ち会っていた山本は心臓への負担を減らす目的で診察した医師からの装着を勧められた。 しかしペースメーカーの装着によって(利き腕である)左腕を使った運動がしにくくなることも告げられたため、「(自宅でのトスバッティングなどで)武白志にボールを投げてやりたい」という理由で装着を断念した。 武白志が中学校へ進んでからは入院の頻度が増えたにもかかわらず、退院中に自宅で武白志の練習相手を務めた。 実兄はで硬式野球部の監督を務めていた。 がから死球を受けたことで乱闘になり、山本は平沼に付き添い清原を怒鳴った一人だが、後に巨人のコーチに山本が赴任してからは後腐れのない関係となったようであり、清原の「ハイタッチ拒否事件」に関しても清原に対してかなり親身になっていた。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 67 68 66 5 18 1 0 1 22 7 0 0 0 0 1 0 1 13 0. 273. 294. 333. 627 89 98 94 6 26 5 0 2 37 18 0 0 0 1 3 0 0 13 1. 277. 296. 394. 690 87 116 102 11 30 2 2 3 45 24 0 0 1 3 8 1 2 12 1. 294. 348. 441. 789 117 232 220 24 64 12 0 5 91 29 1 0 1 2 8 2 1 24 4. 291. 316. 414. 730 106 137 124 6 29 7 1 1 41 20 0 0 1 2 8 0 2 17 3. 234. 287. 331. 617 95 197 179 16 43 8 0 4 63 17 0 2 0 2 14 5 2 16 6. 240. 299. 352. 651 107 284 254 29 56 5 2 13 104 33 5 1 4 2 21 3 3 44 6. 220. 286. 409. 695 78 131 117 15 33 6 0 5 54 15 0 0 3 1 8 2 2 19 5. 282. 336. 462. 797 125 487 429 49 129 28 2 10 191 66 4 1 6 7 42 1 3 45 8. 301. 362. 445. 807 122 449 413 45 121 19 0 10 170 67 1 4 3 4 29 2 0 30 22. 293. 336. 412. 748 85 240 221 16 58 11 0 4 81 26 0 2 2 2 13 0 2 26 9. 262. 307. 367. 673 95 274 251 29 80 12 0 6 110 42 2 0 2 0 18 0 3 34 5. 319. 371. 438. 810 44 65 53 2 12 4 1 0 18 5 0 1 1 0 11 4 0 13 1. 226. 359. 340. 699 通算:13年 1217 2778 2523 253 699 120 8 64 1027 369 13 11 24 26 184 20 21 306 71. 277. 328. 407. 735• 各年度の 太字はリーグ最高 年度別監督成績 [ ] 順 位 試 合 打 率 防 御 率 本 塁 打 4位 135 63 70 2. 474 15. 257 3. 64 97 48歳 5位 135 62 67 6. 481 9. 259 4. 73 109 49歳 5位 140 64 74 2. 464 14. 258 3. 93 133 50歳 4位 140 67 72 1. 482 23. 247 3. 72 102 51歳 4位 140 68 69 3. 496 14. 271 4. 37 145 52歳 通算:5年 690 324 352 14. 479 Bクラス5回 表彰 [ ]• :2回 (一塁手部門:1984年、1985年) 記録 [ ] 初記録• 初出場:1976年4月6日、対1回戦()、9回裏にの代打として出場• 初打点:1976年4月7日、対大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、8回裏にの代打として出場、から犠飛• 初安打:1976年4月16日、対4回戦()、9回表にの代打として出場、から単打• 初本塁打:1976年6月26日、対12回戦(後楽園球場)、8回裏にの代打として出場、からソロ• 初先発出場:1976年8月24日、対大洋ホエールズ19回戦(後楽園球場)、6番・として先発出場• 初盗塁:1979年8月5日、対中日ドラゴンズ18回戦()、7回表に二盗(投手:、捕手:) 節目の記録• 出場:2回 (1982年、1985年) 背番号 [ ]• 44 (1976年 - 1988年)• 85 (1989年 - 1993年)• 72 (1994年)• 86 (1995年 - 2003年)• 87 (2004年 - 2005年) 関連情報 [ ] 出演番組 [ ]• 脚注 [ ]• (『』付記事) [ ]• 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年• 2007年8月26日. 2012年8月23日閲覧。 - (2016年4月23日16時0分配信)• 報知新聞2002年3月20日• 報知新聞2003年6月1日• ベースボールチャンネル 2016年4月24日• ZAKZAK 2016年4月26日• 週刊ベースボール2014年6月30日号97ページ 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 選手の各国通算成績• - NPB. jp 日本野球機構• 1950 - 1952• 1953• 1954 - 1959• 1960• 1961 - 1962• 1963 - 1965• 1966• 1967• 1967 - 1971• 1971 - 1972• 1973 - 1978• 1979 - 1981• 1982 - 1983• 1984 - 1986• 1987 - 1989• 1990 - 1991• 1992 - 1994• 1995• 1996• 1997 - 1998• 1999 - 2003• 2004 - 2009• 2010 - 2012• 2013 - 2017• 2018 -.

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山本浩二と秋山幸二でトータルでどちらが凄かったですか?

山本 浩二

ライバル、ではなかった 広島カープは1970年代中盤から90年代前半にかけて黄金時代を築きます。 「両雄並び立たず」ということわざがありますが、「並び立った」ことこそがカープの強さの源泉でした。 私が知る限りにおいて、衣笠さんは山本さんに対し、「ライバル」という言葉を一切用いませんでした。 というより意識的に避けていたような印象があります。 亡くなる10日ほど前、『昭和プロ野球の裏側』(廣済堂新書)という新書が書店に並びました。 その中に、次のようなくだりがあります。 衣笠 (浩二とは)絶対、競っちゃいけない。 汽車のレールと一緒で交わることがないのよ、性格も違うし。 だけど、浩二は本当に渡し船に乗って、あの県営球場へ行ってカープを応援していたヤツなの。 ここのところの基本は忘れちゃダメなの。 あれだけは、やっぱり僕はどうやっても勝てない部分。 彼は広島生まれで広島育ちの生粋のカープファンなの。 僕は京都から来て18歳からしか広島を知らないんだから。 二宮 往年のスター選手、小鶴誠さんが最後に広島に移籍したときも見に行ったって、山本浩二さんから聞いたことがあります。 衣笠 そう。 だから、彼は根っからのカープファン。 そこのところを踏み込んでしまうと、もめるよね。 そこだけは本当にそう思っていた。 むしろ、相手に対するライバル意識は当初、山本さんの方が強かったかもしれません。 山本さんが法大を出て広島に入団したのは1969年ですが、衣笠さんは前年の68年に21本塁打をマークしています。 山本さんの目に同級生の存在は輝いて見えたはずです。

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