吉本 山口組。 吉本興業と山口組の驚きの関係!吉本せいや林正之助も親密だった!

2度の事件で明るみになった吉本せいと山口組の知られざる関係

吉本 山口組

島田紳助の引退の原因と言われている事件 「ワシの御門」事件 「紳助の人間マンダラ」関西テレビ(フジ系) 番組内で 「昨日、収録に遅れそうで、慌ててタクシー乗り込んで局まで飛ばして走っとったら 何や黒塗りのワゴン車で軍歌流してトロトロ走りよるアホがおんねん! アタマ来たから、 「何トロトロ走とんねんボケカス!」と怒鳴ってやったら いかついツラした兄ちゃんがゾロゾロ出てきやがって 「あんた、この菊の御門見て何とも思わへんのか?」と 言ってきおったから言うてやってん! 「アホか!菊の御門ならワシのケツにも付いとるわい!」 唖然とした兄ちゃんたちがアゼンとしてるうちに 「運転手さん、今のうちや」ってタクシー飛ばして今日の収録に間に合ってん!」 という自慢話を放送したところ、稲川会系の右翼団体大行社が激怒。 連日抗議活動受ける事態になった。 このことをを渡辺二郎に相談し、山口組系の極心連合会・橋本弘文会長 が解決した。 吉本興業と山口組のつながり および 島田紳助引退 1912年 吉本泰三が吉本を始める。 1924年 泰三死去。 妻の吉本せいが継ぐ。 1934年 吉本せいが山口組二代目山口登組長と接触。 1942年 吉本せい依頼の興行トラブルを請け負った為に山口組二代目山口登組長死去。 1948年 吉本せいの弟、林正之助社長就任。 1968年 林正之助社長、山口組三代目田岡組長と共にレコード会社乗っ取り容疑で逮捕。 兵庫県警内部資料『広域暴力団山口組壊滅史』には「山口組準構成員 吉本興業前社長 林正之助」と記載。 1999年 ・林正之助の娘婿の林裕章社長就任。 ・元プロボクシング世界王者の渡辺二郎が銃刀法違反容疑で逮捕された際、翌年の公判で島田紳助が証人として出廷していた。 後に、渡辺二郎は山口組系極心連合会相談役就任 ・、中田カウスは山口組五代目渡辺組長のパーティに出席し、渡辺と知り合いになったことをいいことに「五代目と懇意である」と殊更に芸人の前でアピールし、自分に逆らうと五代目が黙っていないと芸人を脅かすようになった。 芸人は誰もカウスに逆らえなくなった。 ・島田紳助が渡辺組長から時計を贈られたことがあった。 ところが、これがすぐにカウスの知るところになって問題になった。 カウスはすぐさま紳助を呼び出して、もらった時計を返却させた。 カウスは、この話を社員に語る際、「紳助よりもワシのほ ワシのほうが渡辺五代目とのつきあいは太いんや」と話した。 ・中田カウスは林マサ(林裕章社長夫人・林正之助の娘)の依頼で林裕章社長の女性スキャンダル解決に山口組系組員を紹介した。 2003年 ・島田紳助は自宅の造園業者とのトラブルに山口組系極心連合会の名を語った。 2004年 ・中邨(なかむら)秀雄元会長が、在任中だった数年間に、子会社から金銭を横領。 その際、中田カウスはその回収役を受け、山口組の渡辺組長がバックと脅した。 ・林裕章社長の寵愛を受けていた中田カウス吉本特別顧問に就任。 2005年 ・林裕章社長死去。 林裕章社長は逝去の際に中田カウスに「紳助を頼む」と遺言。 ・東大阪市内の土地・建物を巡る競売入札妨害事件などの関係先として、山口組若頭補佐、橋本弘文極心連合会長宅捜査で、島田紳助から同幹部に宛てた直筆の手紙や、飲食の場で一緒に撮影した写真などが見つかっていた。 ・中田カウス吉本特別顧問退任 2009年 中田カウス襲撃される。 2011年 山口組系極心連合会相談役渡辺二郎と紳助の間で交わされたメールのやり取りが大阪府警が羽賀研二詐欺事件で押収した携帯メールから発覚。 大阪府警は吉本興業に連絡し、吉本興業が8月中旬頃に本人に問いただしたところ紳助は事実だと認め、引退を申し出たという。 この中から、吉本興業が宮古島にヤクザのフロント企業から購入した土地が 実は暴力団関係者と島田紳介がグルになって吉本に買わせる為に 島田紳介が番組企画(宮古島移住計画)を立ち上げた証拠まで出てきた。 また、阪神タイガースの金本は友人である島田紳介を通し山口組系極心連合会を使い会社役員監禁・脅迫したとも言われている。

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2度の事件で明るみになった吉本せいと山口組の知られざる関係

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基本的に暴力団と芸能界の関係はタブー視されていますよね。 あってはならないこと。 絶対にそんなことは無いということになっていますよね。 ところが芸能界の実際って・・・結論から言うと 「芸能界のケツモチがヤクザ」という現実がありますよね。 美空ひばりのケツモチだった田岡一雄さん ちなみによしもと興業のケツモチが山口組なことは有名ですよね。 個人的には美空ひばりさんと田岡一雄さんは日本人な気がしてます。 特に田岡一雄さんは神戸の闇市を実際に守っていました。 大東亜敗戦直後の神戸はリアル北斗の拳。 力のみが正義でした。 現在の暴力団と当時に山口組はちょっと雰囲気が違うのは確かみたいです。 ですが・・・現在の山口組には日本人はいません。 日本名を名乗り日本語を話せますが、外国人ですね。 弘道会って外国人が多いですよね。 NEWS ポストセブン 3月23日 水 7時0分配信 今でこそ、芸能人と暴力団のかかわりはタブー視されているが、戦後のある時期まで両者は分かち難いほど近い関係だった。 昭和の歌姫と全国最大の暴力団組長の交流秘話を、実録小説『神戸芸能社』の著者、山平重樹氏が紐解く。 * * * 戦後日本を代表する歌手、女優として、今や伝説となった美空ひばり。 ひばりは1937年生まれだが、9歳からプロ歌手として活動。 「天才少女歌手」と呼ばれ、戦後の焼け跡の中で日本人を励まし続けた。 そのヤクザとはほかでもない、三代目山口組組長・田岡一雄である。 芸能興行とヤクザの関係は、歴史的にも深い。 それどころか興行は、そもそもヤクザの伝統的な稼業ですらあった。 山口組にも「山口組興行部」と呼ばれる組織が昔からあり、主に神戸での浪曲興行などを取り仕切っていた。 1948年12月、この山口組興行部が影響力を持つ神戸松竹劇場へ出演するため、横浜国際劇場支配人の福島通人に連れられて、母・加藤喜美枝と神戸の田岡邸へ挨拶に訪れたのが、ひばりと田岡の出会いだったとされる。 ひばりは当時11歳。 しかし田岡に対してまったく物怖じせず挨拶するその姿に、田岡は尋常ならざるオーラと、無限の可能性を感じ取る。 「ひばりちゃん、このおじちゃんに歌ってくれるか」 「はい。 でもおじちゃん、どんな歌を聴きたいですか」 ひばりはどこまでも屈託なく田岡に応じ、藤山一郎が戦前に歌って大ヒットした『影を慕いて』を見事な歌唱力で歌った。 ひばりの才能に感服した田岡は、「彼女を生涯にわたって守ってやろう」と固く誓う。 神戸芸能社にはひばりのほか、田端義夫や高田浩吉、川田晴久など、戦後の大スターらが多数所属。 次へ 続きや関連情報はリンク先でご覧ください 引用元:Yahoo! news. yahoo. 2ch. bbspink. といっても、いきなりバーニングって言われてもさっぱりわからないと思います。 以下のリンク先にできるだけわかりやすく書いてみました。 「芸能界の裏側は日本の裏側」というタブーに触れる内容になります。

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2度の事件で明るみになった吉本せいと山口組の知られざる関係

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もくじ (文字クリックでジャンプ出来ます)• 暴力団同士の抗争に発展した浅草田島町殺傷事件 昭和15年8月15日、浪曲師として人気者だった広沢虎造の映画出演をめぐって暴力団同士の抗争に巻き込まれてしまった吉本。 彼は映画出演に関して吉本がマネージメントを担当していましたが、吉本を通さずに出演を引き受けてしまったため、山口組を刺激してしまったのだ。 と言うのも、広沢に出演を依頼したのは興行の世界に進出した籠寅一家(合田一家)という暴力団。 吉本と関係があった山口組はライバルのルール違反に黙っているわけにはいかなかったようです。 山口組は広沢を撮影現場に送らなかったため、抗争に発展。 籠寅一家が山口組を襲撃し、 浅草松竹座近くの街頭で白昼の切り合いが行われたそうです。 山口組の2代目・山口登がこの襲撃の傷で1年後に死亡。 双方一人ずつ死者を出した事件でした。 吉本せいの弟・林正之助と山口組の関係 姉が亡くなってからは弟の正之助が吉本の実権を握っていました。 しかし正之助の身内による2億円の使い込み事件が起きたことから、正之助は身を引くことで責任をとりました。 その後任を任されたのが弟の林弘高です。 しかし、弘高の就任直後の昭和43年1月11日、正之助が恐喝容疑で兵庫県警に逮捕されてしまったのです。 Sponsored Link 恐喝容疑は、マーキュリー・レコード会社をのっとり、ヤンマー音響会社所有の工場の地上権、借地権を地価の20分の一という安さで買収した時に山口組の力を借り、組にお金が流れたという。 裏社会との関わりは避けては通れないのか 前述したとおり、警察のOBを雇れることで、近づいてくる裏社会の人間を近寄らせない効果はあったかもしれませんが、大きな組織に対してはそれなりに付かず離れずの関係を保っていたのは確かなようです。 しかし、組同士の抗争に発展した浅草田島町殺傷事件は、せいが望んでいたものではなく、彼女の力ではどうすることもできなかったのでしょう。 吉本といえば、そうした組織との関係は現代でも度々問題視されていますが、まさか創業者の時代から関わりがあったことに正直驚きました。

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