フランシスコ ローマ 教皇。 ローマ教皇、広場で腕をひっぱる人の手をピシャリ 新年に謝罪

教皇フランシスコ、全世界で「主の祈り」の呼びかけ

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その上で「核兵器や大量破壊兵器を持つことは平和や安定につながらない」と主張し、本来は人間や環境保全に使われるべき資源が軍拡競争に使われていることを「途方もないテロ行為だ」と述べた。 「核兵器から解放された平和な世界を、数え切れないほどの人が熱望している」として、核廃絶は「可能であり必要」と指摘。 その実現には個人や国家、国際機関などが一致団結して取り組むべきだと訴えた。 各国の指導者に対しては「核兵器は安全保障への脅威から私たちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでほしい」と呼び掛け、核抑止力を否定した。 「私たちは多国間主義の衰退を目の当たりにしている。 あらゆる国の指導者が注意を払い、この問題に力を注ぎ込むべきだ」とも述べ、国家間の相互不信の流れを食い止める必要があると強調した。 「強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるか」と問いかけ、真の平和とは「非武装の平和以外にありえない」と訴えた。 演説終盤では、原爆と核実験とあらゆる紛争犠牲者の名において「戦争はもういらない」「こんな苦しみはもういらない」と声を合わせて叫ぶよう呼び掛けた。 教皇は25日には東京で東日本大震災の被災者らと面会するほか、天皇陛下との会見や安倍晋三首相との会談が予定されている。 26日に帰国の途につく。 81年のヨハネ・パウロ2世の被爆地訪問時には、教皇が広島で「戦争は人間のしわざ」という平和アピールを発表し、多くの被爆者が被爆体験を語る契機となった。

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verizonbienvenido.dja.com : ローマ教皇フランシスコが復活徹夜祭、「恐れるな」と呼び掛け

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ローマ教皇フランシスコ説教 東京ドームミサ 今聞いた福音は、イエスの最初の長い説教の一節です。 「山上の説教」と呼ばれているもので、わたしたちが歩むよう招かれている道の美しさを説いています。 聖書によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。 神はモーセに、「わたしのもとへ登りなさい」(出エジプト24・1参照)と仰せになりました。 その山頂には、主意主義によっても、「出世主義」によっても到達できません。 分かれ道において師なるかたに、注意深く、忍耐をもって丁寧に聞くことによってのみ、山頂に到達できるのです。 山頂は平らになり、周りがすべて見渡せるようになり、そこはたえず新たな展望を、御父のいつくしみを中心とする展望を与えてくれるのです。 イエスにこそ、人間とは何かの極みがあり、わたしたちの考えをことごとく凌駕する充満に至る道が示されています。 イエスにおいて、神に愛されている子どもの自由を味わう新しいのちを見いだすのです。 しかし、わたしたちはこの道において、子としての自由が窒息し弱まるときがあることを知っています。 それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。 息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。 まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。 そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、心を表面的ではかないことがらへと向かうよう押しやるのです。 何でも生産でき、すべてを支配でき、すべてを操れると思い込む熱狂が、どれほど心を抑圧し、縛りつけることでしょう。 ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。 今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。 家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支え合い、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。 多くの人が、当惑し不安を感じています。 過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。 力づける香油のごとく、主のことばが鳴り響きます。 思い煩うことなく、信頼しなさい、と。 主は三度にわたって繰り返して仰せになります。 自分のいのちのことで思い悩むな、……明日のことまで思い悩むな(マタイ6・25、31、34参照)。 これは、周りで起きていることに関心をもつなといっているのでも、自分の務めや日々の責任に対していい加減でいなさいといっているのでもありません。 それよりも、意味のあるより広い展望に心を開くことを優先して、そこに主と同じ方向に目を向けるための余地を作りなさいという励ましなのです。 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6・33)。 主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。 それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。 何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。 世俗の姿勢はこの世での己の利益や利潤のみを追い求めます。 利己主義は個人の幸せを主張しますが、実は、巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします。 そのうえ、真に調和のある人間的な社会の発展をはばむのです。 孤立し、閉ざされ、息ができずにいるわたしに抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わるわたしたち、これしかありません(「一般謁見講話(2019年2月13日)」参照)。 主のこの招きは、わたしたちに次のことを思い出させてくれます。 「必要なのは、『わたしたちの現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだということを、歓喜のうちに認めることです。 それは今日の、自分のものは自力で獲得するとか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです』」(使徒的勧告『喜びに喜べ』55)。 それゆえ、第一朗読において、聖書はわたしたちに思い起こさせます。 いのちと美に満ちているこの世界は、何よりも、わたしたちに先立って存在される創造主からのすばらしい贈り物であることを。 「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。 見よ、それはきわめてよかった」(創世記1・31)。 与えられた美と善は、それを分かち合い、他者に差し出すためのものです。 わたしたちはこの世界の主人でも所有者でもなく、あの創造的な夢にあずかる者なのです。 「わたしたちが、自分たち自身のいのちを真に気遣い、自然とのかかわりをも真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と不可分の関係にある」(回勅『ラウダート・シ』70)のです。 この現実を前に、キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り、あかしするよう招かれています。 知恵と勇気をもって、無償性と思いやり、寛大さとすなおに耳を傾ける姿勢、それらに特徴づけられるあかしです。 それは、実際に目前にあるいのちを、抱擁し、受け入れる態度です。 「そこにあるもろさ、さもしさをそっくりそのまま、そして少なからず見られる、矛盾やくだらなさをもすべてそのまま」(「ワールドユースデーパナマ大会の前晩の祈りでの講話(2019年1月26日」)引き受けるのです。 わたしたちは、この教えを推し進める共同体となるよう招かれています。 つまり、「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。 障害をもつ人や弱い人は、愛するに値しないのですか。 よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか。 イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、からだの不自由な人を抱きしめました。 ファリサイ派の人や罪人をその腕で包んでくださいました。 十字架にかけられた盗人すらも腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえもゆるされたのです」(同)。 いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。 それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。 キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。 善意あるすべての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、絶えざる協力と対話を重ねつつ、主に結ばれるならば、わたしたちは、すべてのいのちを、よりいっそう守り世話する、社会の預言的パン種となれるでしょう。 (カトリック中央協議会).

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ローマ教皇が「ゾンビの国・日本」に送った言葉 世界一他人に冷たい国に伝えたい事 (2ページ目)

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その教皇、バチカンに戻ると厳しい日々が待ち受けていたと言う。 2000年続くカトリック世界の大転換を掲げ、教会改革に挑む教皇に、教義に厳格な一部の超保守派が公然と批判の声を上げ始めたのだ。 一方、教皇に近いリベラル派には改革が中途半端に映る。 この状況に「カトリック世界が『大分裂』の一歩手前」とかき立てるメディアも現れた。 13億人の信者を抱えるカトリックの総本山で何が起きているのだろうか。 同8月には教皇に退位を迫る11ページに及ぶ告発文を公開していた。 反発はビガノ師にとどまらない。 2016年には離婚者の扱いを巡りバーク枢機卿ら3人が公然と反発。 2017年2月には「あなたの慈悲の心はどこに」などと教皇を批判するポスターがローマ市内の各所に張り出されたのだ。 今年に入ってからも、サラ枢機卿がベネディクト前教皇を取り込み、反教皇活動をする事案が明るみに出た。 一連の教皇批判の背景にあるのが、フランシスコ教皇が2013年の就任以来進めてきた教会改革だ。 教会改革の本質を理解するためには、教皇の異例性を三つの角度から押さえておく必要があろう。 第一に、歴代教皇がほぼ全員欧州人だったのに対し、フランシスコ教皇は初の南米出身者。 第二に、初のイエズス会出身者である点だ。 同会特有の「フロンティア精神」を体現する人物で、清貧、質素、奉仕、自己犠牲を旨とし、バチカンの宮廷文化とは対極にいる。 また、フランシスコを名乗った初めての教皇である点も見逃せない。 大聖人、アッシジの聖フランチェスコに由来する。 歴代教皇は「キリストの再来」と言われたこの聖人が「偉大過ぎる」ため、その名前を避けてきた。 ベルゴリオは、貧しい人、弱者に寄り添った聖フランチェスコに傾倒していたことからフランシスコを名乗ることにした。 来日時に見せた飾り気のない人柄は、こうした異色の背景に根ざしているのだろう。 歴代教皇の中で最もバチカン色が薄い人物が伝統を誇るキリスト教最大教派の頂点に立ったことが、すなわち、彼の「非バチカン性」が、後に超保守派との軋轢を生む改革へとつながっていくのだ。 その具体的な中身を三つの側面から見ていこう。 まずは教皇が掲げる「貧しい人たちのための教会」。 教会は信徒とりわけ弱者のためにあるとして、聖職者は教会の外に出て弱者や貧者、難民、差別された人々に寄り添うように説く。 また罪深い人や受刑者、さらには教会がこれまでタブー視してきた離婚者や同性愛者に至るまで、暖かく包み込むよう訴える。 例えば難民問題では、受け入れを拒む世界の指導者をたびたび批判してきた。 2016年には訪問先のギリシャからイスラム教徒のシリア人難民3家族12人を連れてローマに戻った。 米大統領選の際には、メキシコとの国境に「壁」建設を主張するトランプ氏を「キリスト教徒ではない」と痛烈に批判したこともあった。 第二は、従来、欧州や北米など西欧先進国に置いてきたカトリック世界の重心を、アジアやアフリカ、中南米といった国々に移そうとしている点だ。 いわゆる「南の教会」と呼ばれる考え方だ。 教皇は、世俗的問題としての南北問題について、格差拡大の責任や環境劣化の元凶は先進国たる「北」にあると強調、質素な生活に戻るよう迫る。 「南」へのシフトは外交面で顕著だ。 好例が先の訪日を含むアジアへの外遊だ。 前任のベネディクト教皇は、西欧中心主義が強い超保守派で、在位8年間でアジアに足を踏み入れたことはなかった。 フランシスコ教皇は既にアジア7カ国を訪れ、中東・アフリカにも足を延ばす。 第三に、エリートから民衆へのシフトだ。 これまでのカトリック教会は、バチカンのエリートが統治してきたが、今後は地域ごと、現地の実情に即した教会を育てるべきだと説く。 例えば、中南米には「中南米らしい教会」といった具合に。 「バチカンは強すぎる」と常々語るフランシスコ教皇が目指すのは「集権から分権」「中央から周辺」へのシフトという訳だ。 欧州出身者ないしバチカン生え抜きの人物にはない新しい発想で、異色の背景を持つフランシスコ教皇だからなし得たといえる。 バチカンに文明的な新風を送り込む一方、超保守派が面白いはずがない。 超保守派が抱く不満の一つが、教皇に次ぐ実力者である枢機卿の人事だ。 教皇はこの7年間に、枢機卿に占める欧州出身者の比率を5割強から4割に減らす一方、「南」出身者の割合を4割から5割に引き上げた。 また就任ほどなく、リベラル派でバチカンとのしがらみが薄い枢機卿による助言グループを設置。 既存の機構よりこのグループを頼ることが多く、バチカン官僚よりも世界各地のたたき上げ組が優先されることも少なくない。 割を食った「北」出身者やバチカン官僚は「疎んじられた」と受け止め、不満をためている。 また家族倫理面の改革では、2016年4月に家族問題に関する指針を発表。 保守派の抵抗が強いことを予期してか、同性婚を認めないとするなど従来の方針は維持したものの、離婚や再婚をした信者らについて柔軟な処遇を打ち出したことから、保守派の反発を買った。 「地球温暖化は人類がつくり出した問題だ」と厳しく指摘し、国際的に高い評価を受けた。 教皇の発言は、グローバリズムと「南」の擁護で貫かれているが、保守派、なかんずく米国の保守派司教は、信仰と環境問題は別問題だ、あるいは、教皇は「南」の発想を持ち込んでいるとして、冷たい反応を示した。 彼らにとっては、教皇は既存の大枠の中で運用を変えるのみで、微調整にとどまっているとの印象を持ってしまうようだ。 教皇の姿勢は慎重すぎる、ないし、中途半端と映ってしまうのだろう。 ここで、アマゾン地域にフォーカスした司教会議に触れておきたい。 会議は、アマゾン地域に関わる環境問題などを議論し、2019年10月下旬に最終文書を教皇に提出した。 司教たちは、アマゾン地域の神父不足を改善するため、この地域に限っては、既婚の助祭の神父昇格と女性の助祭任用を可能にしてほしいと要望した。 神父は独身制で、聖職者は男性に限るというカトリック教会の原則を大きく修正するものだ。 教皇は過去、既婚司祭について「ものすごいへき地では認められる可能性がある」とも発言しており、要件が緩和されるのではないかとの観測も出ていた。 ところが教皇は2020年2月12日、上記の要望をいずれも退けた。 保守派の頑強な抵抗に教皇がへきえきとしていることを物語っており、リベラル派は大きく落胆した。 「大きな塊」を引き連れて新宗派を立ち上げるだけの腕力は超保守派にはないからだ。 教皇に次ぐ実力者である枢機卿の過半は、フランシスコ教皇が就任後に昇格させた人物であり、彼らが反教皇的な動き(分裂)を許容することは考えがたい。 なお、この数年教皇批判を繰り返す枢機卿の多くは引退組だ。 彼らの批判を過小評価することは禁物だが。 教皇は「自分は軋轢を恐れない」「反対派は主張を続ける権利がある」とあっけらかんと語る。 2000年の流れを変えようということだから摩擦が起きないわけはない。 教皇は、自分の歴史的使命を果たすべく、淡々と、したたかに改革を続けるであろう。 その際、かげりが見え始めたものの、教皇が信徒の間でなお高い人気を保っていることは、保守派への圧力になることから、教皇にとって〝資産〟と言えるだろう。 【参考】上野景文「バチカンの聖と俗(日本大使の一四〇〇日)」(かまくら春秋社).

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