寒いですね 夏目漱石。 2月21日は「漱石の日」。夏目漱石ってどんな人?(verizonbienvenido.dja.comサプリ 2017年02月21日)

夏目漱石がI LOVE YOUを「月が綺麗ですね」と訳した理由

寒いですね 夏目漱石

漱石は牛込の自宅を出て、明治17年に小石川植物園下の新福寺の二階に友人と住みました。 「橋本左五郎とは明治17年の頃小石川の極楽水の傍でお寺の2階を借りて一所に自炊をしたことがある」『満韓ところどころ』 明治23年に東京大学に入学し、 小石川区指ヶ谷町に住みます。 東大卒業後に東京師範学校の講師となり、明治26年には 小石川伝通院のそばの法蔵院に間借りしました。 その後、『坊ちゃん』の舞台である松山中学へ赴任しました。 明治33年に英語研究のためイギリスへ2年間留学し、帰国後は 本郷区駒込千駄木町57番に住みました。 この家はその11年前まで、森鴎外が住んでいたところです。 東大英文科の講師をつとめながら、「吾輩は猫である」「倫敦搭」「琴のそら音」などを次々に発表しました。 明治39年には 本郷区西片町10番地ろノ七号に移り、「坊っちゃん」「草枕」「二百十日」などを書きました。 夏目漱石の作品に見られる文京区 (小石川) 「ある日私はまあ宅(うち)だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに 本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院(でんずういん)の方へ上がりました。 電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地(くうち)に草が一面に生えていたものです。 私はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。 今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました」 『こころ』(下・10) 「私は食後Kを散歩に連れ出しました。 二人は 伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻(まわ)ってまた 富坂(とみざか)の下へ出ました。 散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間に話した事は極めて少なかったのです」 『こころ』(下・27) 「 本郷の通り迄来たが惓怠(アンニユイ)の感は依然として故(もと)の通りである。 何処をどう歩いても物足りない。 と云つて、人の宅(うち)を訪ねる気はもう出ない。 自分を検査して見ると、身体(からだ)全体が、大きな胃病の様な心持がした。 四丁目から又電車へ乗つて、今度は 伝通院前迄来た。 車中で揺られるたびに、五尺何寸かある大きな胃嚢(ぶくろ)の中で、腐つたものが、波を打つ感じがあつた。 三時過ぎにぼんやり宅(うち)へ帰つた」 『それから』(八の二) 「代助は晩食(ばんめし)も食はずに、すぐ又表へ出た。 五軒町から江戸川の縁(へり)を伝つて、河を向(むかふ)へ越した時は、先刻(さつき)散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかつた。 坂を上つて 伝通院の横へ出ると、細く高い烟突が、寺と寺の間から、汚ない烟(けむ)を、雲の多い空に吐いてゐた」 「三千代の頬に漸やく色が出て来た。 袂から手帛(ハンケチ)を取り出して、口の辺(あたり)を拭きながら話を始めた。 大きな木が、左右から被(かぶ)さつてゐる間を左りへ抜けて、平岡の家の傍(そば)迄来ると、板塀から例の如く灯が射してゐた」 『それから』(十四の六) 常光山源覚寺、閻魔堂(小石川) 「11月の寒い雨の降る日の事でした。 私は外套を濡らして 例の通り 蒟蒻閻魔を抜けて細い坂路を上って宅(うち)へ 帰りました」 『こころ』(下 先生と遺書33) 漱石はこの周辺をよく歩いたようで、『こころ』や『琴のそら音』の中に小石川植物園がたびたび登場します。 安藤坂 (小石川) 「約二十分の後、彼は 安藤坂を上がって、伝通院の焼跡の前へ出た」 『それから』十四 金剛寺坂 (小石川) 「江戸川の縁へ出た時、暗い風が微かに吹いた。 黒い桜の葉が少し動いた。 橋の上に立って、欄干から下を見下ろしていたものが二人あった。 金剛寺坂では誰にも逢わなかった。 岩崎家の高い石垣が左右から細い坂を塞いでいた」 『それから』 江戸川 現在の神田川のこと。 「散歩のとき、彼の足は多くは 江戸川の方角に向いた。 桜の散る時分には、夕暮れの風に吹かれて、四つの橋をこちらから向こうへ渡り、向こうからまたこちらへ渡り返して、長い土手を縫うように歩いた」 『それから』 (小日向) 「竹早町を横ぎって 切支丹坂へかかる。 なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である」 『琴のそら音』 (小日向) 夏目漱石(金之助)の菩提寺。 境内には明治29年正月松の内に、漱石がここで「展先妣墓」として「梅の花不肖なれども梅の花」と詠んだのにちなんだ句碑があります。 「清の墓は小日向の養源寺にある」 『坊ちゃん』 清の墓のモデルも、この寺であるといわれています。 郁文館 (向丘) 郁文館は『吾輩は猫である』の「落雲館」のモデルです。 「いえ泥棒ではありません。 落雲館の生徒です」 「うそをつけ。 落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入する奴があるか」 「しかしこの通りちゃんと学校の徽章《きしょう》のついて いる帽子を被っています」 「にせものだろう。 落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した」 「ボールが飛び込んだものですから」 「なぜボールを飛び込ました」 「つい飛び込んだんです」 「怪しからん奴だ」 「以後注意しますから、今度だけ許して下さい」 「どこの何者かわからん奴が垣を越えて邸内に闖入するのを、そう容易く許されると思うか」 「それでも 落雲館の生徒に違ないんですから」 「 落雲館の生徒なら何年生だ」 「三年生です」 『吾輩は猫である』 (本郷) 「私はとうとう万世橋を渡って、 明神の坂を上がって、、 本郷台へ来て、それからまた、 菊坂を下りて、しまいに、 小石川の谷へ下りたのです」 『こころ』 三四郎池 東大(本郷) 東大の構内には、三四郎池があります。 「三四郎」に描かれたエリート学生と令嬢の世界は憧れの的となり、小説に登場した心字池は三四郎池と呼ばれるようになりました。 喜多床 (本郷) 1871年(断髪令の年)に創業された理髪の老舗で、客名簿には漱石の名が載っていたそうです。 『夢十夜』に出る理髪店の話も喜多床をモデルにしたようです。 ここは石川啄木が2階に住んでいたことでも有名で、当時の建物は明治村に移築されています。 「正門前の 喜多床という髪結床の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである」 『三四郎』 三 「何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。 吾輩だって 喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そんなに人間と異ったところはありゃしない」 『吾輩は猫である』 二 (本郷) 「四角へ出ると、左手のこちら側に西洋小間物屋があって、向こう側に日本小間物屋がある。 そのあいだを電車がぐるっと曲がって、非常な勢いで通る。 ベルがちんちんちんちんいう。 渡りにくいほど雑踏する。 野々宮君は、向こうの小間物屋をさして、 「あすこでちょいと買物をしますからね」と言って、ちりんちりんと鳴るあいだを駆け抜けた」 『三四郎』二 「そのリボンの色も質も、たしかに野々宮君が 兼安(かねやす)で買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった」 『三四郎』三 藤むら (本郷) 「いやー珍客だね。 僕のような狎客になると苦沙弥(くしゃみ)はとかく粗略にしたがっていかん。 何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。 この菓子はいつもより上等じゃないか、と 藤村の羊羹を無雑作に頬張る」 『吾輩は猫である』 四 (本郷) 『三四郎』で三四郎と美禰子がこの教会で決別する。 「『美禰子さんは会堂(チャーチ)』 美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた」 『三四郎』十二 団子坂 (千駄木) 「ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、、 団子坂の上から、左へ折れて、 千駄木林町の広い通りへ出た」 「坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである」 『三四郎』 光源寺 (駒込) 「 大観音の前に乞食がいる。 額を地にすりつけて、大きな声をのべつに出して、哀願をたくましゅうしている。 時々顔を上げると、額のところだけが砂で白くなっている。 だれも顧みるものがない。 五人も平気で行き過ぎた。 五、六間も来た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた」 『三四郎』 (護国寺) 「運慶が 護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた」 『夢十夜』「第六夜」.

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夏目漱石の生い立ちと性格は?妻に暴力を振るっていたのは本当?

寒いですね 夏目漱石

夏目漱石の先祖は、武田信玄の家臣 はじめに 夏目漱石の先祖について 触れていきましょう。 夏目漱石の先祖は もともとは 現在の山梨県が発祥で、 戦国大名、 武田信玄の家臣だった、 といわれています。 その武田信玄の家臣が 江戸に落ちのびて、 定着したのが、 夏目漱石の先祖と、 伝えられています。 夏目漱石の先祖は、新宿区喜久井町の名主の家系 夏目漱石の生家といえば、 東京の中心部にある 新宿区喜久井町、 であることは よく知られています。 夏目漱石の先祖は 現在の 新宿区喜久井町の名主でした。 記録によれば、 元禄時代から、 名主を 代々務めてきた家柄だそうです。 夏目漱石の実家は とても勢力があり、 夏目漱石が生まれた、 幕末の時代においても、 名主としての威信や、財力を、 近隣に とどろかせていた、 と言われています。 夏目漱石の実家の家族構成は?兄弟は何人? それでは 夏目漱石の 実家の家族構成や 兄弟は何人か といったことを 見ていきたいと思います。 夏目漱石の 実家は 父親と母親のもと、 五男三女の兄弟であり、 夏目漱石は 末っ子の 五男坊にあたります。 夏目漱石の父親の名前や、職業、家系は? 夏目漱石の 父親の名前は 夏目直克といいます。 夏目漱石の 父親は、 江戸時代までは 名主身分でした。 明治維新後、 夏目漱石の父親は、 東京府第四大区長という、 地元の要職につき、 警視庁にも 勤務していました。 夏目漱石の母親は? ついで 夏目漱石の母親について、 触れてみます。 夏目漱石の 母親の名前は 夏目ちえといいました。 夏目漱石の母親も 新宿の出身で、 夏目漱石の母親は 夏目家の後妻ということに なります。 夏目漱石の 兄弟のうち、 上の姉2人は、 異母兄弟にあたります。 夏目漱石の兄弟と家系図 それでは 夏目漱石の 父親や母親、 兄弟について整理するために、 家族を家系図で示してみましょう。 夏目直克 文化14、牛込馬場下横町名主・夏目直基男 旧名主 東京府第四大区長、警視庁警視属 先妻・こと 千駄ヶ谷村名主・斉藤家の娘 長女・さわ 天保15 二女・ふさ 嘉永2 神楽坂、高田庄吉と結婚 夏目漱石の 異母兄弟である、 姉は2人いました。 夏目漱石の兄弟姉妹 そして、 夏目漱石の 同母兄弟について整理すると、 家系図は このようになります。 夏目漱石の長兄である 夏目大助は 東京大学の前身である 大学南校に学んだ人です。 夏目家の長男として、 将来を 嘱望されていたのですが、 身体が弱かったために 大学南校を退学し、 警視庁で翻訳の仕事を していました。 夏目漱石の兄は、 結婚しないまま、 31歳で なくなってしまったのでした。 夏目漱石の兄は、弟に夏目家の未来を… 夏目漱石の長兄、 夏目大助は、 弟である 夏目漱石には、 文学ではなく、 実学的な方面に 進んでもらいたかったと、 考えていたそうです。 夏目漱石は とても優秀な子供でしたので、 夏目家の未来を 託していたのですね。 夏目漱石の次兄は養子に そして 夏目漱石の次兄である 夏目栄之助 直則 は、 養子に出て、 臼井姓を名乗りました。 学校は 電信修技学校に 進学しています。 電信修技学校は 通信技術者を養成する、 官立の学校で、 戦前の エリート校として知られた、 逓信官吏練習所の前身の学校です。 夏目漱石の三兄、夏目直矩とその子孫 それから 夏目漱石の 三番目の兄である 夏目直矩が、 夏目家の跡取りとなっています。 夏目直矩は、 昭和6年まで存命で、 兄弟で一番長生きしました。 夏目直矩の孫には 芸能プロダクション経営者の 新田太郎さんや 『週刊朝日』副編集長や、 『アサヒカメラ』編集長などをつとめた、 角田秀雄さんらがいます。 というわけで、 夏目漱石の 父親や母親、兄弟姉妹、 実家の家族と家系図に関する話題を 見てきました。 最近の投稿• アーカイブ アーカイブ カテゴリー• 1,739• 131• 142• 975• 111• 145• 204• 87 メタ情報•

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夏目漱石『草枕』(一・二)

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漱石は牛込の自宅を出て、明治17年に小石川植物園下の新福寺の二階に友人と住みました。 「橋本左五郎とは明治17年の頃小石川の極楽水の傍でお寺の2階を借りて一所に自炊をしたことがある」『満韓ところどころ』 明治23年に東京大学に入学し、 小石川区指ヶ谷町に住みます。 東大卒業後に東京師範学校の講師となり、明治26年には 小石川伝通院のそばの法蔵院に間借りしました。 その後、『坊ちゃん』の舞台である松山中学へ赴任しました。 明治33年に英語研究のためイギリスへ2年間留学し、帰国後は 本郷区駒込千駄木町57番に住みました。 この家はその11年前まで、森鴎外が住んでいたところです。 東大英文科の講師をつとめながら、「吾輩は猫である」「倫敦搭」「琴のそら音」などを次々に発表しました。 明治39年には 本郷区西片町10番地ろノ七号に移り、「坊っちゃん」「草枕」「二百十日」などを書きました。 夏目漱石の作品に見られる文京区 (小石川) 「ある日私はまあ宅(うち)だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに 本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院(でんずういん)の方へ上がりました。 電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地(くうち)に草が一面に生えていたものです。 私はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。 今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました」 『こころ』(下・10) 「私は食後Kを散歩に連れ出しました。 二人は 伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻(まわ)ってまた 富坂(とみざか)の下へ出ました。 散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間に話した事は極めて少なかったのです」 『こころ』(下・27) 「 本郷の通り迄来たが惓怠(アンニユイ)の感は依然として故(もと)の通りである。 何処をどう歩いても物足りない。 と云つて、人の宅(うち)を訪ねる気はもう出ない。 自分を検査して見ると、身体(からだ)全体が、大きな胃病の様な心持がした。 四丁目から又電車へ乗つて、今度は 伝通院前迄来た。 車中で揺られるたびに、五尺何寸かある大きな胃嚢(ぶくろ)の中で、腐つたものが、波を打つ感じがあつた。 三時過ぎにぼんやり宅(うち)へ帰つた」 『それから』(八の二) 「代助は晩食(ばんめし)も食はずに、すぐ又表へ出た。 五軒町から江戸川の縁(へり)を伝つて、河を向(むかふ)へ越した時は、先刻(さつき)散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかつた。 坂を上つて 伝通院の横へ出ると、細く高い烟突が、寺と寺の間から、汚ない烟(けむ)を、雲の多い空に吐いてゐた」 「三千代の頬に漸やく色が出て来た。 袂から手帛(ハンケチ)を取り出して、口の辺(あたり)を拭きながら話を始めた。 大きな木が、左右から被(かぶ)さつてゐる間を左りへ抜けて、平岡の家の傍(そば)迄来ると、板塀から例の如く灯が射してゐた」 『それから』(十四の六) 常光山源覚寺、閻魔堂(小石川) 「11月の寒い雨の降る日の事でした。 私は外套を濡らして 例の通り 蒟蒻閻魔を抜けて細い坂路を上って宅(うち)へ 帰りました」 『こころ』(下 先生と遺書33) 漱石はこの周辺をよく歩いたようで、『こころ』や『琴のそら音』の中に小石川植物園がたびたび登場します。 安藤坂 (小石川) 「約二十分の後、彼は 安藤坂を上がって、伝通院の焼跡の前へ出た」 『それから』十四 金剛寺坂 (小石川) 「江戸川の縁へ出た時、暗い風が微かに吹いた。 黒い桜の葉が少し動いた。 橋の上に立って、欄干から下を見下ろしていたものが二人あった。 金剛寺坂では誰にも逢わなかった。 岩崎家の高い石垣が左右から細い坂を塞いでいた」 『それから』 江戸川 現在の神田川のこと。 「散歩のとき、彼の足は多くは 江戸川の方角に向いた。 桜の散る時分には、夕暮れの風に吹かれて、四つの橋をこちらから向こうへ渡り、向こうからまたこちらへ渡り返して、長い土手を縫うように歩いた」 『それから』 (小日向) 「竹早町を横ぎって 切支丹坂へかかる。 なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である」 『琴のそら音』 (小日向) 夏目漱石(金之助)の菩提寺。 境内には明治29年正月松の内に、漱石がここで「展先妣墓」として「梅の花不肖なれども梅の花」と詠んだのにちなんだ句碑があります。 「清の墓は小日向の養源寺にある」 『坊ちゃん』 清の墓のモデルも、この寺であるといわれています。 郁文館 (向丘) 郁文館は『吾輩は猫である』の「落雲館」のモデルです。 「いえ泥棒ではありません。 落雲館の生徒です」 「うそをつけ。 落雲館の生徒が無断で人の庭宅に侵入する奴があるか」 「しかしこの通りちゃんと学校の徽章《きしょう》のついて いる帽子を被っています」 「にせものだろう。 落雲館の生徒ならなぜむやみに侵入した」 「ボールが飛び込んだものですから」 「なぜボールを飛び込ました」 「つい飛び込んだんです」 「怪しからん奴だ」 「以後注意しますから、今度だけ許して下さい」 「どこの何者かわからん奴が垣を越えて邸内に闖入するのを、そう容易く許されると思うか」 「それでも 落雲館の生徒に違ないんですから」 「 落雲館の生徒なら何年生だ」 「三年生です」 『吾輩は猫である』 (本郷) 「私はとうとう万世橋を渡って、 明神の坂を上がって、、 本郷台へ来て、それからまた、 菊坂を下りて、しまいに、 小石川の谷へ下りたのです」 『こころ』 三四郎池 東大(本郷) 東大の構内には、三四郎池があります。 「三四郎」に描かれたエリート学生と令嬢の世界は憧れの的となり、小説に登場した心字池は三四郎池と呼ばれるようになりました。 喜多床 (本郷) 1871年(断髪令の年)に創業された理髪の老舗で、客名簿には漱石の名が載っていたそうです。 『夢十夜』に出る理髪店の話も喜多床をモデルにしたようです。 ここは石川啄木が2階に住んでいたことでも有名で、当時の建物は明治村に移築されています。 「正門前の 喜多床という髪結床の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである」 『三四郎』 三 「何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。 吾輩だって 喜多床へ行って顔さえ剃って貰やあ、そんなに人間と異ったところはありゃしない」 『吾輩は猫である』 二 (本郷) 「四角へ出ると、左手のこちら側に西洋小間物屋があって、向こう側に日本小間物屋がある。 そのあいだを電車がぐるっと曲がって、非常な勢いで通る。 ベルがちんちんちんちんいう。 渡りにくいほど雑踏する。 野々宮君は、向こうの小間物屋をさして、 「あすこでちょいと買物をしますからね」と言って、ちりんちりんと鳴るあいだを駆け抜けた」 『三四郎』二 「そのリボンの色も質も、たしかに野々宮君が 兼安(かねやす)で買ったものと同じであると考え出した時、三四郎は急に足が重くなった」 『三四郎』三 藤むら (本郷) 「いやー珍客だね。 僕のような狎客になると苦沙弥(くしゃみ)はとかく粗略にしたがっていかん。 何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。 この菓子はいつもより上等じゃないか、と 藤村の羊羹を無雑作に頬張る」 『吾輩は猫である』 四 (本郷) 『三四郎』で三四郎と美禰子がこの教会で決別する。 「『美禰子さんは会堂(チャーチ)』 美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた」 『三四郎』十二 団子坂 (千駄木) 「ある日の午後三四郎は例のごとくぶらついて、、 団子坂の上から、左へ折れて、 千駄木林町の広い通りへ出た」 「坂下では菊人形が二、三日前開業したばかりである」 『三四郎』 光源寺 (駒込) 「 大観音の前に乞食がいる。 額を地にすりつけて、大きな声をのべつに出して、哀願をたくましゅうしている。 時々顔を上げると、額のところだけが砂で白くなっている。 だれも顧みるものがない。 五人も平気で行き過ぎた。 五、六間も来た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた」 『三四郎』 (護国寺) 「運慶が 護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた」 『夢十夜』「第六夜」.

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