来週の今頃には君はもうロンドンを発ってしまっているね 英語。 1

石井和彦・エッセー

来週の今頃には君はもうロンドンを発ってしまっているね 英語

広瀬さん ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2020年4月号より 「久しぶりに食事でもしない?」3年前の夏、いつもお世話になっている病院に行くと広瀬さんが診察待ちをしておられた。 広瀬さんにお会いしたのは2年ぶりだった。 その時93歳、足腰は随分弱っておられたが変わらずお元気だった。 病院を出て2時間後広瀬さんとステーキ店のカウンターに座っていると、50歳くらいの女性が男性2人を伴って入って来た。 食事をしてそのままスタンドに同伴出勤するらしかった。 女性は、少し離れた席から男性客と話を合わせながら時々こちらの様子を伺っているようだった。 「誰だろう?どこかの店で会ったかな?」と思いながら広瀬さんの方を見ると、特に気にする様子も無く草履 ぞうり のような牛肉を美味しく完食されていた。 「気のせいだったのか?」と思いながら店を出て、広瀬さんを支え10mくらい歩いた時、さっきの女性が店の戸を開け小走りにこちらに向かってき来た。 そして、「私のことわかりますか?昔よくお店に来ていただいて」と懐かしそうに広瀬さんに話しかけ、懇情の別れのように寂しそうな顔をして先ほどのステーキ店に戻って行った。 在りし日の広瀬さんと私 3年前のこの日が広瀬さんとの最後の食事になった。 その後も1人住まいの広瀬さんが気になり時々電話をかけたりしていたが、1年前からほとんど繋がらなくなっていた。 昨年の5月、やはりいつもの病院で広瀬さんが介護型の病院に入院されたとお聞きした。 2ヵ月後車で20分くらいのその病院に伺うと、いつものように知的でおしゃべり好きの広瀬さんがベッドに横たわっていた。 「いやー嬉しいなあ!こんなところに入って誰も来てくれないと、俺ももう終わりか?と僻(ひが)んじゃうんだよね」とおっしゃった。 それから3度目の11月に伺った時には近々演奏するモーツァルトをスマホで聴いていただいた。 広瀬さんが大好きだった曲だけど口も動かせず意識もはっきりしてないようだった。 年が越せるかなあと思っていたけどやはりこの時が最後の別れになってしまった。 1月1日の朝、96歳を目前に亡くなられた。 2月になって息子さんから連絡を頂き、久しぶりに広瀬さんの御宅にお邪魔した。 数学から宇宙、音楽、文芸など様々な分野の積み上げられた本、オペラから交響曲までぎっしりと整理されたレコード、自身で編集、出版された植物関係の専門書、世界中旅をして触れ合った人々との多くの写真。 そこではあらゆることに興味を持ち楽しく取り組み充実した広瀬さんの人生が感じられた。 その中から僕は1冊の本を遺品としていただいた。 こんなものにも興味があったのかと感心しながら、ウィーンで勉強、活躍した打楽器奏者の素敵なエッセイを読ませていただいた。 広瀬さんとのお付き合いは、25年前僕のコンサートのことを新聞に寄稿して頂いた縁で始まった。 以来、各種催しや食事など度々誘っていただくようになり、僕がウィーンで勉強している時には2人の女性を伴ってふらっと陣中見舞いにも来て下さった。 そのように年齢や肩書きに関係なく誰とでも楽しく過ごせる人だった。 「あそこの店に可愛い女性が入ったんだ、行ってみない?」と飲みにも度々誘って頂き、お店に行くと「どう?素敵な女性でしょう?」と言ってお茶を飲みながら会話を楽しまれるのだった。 父と同年代だったけど、広瀬さんは僕にとって人生を豊かに生きるメンターであり「友だち」だった。 「石井さん、あそこの喫茶店は美人姉妹がやっててね。 僕は時々お昼を食べに行くんだけど、今度一緒に行こうよ!」 こちらはついに実現しなかった。 今度は僕が誰か誘って行ってみよう。 希望のレクイエム ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2020年1月号より スーパーで流れるBGMがいつの間にかスッと心に入り込んできた。 若い女性のギターによる弾き語りらしかった。 「今日のおかずはハンバーグ〜お月様ころころころがして〜」一体どういう歌だこれは?と思っていたら、涙がポロッと出てきた。 一見、素朴なメロディに日常の言葉を連ねた平凡な歌詞。 だけど何かが違う!美しいとか、明るいとか、そんな言葉が意味なく思えるように心に染み込んでくる歌声だった。 いつもの僕はBGMが苦手だ。 デパートなどあらゆる音が入り乱れてるところに行くと益々苦痛になる。 なのに、スーパーで流れている歌にこれほど聞き入っている自分に本当にびっくりした。 ブラチスラヴァ城のライトアップ それ以来、買い物に行った時その歌が流れるたびに気になってしまい、歌詞を頼りにネットで調べてみた。 それは岩国出身のシンガーソングライターHさんの弾き語りで、スーパー丸久(まるきゅう)が委嘱した「家族の音」だった。 それから間もなくして高校の同級生よりHさんのコンサートに誘われた。 同級生はHさんが幼い頃からのママ友でずっとHさんを応援しているのだと言う。 僕はペンライトを持ってのノリノリ応援に躊躇しながらも(こちらも苦手)初めて生の「家族の音」を聴きにいった。 バンドとの共演後、大ホールのステージ前寄りにぽつんと座りPA マイク も使わなかったHさんの弾き語りは、不思議な希望を感じさせた。 その1週間前、僕はピアニストのKさんとバッハを共演した。 2年前Kさんと初めてウィーンで共演した時、彼女の心に染み入るようなモーツァルトがなぜか不思議に感じられた。 そして今回スロヴァキアで演奏したKさんのバッハはさらに深かった。 CDなど巷ちまたで聴かれるような厳格で頑張るバッハではなく、人間バッハを感じさせる演奏だった。 未だ20代の彼女の音楽がなぜこんなにも深く、温かいのだろう?数日間Kさんと一緒に練習をして話をしているうちに、彼女の音楽の意味がわかってきた。 シンガーソングライターのHさんもピアニストのKさんも未だ若い人たちだ。 ところが二人とも、家族を突然失った悲しみや病気と共に人生を生きていた。 そんな彼女たちの音楽は同様に深く、優しく、希望をも感じさせる。 それは、彼女たちが自分の人生に何があっても決して誰をも恨むことなく、人を信じ、自分の人生を信じ、音楽に人生を問い続けてきたからだろう。 彼女たちの演奏は大切な家族のためのレクイエム(鎮魂歌)だと思った。 若い彼女たちの深い演奏から、今年の希望をもらった。 デビュー ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2019年10月号より どうもおかしい。 最近勉強する時間が足りない。 今年は本番も多くないはずだし、タイムカードもない生活をしてるのになぜだろう? ゆっくり考えてみた。 1年前に始めたフランス語のレッスンはおよそ1、2ヶ月に1回のペースで往復3時間かけて車で通っている。 いつもレッスンの3日前から集中的に勉強するから年にして合計約1ヶ月の消費。 同様に1年前に始めたフィットネスは、家を出てから帰るまで約3時間。 結局半日近くつぶれるから年にしてやはり1ヶ月の消費。 そして昨年12月に生まれた初孫のお世話が新しく加わった。 夫側の両親はアメリカ在住で、妻側=長女側は岩国在住だ。 それでどちらの両親も東京に住む長女の手助けは出来ない。 近くに住む次女と息子が時々手伝いに行ってるけど若い二人は結構忙しい。 そのため東京で僕の用事がある時はできるだけ子守に通うことにした。 コンサートや仕事が終了した後ホテルから次女&長男のところに移って家事をやり、孫のところに通い育児を手伝っている。 2、3ヶ月ごとのペースで年間約2週間の消費。 さらに考えてみると、やはり昨年12月からJCP事務局スタッフのKさんが長期お休み中だ。 彼女がやってくれていた毎週2時間程度の情報管理や楽譜製作がそのまま僕の仕事になった。 驚いたことに新しく始めた 始まった 事々によって1年のうち4分の1の時間がこれまでの生活に入り込んでいた。 どれも僕にとっては喜びだから一生懸命やっているけど、音楽の勉強時間を圧迫していることには気づかなかった。 先週は孫の保育園の敬老会らしきものに行った。 未だ生後9ヶ月だけどたまたま空きがり、8月から週3、4日午後だけお世話になっているのだ。 当日はわくわくしながら登園すると、どのクラスも大勢のおじいちゃんおばあちゃんで賑わっていた。 ところが0歳児のわが孫のクラスは3人だけの登園(5人中)でしかも僕以外おじいちゃんもおばあちゃんも参加はなかった。 3人の先生と3人の園児で小1時間童謡遊びなどして楽しく過ごし「10月の運動会も是非参加してくださいね〜」と言われながら孫と2人してご機嫌で帰ってきた。 思い返せば僕は3人の子どもたちの運動会もできる限り参加しているけど、当時はいつも心に余裕がなかった。 たいていシンフォニーなどのスコア(指揮者用楽譜)を持って行き、子どもたちの出番以外はテントの隅で必死に覚えていた。 さらにもっと昔小学校の教員をやっていた時も(色々やってます)遠足のバスで後ろの席に座ってベートーヴェンの運命を覚えていたことがあった。 必死だったということもありなぜか静かなレッスン室にいるよりよく覚えることができた。 今思い返すと本当にろくでもない人間だったと思う。 来月の孫の運動会は色々行事もあってまず無理だけど、僕の心は「その頃東京で何か仕事が湧くといいなあ」ともどこかで思ってもいる。 さすがにその時は楽譜を持って行くのはないけど(あたりまえですね)、そうなると逆に先頭に立って参加していそうな気もする。 じいちゃんデビューしてありがたい仕事が増えた。 ネット ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2019年7月号より 買い物はすっかりネットが多くなった。 わずか1個のボタン電池が送料込み75円で注文の翌日届いたのにはびっくりした。 楽譜もネットだ。 現役でいる限りどんどん増えて行くのは仕方ないけど、せめて本はこれ以上増やしたくない。 そう思って近くの図書館を勝手に自分の書庫と決め、たちまち必要無い書籍は少しずつ近くのリサイクル集積所に持って行った。 すっきりしたと思っていたら、あれ?いつの間にか再び本が増えている。 図書館で借りた面白い本がいつの間にか寝室で増えていった。 同じ本をネットで注文してしまったのだ。 でも寝入る前のベッドでの読書は僕の楽しみだ。 何度も読みたい本は買ってしまうことにした。 そして旅行の手続きも全てネットになってしまった。 国内はもちろん、国外の飛行機もホテルも全てだ。 日程の変更や確認をネット旅行社に電話をすると、外国人らしい人がきれいな日本語で丁寧に対応してくれる。 電話番号こそ国内だけど本当はどこに掛かってるんだろうと思う。 先月はネットで恐る恐るブレザーを注文した。 翌日には届きさっそく袖を通してみると中々いい。 近所で袖丈と肩パットを2000円で直してもらったけど本体は何と3800円だった。 前に買ったランバンのブレザーは20倍以上の値段だ。 両方並べてみるとそれなりに価格の差はあった。 でもネットだからとあまり期待してなかったし、気楽にどこにでも着ていけそうで結構気に入ってしまった。 そこでもう少し挑戦してダメもとでスーツを注文してみた。 シンプルな夏向きの薄い上下だ。 前回よりも本気で画像や口コミも調べただけに最初から体にピタッと合った。 しかし・・・上着に内ポケットはなく、外ポケットも形だけで使えず、ズボンの後ろポケットも当然のごとく無かった。 本当に無い、形すら無い!娘の結婚式でも着た 関係ないけど)ランバンのスーツと並べるとその差は歴然だった。 ネット上のモデルの着こなしは美しかったけど実物はやはり2600円の値段どおりだった。 さすがに外に着て行けるとは思えず、ネットの注意書きに従って返品の手続きをした。 すぐにメールで「返品は中国なので、送料のほか通関にも手間隙が掛かる。 20%の返金でどうか?」と言ってきた。 一瞬もうそれでいいかなとも思ったけど再度「送付先は大阪になっており、注文翌日には受け取っている。 中国に返品は理解できない」と書いた。 再びすぐに「大阪ではダメ。 20%で折り合わないか?」と返事が来た。 何か不自然だなと思った。 今度はアマゾンの苦情センターにメールすると、すぐに同様の返事がきて、「100%返金の手続きをした。 お客様の手間が大変だから品物も送り返さなくて良い」と言ってきた。 益々意味がわからなくなってきた。 衣服を対面で買うのは煩わしいこともあるけど、やはり出来るだけ時間を使って丁寧な買い物をしなくては。 雑多に縫製されているスーツがかわいそうだと思った。 ドイツ語学校 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2019年5月号より 先生!私ウィーンに1ヶ月行けることになったんです!」 先日夜遅く、数年ぶりにOさんから電話を頂いた。 「それから…スイスにもドイツにも行きたいんです。 でも1人で行くのは初めてなんです。 どうしたらいいでしょうか?」突然のはじけるような電話からはあふれるような喜びと少女のような不安が伝わってきた。 Oさんは音楽科教員を定年退職したあと、さらに数年間継続して教壇に立っていた。 しかし今年から非常勤(パートタイム講師)になり夏休みはすべて自由になったそうだ。 在職中の40年間はフルタイムで中学や高校に勤務をしながら4人のお子さんを育てられた。 そしてピアノも一生懸命を弾いてこられた。 僕も何度か彼女の素晴らしいピアノでチャイコフスキーやベートーヴェンのコンチェルトをご一緒した。 電話で話しているうちに、Oさんは夏休みになったらドイツやスイスを回ってウィーンに行き1ヶ月間ドイツ語学校で勉強することになった。 「素敵だな、僕ももう一度ドイツ語学校で勉強したいな」と思った。 僕が初めてドイツ語学校に入ったのは30年前の平成1年だった。 長女が生まれてようやく半年経った頃、10年間勤めた学校を辞め(当然定年退職ではありません)、ドイツ語も全くしゃべれずウィーンに行った。 すべてが不安だった。 それでもようやく勉強ができる!と言う喜びは大きく、毎日わくわくして学校に通った。 授業は午前か午後の4コマ3時間、ひとクラス10人、授業料は月3、5万円程だった。 クラスメイトは、ルーマニア、コロンビア、イラン、タイ、韓国、イギリス、トルコ、中国など様々な国、人種、宗教、年齢の人たちで構成されていた。 「これで一体どうやって授業をするのだろう?」という心配は授業初日からさらっと無くなった。 教室に入ってきた先生は一人ひとり「ヴォヘア・コメンズイ?」と聞いて回る。 最初(?)と焦っているとそのうち「貴方はどこからきたの?」というニュアンスが伝わって来た。 へえ〜と思っているうちに、どんどん授業に吸い込まれていった。 最初の1ヶ月の間に学校が主催する校外観光やホイリゲ(ワイン酒場)、カフェの交流があり、生徒が催す各種パーティがあった。 生徒同士では最初片言の英語で意思の疎通を図っていたのが、不思議なもので1ヶ月経つうちに何とかドイツ語で交流していた。 それは熱心な先生のお陰でもあった。 言語は、その言葉にたどり着くまでの歴史、文化のすべてを内在する。 クラスメイトとドイツ語でしゃべっているときでさえ、それぞれの母国語から来る個性が感じられ、すべてが僕とは違う彼らともっと色々なことを喋りたいと思った。 僕ももう一度ドイツ語学校で1ヶ月間勉強したい。 それから英語を1ヶ月、イタリア語を2ヶ月、ロシア語を3ヶ月、フランス語を半年それぞれ語学学校で勉強したい。 そしてアメリカ人牧師のケン、イタリアでホームステイしてるとき遊んだ当時中学生のマルコ、ロシアのオーケストラでお世話になったナターシャ、指揮者ゼミでいつも一緒にいたフランス人のパトリックといっぱい話がしたい。 まずはOさんの今年の夏休みの話が楽しみだ。 きっとクラスで人気者になっていっぱい友達を作り、十数年分の人生経験をして帰国されるだろう。 迫田先生 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2019年1月号より 「石井先生は楽譜通り音が並んでない演奏をどう思われますか?音楽とは認めませんか?やはり作曲家を冒涜してると思われますか?」 不思議なことを言う方だなと思っていた。 コンサートが終わったとき「いやー!よかったよかった!」と言って体格のよい方が楽屋に来られた。 そのとき共演したピアニストに私の恩師ですといって紹介されたのが迫田先生だった。 その後も先生のお弟子さんと共演する度に「ああいい演奏だった!やっぱりピアノ協奏曲はいいですね」と言って挨拶に来られた。 それから折に触れて「障害者の方々のピアノ演奏についてどう思われますか?」「一度聴いていただけませんか?」とおっしゃるようになった。 初めて迫田先生にお会いしてから数年後、先生が主催されるコンサートで障害者の方々の演奏を聴いた。 全く耳が聞こえない人のリスト、手首から先がない人のショパンは素晴らしい演奏だった。 全盲で自閉症のピアニストが、今初めて聴いた曲を即座に再現したときは、「一人ひとりの人間に確実に様々な才能を与えておられる神」が今この場におられるのでは?とさえ思った。 それから半年後、迫田先生から「片道分の航空券でウィーンの障害者国際コンクールの審査をお願いできませんか?」と言って来られた。 実質の主催者である先生が、もう10年以上同様の催しに自費を投入して続けてこられたことは知っていた。 せっかくの申し出は遠慮して自費参加させていただくことにした。 そして2013年の12月、ウィーン市民が心から感動し惜しまない拍手をする様子に3日間浸った。 それから5年後の2018年12月にはニューヨークで4回目の障害者国際ピアノコンクールが開催された。 今回も3日間唯ただ感動の涙が流れっぱなしだった。 私たちには想像もできない障害を持った人たちばかりだけど、どれも各国を代表してこられた人たちだ。 立派な音楽家の演奏だった。 そしてどの演奏も深く心をえぐってくる。 油断して聴いていると「お前も本当に音楽家?」と問われるような気さえした。 3位に入賞したイタリア人男性のシューベルトは最初の第1音から真剣勝負を迫ってくるようにさえ感じた。 入賞者コンサートで彼の音楽を聴いていると再び涙がぽろっと落ちてしまった。 やばい!とふと周りに視線を移すとあろう事かテレビカメラがずっとこちらを捕らえていた。 「バカ映すな、こんなとこ撮ってどうするんだ!」と思っていると、ぼろぼろっと涙が溢れてきた。 終演後ハンカチを出しながらそっとあたりを見渡すと観客の多くが同様に涙を流していた。 終演後彼に「ミ・ピアーチェ・トウア・ムージカ=私は貴方の音楽が好きです」と言うと、「?」の顔をしている。 え?イタリア人にイタリア語でなぜ通じない?と思ったら、耳がほとんど聞こえないとのことだった。 何がこんなに心を打つのだろう?なぜ彼らが音楽の本質を持っているのだろう? いつか迫田先生が言われていた。 「この人たちはピアノに興味を持ったときほとんど門前払いを食らったんです。 君にはピアノは無理だ。 他の事をやりなさい。 どうにか教えてくれる先生が見つかっても、障害があるのだからこの程度で満足しなさいと言われる。 それを乗りこえてピアノを弾きたい、音楽をしたいと努力してここに来ているんです。 それでも未だに障害者は馬鹿だと思っている人がいる。 とんでもない!彼らには障害を持ったからこそ私たちにはない深い音楽が表現できるんです。 」そしてニューヨーク大会の終了の挨拶では涙ながらに「ディスイズ、ディスイズ、ミュージック!」と言われた。 今年82歳になられる迫田先生はご自身素晴らしいピアニストとして活躍された方だ。 習い事 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2018年10月号より 数年来やりたかったことをようやく始めた。 フランス語の勉強だ。 大学に入学して間もないころ1度だけフランス語の授業を受けたことがあった。 最初の授業に出ると僕以外すべて女子学生だった。 あんまり恥ずかしくて翌週からドイツ語に移った。 そのドイツ語も前期試験でほとんど白紙で出そうとしたら、近くにいた先輩が「ばか!何でもいいから書け!俺のを写せ!」と言ってくれようやく1単位取っただけだった。 それから15年後に参加したウィーンの指揮者ゼミは当然ドイツ語で行われ、多少自信があった僕の英語も全く通用せず本当に大変だった。 3年後再びウィーンに降り立った僕は、すぐにゲーテ(語学学校)に入りわき目も振らずドイツ語に取り組んだ。 ウィーン大学入学後もドイツ語講座や、語学学校に通った。 オペラを振るにはさらにイタリア語が必要だ。 短大教員をしていた夏休みにフィレンツェで1ヶ月勉強した。 ドイツ語に比べてイタリア語はすぐに馴染んだ。 あと2ヶ月勉強するとかなり喋れると思ったけど、次に勉強に行ったのはそれから11年後だった。 その時は短大を辞めすぐにミラノに行った。 今度こそ完璧なイタリア語を取得だ!と毎日一生懸命勉強していると、何が何でも吹奏楽コンクールの審査員をやってくれと日本から連絡が入り2ヶ月も経たないうちに帰国することになった。 でも最低限度の会話力と読み書きだけは何とか取得した。 さらにあちこちのオーケストラを振るためは英語が必要だ。 特にルーマニアや、ブルガリア、ロシアなど東欧に行くとピタッとどの言語も通じなくなる。 そして控えている通訳や放送局のインタビューはすべて英語なのだ。 でも今さら英語まで勉強していられない。 中学高校6年間の英語力だけでも、頑張ってしゃべっていると身につくはずだと思うことにした。 その上でフランス語は今回の人生では無理!次の人生に掛けよう!と思っていた。 そうして頑 かたく なに拒んでいると、なぜかフランスの曲を振る機会が増えてきた。 これまでもフランスのオペラアリアを振るときは歌詞の部分だけ勉強して無理やり覚えていた。 しかしそんな付け刃の勉強で音楽が自然に美しく流れるはずはなく、歌手も歌い易くはなかったはずだ 迷惑かけました。 とりあえず2、3ヶ月集中できそうになってきた先月からフランス語のレッスンに通い始めた。 未だ「ジュ・テーム」より「イッヒ・リーベ・ディヒ」(フランス語とドイツ語のアイ・ラヴ・ユー)の方が馴染むけど、ドイツ語やイタリア語の勉強を始めたときと同様に、未知の文化に接する喜びでわくわくしているところだ。 しかし勉強でわくわくというのは学生時代の僕には全く分からなかった。 そして今大学2年の息子が昔の僕の状態だ。 息子が夏休みに帰ったとき、「もともとわからん授業が(フェンシングの)試合で抜けて戻ってみると益々わからなくなってる。 ちゃんと卒業したいから出席だけはしてるけど、わからん授業は大体寝てる。 」と言ってた。 そのとき「気持ちはわかるけど勿体無いな」という話はした。 それから間もなくして僕がフランス語の初レッスンを受けてわくわくして帰ったとき、息子にライン(メール)した。 〜〜〜お疲れ!パパはフランス語の勉強を始めた。 勉強は本当はめちゃくちゃ面白い。 でもみんな無理矢理やらされてるから離れようとする。 もったいない!大学は閉鎖社会だからろくでもない先生もいるけど、ばりばりの専門家には違いない。 卒業してあんなこと習おうと思ったら莫大な金と時間がかかる。 先生のいいところとか、科目の面白いところとか それはかなりある 、そこのクラスの友だちとか、楽しそうなことを探すのが授業だと思えばいい。 〜〜〜 夢の中の僕にも言いたかったのだ。 大学の授業は未だに夢にもよく出てくる 初めての本番 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2018年7月号より 初めての本番はわけもわからなく怖い。 先日は父親として初めて娘の結婚式(本番)を経験した。 娘親は特にすることはないと言うけど、ドラマや映画、コマーシャルでさえ、彼氏を連れてくる娘、嫁に出す父親、と言う設定が目に付きプレッシャーをかけてくる。 さらに「バージンロードは公園を歩くんだよ、舞踏会を入れたからパパにもワルツを踊ってもらうよ、最後にお話してね」などこれまでの結婚式からは想像もできないようなことばかり言われ、唯々ただただとまどうばかりだった。 「すでに籍も入れて一緒に住んでるし、もう結婚式という儀式はしなくてもいいのでは」とか勝手に思っていた。 「パパは、参加して下さった方々にゆっくり料理も味わって頂ける温かい結婚式がいいなあ、ヨーロッパのような」などと余計なことを言ってしまったからこんなことになったのか?本番は一体どうなるのだろう?公園でと言うけど天気は大丈夫?と心配ばかりしていた。 ついにやってきた結婚式は南池袋公園の芝生を歩き、大きな木の下で新郎新婦が誓いの言葉を交わし、公園の中のレストランでパーティという設定だった。 当日の朝、心配していた通り雨がポツリポツリ落ち始め、バージンロードは芝生で行わずレストランの2階から降りてくることになった。 ところがそわそわしているうちに開始の時刻を迎えても少しも始まる様子がない。 ?と思って周りを見渡すとスタッフの皆さんが外で慌しく準備をしていた。 いつの間にか空にスッと薄明かりがさしていたのだ。 結局少し遅れて予定通り外の芝生でセレモニーがスタートした。 公園で子どもたちと遊んだりくつろいでいた人たちも「結婚式だ!」と言う表情でさりげなく邪魔をしないよう気を使って下さった。 そして誓いの言葉も終わりレストラン特製の心のこもったケーキをカットする頃、本格的な雨になってきた。 人生の大事な場面で天気が見守ってくれるなんてことが本当にあるんだ!と思った。 2年前、大学の同級生のお嬢さんの結婚式に出席したときは、開始直前にみごとに美しい虹が顔を出した。 僕はこのとき初めて、娘を嫁がせる父親の気持ちと言うものが感じられたように思った。 さて結婚式&パーティは娘の恩師 テノールの大家です の歌に始まり、同級生たちによるオペレッタ、新郎と新婦のワルツなどあっと言う間の5時間!!だった。 一番最後は僕と新郎のお父さんの挨拶だ。 そのとき思い出していたのは、娘が小さい頃、それからもっと昔の事だった。 僕は昔、結婚式が行われた南池袋公園を横切って毎日大学に通っていた。 池袋駅から数分歩いて公園にたどり着きさらに数分歩くと大学だった。 その頃は「ラッパが上手くなりたい」ばかり考え毎日毎日通った。 しかし1日だけ無断欠席したことがあった。 その日はスランプなのかなぜかラッパを吹く気がしなかった。 すると同じアパートの先輩が1日遊びに連れ出してくれた。 ところがその晩、何と同級生と後輩の女の子がお見舞いの花を持ってアパートまで訪ねて来てくれた。 「真面目なお前が学校に来ないからてっきり病気で寝込んだのかと思った」と言った。 その頃の僕に、40年後娘が僕と同じ大学に同じようにして通いここで結婚式を挙げることを教えてやりたかった・・まさか! 結婚式前夜からの2日間、新婦のお父さんは「大事なのはとにかく二人の幸せだ」とずっとおっしゃってた。 まったく同感だ! そして最後にJCP事務局員の三上さんに「今日はよく泣きましたね」と言われた・・・こちらも同感だ! 石井のさんぽ ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2018年4月号より 毎朝散歩をしている。 面倒だなと思うときもあるけど、40分も歩くと1日の大仕事を終えたような気持ちになる。 いつも団地のそばの小川が流れる道を上がって行く。 10分も歩くと青い空が広がり岩国医療センターが見えてくる。 今朝はここでトイレに行き、水を飲んで、ATMでお金を下ろした。 ここが僕にとって一番近い銀行であり、コンビニであり、カフェで、レストランなのだ。 昨年からここに高校同級生のKさんが入院していた。 同級生と言っても女性なのでお見舞いには行きづらい。 容態はどうなんだろう?元気になったのかなあ?とか心配しながらその前を通り過ぎ今度は別の小川沿いを下って行く。 こちらにも団地が広がっておりさらに緑が多く気持ちがいい。 Kさんとはしかし高校時代に面識があったわけではない。 10数年前に他の同級生の誘いで後援会に加わって下さったのだ。 その頃から後援会報のエッセイなども時々感想を頂くようになった。 それにはいつも「元気をもらいました」とか言って頂いたけど、おそらく僕の方が何倍も元気と、希望を頂いていたよう思う。 彼女は新幹線「新岩国駅」から車で数分、小さな峠を越えたところにあるご主人の実家近くにご家族と住んでいた。 そんな新幹線駅の近くに僕が大好きな桃源郷のような地域があった。 そこには蝋梅、紅梅、桜がどれもひっそり、しかしとても美しく咲いていた。 ところが僕はそれ以上彼女のことは知らなかった。 もっと楽しめるコンサートを企画してあげたい、いつかウィーンツアーにも誘ってあげたいなどと思っているうちに、先月ひっそりと岩国医療センターで逝ってしまわれた。 お葬式もご家族でそっと行われたとのことだった。 昨年8月の高校同窓会でもお会いしてない。 病院におられたのだ。 Kさんが彼方で美しい季節を、音楽を楽しまれるよう今朝も散歩コースの最後にある神社でお祈りをした。 蝋梅のごとく 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第77号より 玄関の蝋梅 ろうばい が美しく香る。 毎週月曜日家事に来て下さるYさんが年末に生けて下さった。 1週間もすると小さな蕾 つぼみ が見事に開き、センリョウの赤い実と共に新年を祝福してくれるように玄関を芳香な香りで満たしてくれた。 それからさらに2週間、今日もしっかり玄関を豊かにしてくれている。 蝋梅 ろうばい この頃になるとやはりあちこちに蝋梅の開花が見られるようになり、「こんな寒いときに真っ先に咲くなんてすごいなあ」と感心しつつ、散歩中もクンクン鼻を近づけている。 向かいの家の蕾も最近開花した。 こちらに蝋梅があると気がついたのは数年前だ。 よくよく考えてみると昔から黄色い生気のない葉っぱは目に入っていたのだが、あまりにも地味な様相に全く関心がなかった。 いつの頃からか庭先に出る度 たび にかすかな甘い匂いを感じるようになり、ようやく「あ、これが蝋梅というものか」と気が付いた。 ここに住んで30年〜何だか申し訳ない気がした。 あちこちに蝋梅の開花を確認した頃、今日は廃屋がある庭に紅梅を見つけた。 「エッ?今朝は特に寒いのにもう咲いているのか?」と近づいてみると、ミイラのようぶら下がった実に隠れるようにひっそりとピンクの花が咲いていた。 「栄養を取られたの?」それでもよく見ると枝中に小さな花を咲かせている。 今になって思えば、昔は梅花どころか派手に咲く花々でさえあまり感じる余裕はなかったように思う。 どんなに寒くても雪が降っても毎年必ず咲き続ける梅花!蝋梅の花言葉は「ゆかしさ」「いつくしみ」と言うらしい。 世間が騒がしくても、街中が雑多でも、周りが自分と違っていても...彼らの生き様を励みに今年もさらっと確実に音楽をしたい 機内の過ごし方 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2018年1月号より いつもどおり6時半に起床。 食事、荷物のチェックをして8時半には車で出発した。 15分後、岩国空港で20キロのトランクと共にチェックインして身軽になる。 トランクはウィーンで受け取りだ。 11時、羽田空港に到着。 ここではパスポートと共に再度国際便にチェックインする。 ミュンヒェン行きに乗り、座席に落ち着き、スマホの電源を切る。 しばらくすると飲み物に続いて食事が出された。 ようやくホッとする〜もう電話も鳴らないメールも届かない、12時間完全に自由だ! いつも通り赤ワインを頂き、昼食を摂り、コーヒーを頂きさらにホッとして、歯を磨いて少し寝る。 周りの乗客はそれぞれ映画など観始めた。 最近の飛行機では最新作などダイレクトで見ることが出来てとても便利だ。 さて僕は・・・そろそろ勉強開始だ。 バザルジク州立交響楽団 フィルハーモニーホール、ブルガリア 3日後に演奏する曲の譜読みを始める。 今回は2ヶ月間たっぷり勉強したしたはずだけど、今回も最後は機中での追い込みになった。 もう20年もの間、色々忙しくしていても心のどこかで「大丈夫、最後は飛行機の中で何とかなる!」と思ってしまう。 「最後の機中で最後の勉強に集中!」と言う習慣が身についてしまったのだ。 昔短大に勤めていた頃、あちこち国内に出張をしていてそのまま飛行機に乗り込み、夜中の日付が変わってヨーロッパのホテルに着き、そのまま朝からオーケストラの練習を開始していた。 もちろん時差ぼけ状態だったけど、当時はこれ以上日程を割くことは出来なかった。 この頃、「最後の追い込みは飛行機の中で死に物狂いで勉強」が身についてしまった。 「本当に明日までに覚えられるのか?明日本当に俺は振るのか?」と言う背中に張り付いた恐怖心とワンセットだった。 それに比べると近年はもう少し落ち着いて勉強できるようになったけど、やはり最後は機中で楽譜を覚えると言うスタンスになってしまった。 でも楽しみはある。 最初の1杯のワイン!そして勉強して落ち着いた頃心地よい疲れと共に眠ること。 それにも飽きた頃ちょっと見る映画。 それから先日はお隣の乗客に「え?ミュンヒェンまで一人旅なの?ヨーロッパは初めて?すごいねえ!大丈夫、英語は通じるよ!今、クリスマス市が美しいから楽しんでね」なんて話しかけ、彼女の人生をふと見せてもらうこと。 あっという間に12時間経った。 さらに乗り継いで1時間でウィーン空港に降り立った。 無事美しいコンサートを終え帰りの機中では、やはりワインを一杯頂く。 次に・・・映画だ!最新作のヒューマンドラマを観る。 日頃映画館に行くこともないしDVDを借りることもない僕にとって、機中で観る映画はどれもこれも新鮮だ。 観る、泣く、食べる、寝る、再び観る。 こうして3本立て続けにヒューマンドラマを観てずっとぼろぼろ涙を流していた。 真っ暗だけどさすがに回りに気づかれたくないなあと思っていた頃、隣のご婦人から「仕事ですか?」と聞かれた。 「ええ、まあ」「お隣のお嬢さんは中学生ですか?学校を休ませて始めてのヨーロッパ?いいですね。 いつか必ず彼女の自信に繋つながりますよ」とか言ってると羽田空港に到着した。 さあ!今年もいい音楽を頑張るぞ! ウィーンの女学生 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第76号より 休憩時、エキストラでホルンを吹いていた女の子が練習の順番を変えてくれと言ってきた。 「この後私の出番はオペラアリアの2曲だけです。 私の吹く曲を先にやってもらえませんか?」へえ〜よくこんなことを俺に言ってくるなあと思いながら、「わかったコンミスと相談してみよう」と答えた。 ユナイテッドオイロッパウィーン バロックザール、ウィーン コンミスは、「じゃ後半の練習のはじめに皆に聞いてみよう」という。 「え?そんな簡単に順番をかえるの?」と思っていたら、「この子の出番が後2曲みたい。 先にやっていい?」「おー!いいよいいよ先にやってやれ!俺たちは時間があるから」とか皆ワイワイ言い始めた。 ホンマかい?このオケのメンバーは皆ウィーンフィルやウィーンシンフォニカーなどの錚々 そうそう たる連中だ・・・その気さくさと、それゆえにスーと物事が動いて行く様を目の当たりにして本当にびっくりした。 本番の日、そのホルンの子と話してみたいと思った。 「君は何年生?どこで勉強したの?」「私は ウィーン国立 音大の3年生です。 オーバーエーステルライヒ ウィーンの北 の町で育ち、高校生になって近くの音楽学校でホルンを習い始めました。 」「卒業したらどうするの?」「ウィーンのオーケストラに入ります。 」 ゆっくり話してみると本当に素直な普通の若い女の子だった。 思ったから素直に言う彼女、それを素直に受け止めるオケのメンバー、それは正 まさ にウィーンのオーケストラが持っている「自然な美しさに溢れた素直な音楽の流れ」そのものだと思った。 同 級 会 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2017年10月号より 高校の同級会があった。 優秀な幹事が数年毎に開催してくれもう20年になる。 実は最初の頃はとても億劫だった。 高校時代には男子生徒の半分以上知らなかったし、女子生徒に至っては同じクラブの子以外話をしたこともなかった。 そんな同期会に行って懐かしそうに話すのも面倒だなと思っていたのだけど、2度、3度と出席しているうちにだんだん色々な楽しみがあることがわかってきた。 500名の卒業生のうち60余名が参加した今回は、以前のような生き生きした様相から少し安堵したような穏やかな雰囲気に変わっていた。 前期高齢者 65歳 に達する年と言うこともあり、すでに退職あるいは引退して数年間過ごしてきた人、正に一線から退こうとしている人、現役そのままの人、本当に様々で、様々な顔をしていた。 浜離宮朝日ホールでのコンサートにご来場いただいた関西学院大学首都圏同窓会40年卒の皆様と共に くじ引きで着いたテーブルでは隣の女性と話すのは初めてだった。 確かに同級生だったはずだが旧姓を聞いても分かるはずもなく、しかし初対面?の女性との会話はとても楽しかった。 もしこれが高校時代だったら楽しいどころか話す機会すらなかったはずだ。 20年前の同期会では始めて会う男に「よう!元気か?」と言われびっくりしたことがある。 顔はもちろん名前を聞いてもわからず適当に話しているうちに、以前僕が通っていた薬局の親父だということがわかった。 その頃はいくらか年上のまじめなおっさんだなあくらいにしか思っていなかったのだが、同級生だったと知り本当にびっくりした。 しかもうちの娘と彼の娘も同じ小学校にいて同級生だと言われさらにびっくりした。 今ではこうやって普通の顔をして普通に同級会に出て顔も知らなかった同級生との交流を楽しんでいるのだけど、実は僕は本来この高校に行きたかったわけではなかった。 特に1年生の秋に音大に行こうと決めてからは、ずっと「しまった!もっと吹奏楽がうまい他の高校か音楽高校に行くべきだった」「毎週毎週模試なんかやっとられんなあ」とか思っていた。 音楽を深め求め続けるためには、音楽以外のことをしっかりやっておくことがとても大切だとわかってきたのはずっと後だった。 さて、二次会では1年次にクラスメイトだった森澤 旧姓樋口 君が話しかけてきた。 彼と話すのは48年振りだった。 森澤君は大学卒業後ずっと銀行に勤め最近定年退職したところだった。 在職中は仕事の関係で広島交響楽団のコンサートに時々行くようになり、ふと僕のことが気になっていたという。 「うちの高校から音楽家になるなんてとても大変だったんじゃないか?」初めてそう思ったそうだ。 そして「貴方は本気の目をしていますよ」と言ってくれた。 彼はこの秋から通訳ガイドをやるために勉強を始めたそうだ。 きっと彼のこれからの人生も本気なのだ。 何か同級生に助けてもらった気がした。 パリの散歩 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2017年7月号より 今回パリを旅するまでフランスには興味がなかった。 さらに好きではなかった。 それは、 1. 昔パリの地下鉄で切符を買おうとしたら無視された。 英語で話しかけたからか途中からプイと横を向かれ、次の客に愛想よく応対していた。 そんなことが何度かあり何と狭量な民族かと思ってしまった。 フランスの映画は最後までたどり着いても、もやもやっと終わってしまうことが多い。 同様にフランス音楽は結論があいまいだ。 ベートーヴェンのように「わかったか!これでもか!」とまで言わなくてもいいけど、愛人のことを問い詰められ「それが何か?」とはぐらかしたフランスの大統領みたいにあいまいな音楽が僕には向いてないと思っていた。 街中は雑然としていて、地下鉄も暗くてきれいとはいえず、お金を払って入るトイレも便座がないなど概して清潔感が感じられない。 観光客でにぎわう「ムーラン・ルージュ」 というわけで、世間が言うファッションや芸術の街パリと僕が体験したパリのギャップが大きすぎた。 それに特にフランス語を勉強したこともなかった。 たまにフランスオペラのアリアを振る機会があっても、その部分だけフランス語をつけ刃やいばのごとく勉強して振っていた。 しかしやはりどこか自分にうそをついてるような気もしていた。 僕がフランス語ができないことは実際には歌手にはばればれだっただろう。 しかも最近フランスの音楽を振ることが増えてきた。 「よし、一度バシッとフランスに浸りに行こう!」とモチベーションが上がってきたところで、何とパリはテロが増え極右のルパン氏が台頭するなど益々物騒になっていた。 今回のパリ滞在で何よりも驚いたのは、十数年前に比べと黒人がすごく増えていることだった。 もともとアフリカを植民地にしていたのだからそこから移民してくる人がいるのは当然だろうけど、さらにシリアをはじめとする中東の移民、難民も地下鉄や街のなかで大勢見た。 ここは本当にフランス?大統領選では負けたけど極右のルパン氏の気持ちがわかるような気がした。 それに中国からの観光客がどっと増えており、パリ一のデパート「ラ・ファイエット」は中国の人たちの団体で溢れかえっていた。 しかし十数年前まで僕もここラ・ファイエットに学生を引率していたのだ。 当時のパリは日本人観光客でいっぱいだった。 それが今はごっそり中国の人たちに入れ替わっていた。 そこには若い人はもちろん、お父さんお母さん、さらにおじいさんおばあさん世代の人たちが大勢いた。 彼らの服装は割合質素に感じたけど、皆幸せそうな柔らかい顔をしていた。 この人たちは先の大戦に加え、文化大革命の時代を生き抜き、これまでの人生でもっとも自由な時代にたどり着いたのだろう。 そして今観光客としてここパリにいる。 僕自身父をウィーンに連れて行くことができなかったためか、彼らの顔を見ていると「人生頑張ってきて本当に良かったねえ」と言う気持ちになっていた。 今フランスは、ホテルのスタッフも郵便局員も家政婦も様々な人種で溢れかえっている。 いまさら下手に後戻りはできないだろうし、後戻りしてしまうと二百年以上昔のフランス革命は何だったのかと言うことになるだろう。 混沌としながらもすべてを鷹揚に飲み込んでいるパリに浸っていると、マクロン氏を大統領にしたフランスをもう少し知りたいと思うようになっていた。 しばらく通ってみよう。 それが僕のフランス音楽を深めてくれるような気がする。 初 共 演 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2017年4月号より 「先生、僕はいつか娘と一緒にラッパを吹くのが夢なんです。 」今年のお正月に久しぶりに顔を出した田中君がボソッと言った。 彼は長い間警察音楽隊でホルンを吹いていた。 娘さんは昨年音楽大学に入ってトランペットを専攻しているそうだ。 彼はそれがとても嬉しくて色々話もしたいのだけど、最近はほとんど口を利いてもらえないのだという。 「音大に入った時、必要だと思って高いラッパを買ってやったんです。 台所のテーブルにそっと置いてたら、いつの間にかスッと無くなってて。 大事に使ってくれてるようなんですが…」と寂しそうに言う。 「大丈夫だ!気持ちは伝わってる。 本当は娘さんの方こそ一緒にやりたいと思ってるよ」。 娘奈々と初共演 彼と同級生だった岩本君は、最近それを実現して人生がとても楽しそうだ。 昨年の吹奏楽コンクール(一般の部)で、若い人たちに混じってラッパを吹いている岩本君を発見した僕は「まじか?」とびっくりした。 坊主頭の彼の姿は20代中心の奏者の中で異様に目立った。 隣で吹いているのは彼の娘さんだ。 3ヵ月後アマチュアオーケストラのコンサートに行くと、再び娘さんと一緒にラッパを吹いている岩本君の姿があった。 「よく頑張るなあ、いくつになったの?」「55歳です。 」嬉しそうに言った。 彼の娘さんも今、音楽大学でトランペットを吹いている。 数年前、岩本君と飲んだ時、「娘が中学でラッパを吹いているんです。 高校に受かったら新しい楽器を買ってやると約束しました。 いつか娘と一緒に吹きたいんです!」と嬉しそうに語った。 彼は若い頃吹奏楽オタクだった。 なりふり構わず30年ぶりにラッパを持ち出してきて娘と一緒に吹く姿には、ただただ「すごいなあ、よかったなあ」と言う気持ちで一杯になった。 そして僕は…昔車で家族旅行をしたとき、ウイーンオペレッタのCDを流したことがあった。 「パパは本当はこんな音楽をやりたいんだ。 でも日本でオペラをやるのは大変すぎて。 次の人生ではヨーロッパでオペラをやりたいなあ」と言うと娘が、「私はあきらめてないよ。 今から頑張るからパパいつか一緒にやろうね」と言った。 その頃彼女は未だ歌の勉強を始めていなかった。 でもとても嬉しかった。 それから10年以上経て、先日初めて娘と共演した。 なぜかとても緊張した。 僕のコンサートの時、いつも幸せそうな顔をして会場の隅にそっと座っていた父の気持ちが溢れるように感じられた。 日本の宝!「文部省唱歌 しようか 」 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2016年10月号より 「『たき火』とか『赤とんぼ』とかいいですよねえ。 わたしゃ最近の歌は良く分からんのですが昔の童謡なんかすごいなあと思って。 」 初めて行ったおすし屋さんのご主人はカラオケが趣味だという。 歌うのは昔の歌ばかりだそうだ。 「お客さんがやっておられるクラシックなんかもっと古いじゃないですか。 何であんな昔のものが今でも演奏されるんですかねえ。 」 僕がオーケストラを辞めて 4年間いました 小学校の教員になった時、2年生から6年生までの音楽の授業を受け持った。 毎日のように文部省唱歌をピアノで弾きながら、「教科書って何でこんな古い歌ばかりなんだろう?」と思っていた。 つい昨日まではさらに古いベートーヴェンやブラームスなどを毎日難しい顔をして演奏していたのに。 教員初日であるはずの4月1日は着任式にも出ず、福岡でチャイコフスキーの交響曲を演奏していた。 あまりのギャップの大きさにすべてが戸惑いっぱなしだった。 2016バッハ・モーツァルトシリーズvol. 6 本番前日のオケ合せ 2年生の授業では「先生、わたし音楽がだ〜い好き!」と言って子供たちが入ってくる。 「ごめん、俺じゃ無理!大体こんな短い曲をどうやって1時間持たせたらいいんだ?」と思いながら何とか授業をこなしていた。 5年生の「荒城の月」では歌詞の意味がさっぱり分からなかった。 「あのね、春高楼 はるこうろう はね」とか言って国語が専門の先生に優しく教えて頂き、どうにか授業をしていたけど、心の中では「10歳の子供にこんな古い歌が解かるはずないだろう!」と思っていた。 ところがそうして10年もの間小学校の教員を続けているうちに、古臭いと思っていた「うみ」も「茶つみ」も「ふじ山」もみんな名曲ではないかと思うようになっていた。 そのうち短大の教員養成課程でやはり小学校の音楽教材を教えることになった。 ある時小学生の頃からピアノを習っていたという学生が「ぞうさんを」をバシャバシャ弾いた。 「なんちゅう弾き方をするんだ!そんなピアノで子供たちに歌わせるのか!」と思わず叱ってしまった。 続いて音楽講義の授業に行くと、先ほどの学生が「ぷうっ」と本当にふぐのように膨れて座っていた。 その姿があまりにも可笑しくて「プッ」と笑ったら、彼女もホッとしたような顔で笑い始めた。 翌週のピアノの試験で彼女はそこそこ良い点を取っていた。 「先生の学生は音楽が素敵ですね。 」同僚の先生からボソッと言われた。 ピアノが弾ける学生にとって、たかが「ぞうさん」と思ったかもしれない。 しかし唱歌も童謡も、情熱を持った多くの日本人が西洋文化を吸収し、日本の文化、芸術に昇華させグングン深くなっていった結果だ。 特に明治から昭和初期にかけての文部省唱歌の何と美しいことか。 「もみじ」も「冬景色」も「おぼろ月夜」もすべての詩が、曲が心に染みこんで来る。 あのようにシンプルでそして深い歌をいつまでも小学校で歌い続けて欲しい。 「昔と言うことが変わってきましたね〜」最近よく言われるようになった。 EU=ヨーロッパユニオン=欧州連合 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2016年7月号より ほんまかい? 英国のEU離脱にはびっくりした。 他のヨーロッパの国々と違って通貨も頑なにポンドのままだし、日頃から「俺たちはヨーロッパとは 格が 違う」とか言って微妙な位置づけだったけど、本当に離れてしまうとは。 これからは6月23日が独立記念日だと言ってはしゃぎたてるイギリスの政治家たちの顔が、本当に狭量で節操のないものに見えた。 かっての大英帝国のプライド? それは世界中を植民地にして、徹底的に奪略と殺戮 さつりく をした結果ではないか。 それを格上と言うなら、同じ植民地支配でも、教育、病院、鉄道、郵便、交番などやはり徹底的に社会整備したあげく完全な歳出オーバーに終わった日本の方がさらに格が上ということになってしまう。 押し寄せる難民になぜ俺たちが食わせなきゃいけない? かって自分たちが犯したことを考えると至極当然の義務だろう。 二度の対戦で本当にめちゃくちゃになったヨーロッパで、あれだけ個性的で気質も違い言語も違う国々が、通貨を一つにしてまで争いのない平和な社会を築こうとしているのだ。 一民族国家では考えられない問題があとからあとから山ほど出てくる。 大変なのは当然だが、後戻りしてはいけないというのも当然だろう。 それを、えーい!せからしか 博多弁がピッタリ !ちゃぶ台ひっくり返して気分いいだろうけど・・・いいんかいそれで? チェコ&スロヴァキアに通い始めた頃いつの間にか二つの国に分かれてしまっていた。 これまでも離れたりくっついたりしてたけど、本来一つの民族だ。 どうしてこんなことになったの?と聞いても、皆「解らん?俺たちは別れたくなかったんだけど」と言うだけだった。 '90年にハンガリーで出会ったユーゴスラビアから来たと言う高校生グループは、「俺たちの国は危ないんだ」と心配そうに言っていた。 本当にその後直ぐ内戦になり彼らの国は分解してしまった。 その頃のウィーンは東欧からの亡命者で溢れていた。 しかし活気があり西側が一番輝いていた時でもあった。 逆に隣の東側は限界だった。 それはチェコやスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアに行った時、国境を越えると直ぐに確信できた。 それから四半世紀経った今、僕が持っている通貨、オーストリアシリング、ドイツマルク、チェコ&スロヴァキアコロナ、フランスフラン、イタリアリラはすべてユーロになってしまい、皆使えなくなってしまった。 もちろんイギリスポンドも持っている。 こちらは何だか永遠に使えそうな・・・いいのかなあ、それで? 春のわくわく ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2016年4月号より 入試や、転勤、移動などが落ち着き始めると街中にホッとした空気が漂い始める。 この頃ころ朝の散歩コースには紅梅や桃の花が咲き誇り、淡い光が気持ち良い。 今春音大を卒業したばかりの長女が小さな画廊でソプラノリサイタルを行った。 娘の小さい頃を良く知っている方たちも多く参加して下さり、暖かな春の素敵な一ひと時になった。 最後に花束を渡してくれた女性もやはり娘の知り合いらしかった。 司会をしていた三上さん JCPスタッフです が終了後その女性を紹介して下さった。 「娘のふうちゃんです。 」「え?あの子供だった?6年前のウィーンツアーで白いご飯が食べたいってずっと言ってた・・・確か小学6年生だったよね。 」すっかり素敵なレディに成長したふうちゃんは、今春高校を卒業して大学生になる。 1週間後のちには高2の息子のフェンシングの試合があった。 2日間岩国で行われた全国高校総合選抜大会では、卒業したばかりの生徒も手伝いに来ていた。 皆、就職や進学それぞれ進路も決まり、後輩たちのために一生懸命手伝ってくれた。 そんな彼らを見ているとやはり自分の18歳の頃を思った。 高校を卒業した春休みには初めてのバイトをし、友人たちとたむろし、12時間かけて東京の大学に向かった。 寝台特急「あさかぜ」の朝を知らせるチャイムは今でもはっきり覚えている。 3段のベッドから朝日を浴びた雄大な富士山を眼前に見た時、これからの自分をいっぱい祝福してもらったように思った。 試合を手伝ってくれた卒業生も先ほどのふうちゃんも高校を卒業したばかりで皆ホッとしているようであり、次の未来への希望に輝いているようだった。 そして、それらに触れ合えたこの春、僕は本当に幸せなのだと思った。 しかし同じ頃、高校を卒業する娘さんを祝福してやることが出来なかったお母さんを見た。 自ら命を絶った娘さんを思う気持ち・・・僕のこれまでの人生では想像もしてあげられない。 お母さんのこれからの人生がいつか娘さんの同級生たちを祝福して上げられるようになることを願うだけだった。 岩国の美しい地区祖生そおで育ち高校をフェンシング部で頑張った翼つばさ君は、今春地元の酒造会社に就職した。 2日間の大会中、初めてもらう給料のこと、一緒に入社した10人の仲間のことなど将来の希望を語ってくれた。 有名なその会社のお酒はこれまでめったに飲むことがなかったけど、これからは折に触れて味わうことにしよう。 そしていつか翼君が作るお酒を楽しみにしたい。 もちろん僕の同級生の実家が作るお酒も大事にしたい。 この春、楽しみが増えた。 無事新年を迎えることができましたね! ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2016年1月号より 今回はなぜかロシアに行くのが億劫 おっくう だった。 3年前ペテルブルグのオーケストラの素晴らしい音にびっくりして以来、モスクワの音も浴びてみたい、ロシアの音をもっと知りたいと思うようになっていたのだけど、モスクワの街を良いイメージで想像出来なかった。 ソ連時代の威圧するような建物、煤(すす)けて薄暗い街、物価は高く人々は無愛想でスリも多くとにかくすべてに気を付けなくてはいけない・・・仕入れた情報はろくなものではなかった。 更に未だに ロシア入国のための ビザの手続きが煩雑で、その上最近ロシアを取り巻く国際情勢も怪しくなってから益々気が乗らなくなっていた。 まあ今回で最後だからと恐る恐る市内散策を始めると、街を行く人たちは普通に落ち着いており、地下鉄でもこわもてのおじさんが自然に席を譲っていた。 一緒に行ったピアニストは、「これモスクワじゃない。 前はもっと暗くて、警察もいっぱいいてとても危ない感じでした」と言う。 彼女は10年前モスクワで勉強していた。 確かにそうなのかもしれない。 ロシアの小学生 今のモスクワこそ人々が望んでいた街であり、長いロシアの歴史の中で最も幸せな時代なのだろう。 そしてやはりブカレスト(ルーマニア)、ワルシャワ(ポーランド)、ソフィア(ブルガリア)に良く似た東欧の香りがする街だった。 僕にはとっては懐かしく、人々にはノルウェーやフィンランドなどの福祉国家と共通するゆとりが感じられた。 ところがオーケストラはごく普通の音だった。 若い人が多いオーケストラからは明るく美しい、しかし歴史を感じさせるわけではない深みのない音がした。 いつの間にか僕はソヴィエト時代の何かすごい音を求めていたのだ。 ソ連が崩壊してもう四半世紀 25年 になる。 つまり彼らの音は今のモスクワの街の音だった。 しかしそれでもオーケストラから得るものは一杯あった。 ハチャトウリアンのヴァイオリン協奏曲の練習では、「これは君たちの音楽だ。 いつもどう演奏してる?」と聞くと、コンサートマスターが「私は40年ラジオ 旧ソヴィエト放送交響楽団 で弾いてきたけど、この曲は1度もやったことがない。 だからあなたが来る前に自分たちで2回練習した」と答えた。 ハチャトウリアンはソ連時代は3巨匠の1人と言われ数々の賞を獲得した人民作曲家だ。 「剣 つるぎ の舞」など日本の小学校の教材でも出てくる程有名だ。 ロシアでは当然しょっちゅう演奏されているはずだと思っていた僕は本当にびっくりした。 でもよく考えると案外そんなものかもしれない。 国外に出るオーケストラは当然自国の曲を演奏するだろうが、自国民にはモーツァルト、ベートーヴェンに始まり多くの偉大な曲を演奏、紹介するのだろう。 やはり面白い!来てみないと分からない。 益々僕たちが知らない町の知らないオーケストラを振って見たいと思うようになっていた。 ロシアは今回で終わりだと思っていたけど、今度はシベリアや、コーカサスあたりのオーケストラを振ってみたい。 きっとCDやメディアでは聴いたこともないような、そこの町の音がするに違いない。 もうちょっとだけロシアを〜新年の挨拶と一緒にマネージャにお願いしておいた。 敬老の日 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2015年10月号より 本番当日、GP リハーサル で棒を振ろうとすると客席から叫ぶような声が聞こえてきた。 『何?』と振り返ると再び大きな声がした。 すると目の前のチェロ奏者が、『大丈夫!』という仕草で「Sさんのお母様です」と言った。 今回共演したピアニストSさんのお母様は御年99歳だ。 やはりピアニストのKさんが朝の飛行機で岩国からお連れした。 ご本人の希望で東京まで聴きに行くことになったのだけど、空港では「私はどこに連れて行かれるの?」とおっしゃってたらしい。 本番ではお母様は客席でじっとして聴かれ、Sさん、Kさんと一緒にホテルに泊まり再び飛行機で帰られた。 ホテルのエレベーター前で客室係の方に、「この方は99歳なんですよ。 昨日飛行機でコンサートに来られたんです」と僕が言うと、彼女は心から感動した様子で「気をつけてお帰りくださいね」と何度も慈しむように声を掛けられた。 KさんとSさんのお母様 皆、自分の両親や身内、更に自分の(近い)将来の姿に重ね合わせるのだろう。 本番翌日、羽田空港の男性トイレの入り口で1人の女性が「そこを左、それから右へ」とか言っていると、後から来た男性が「私がお連れしましょう」と言って白杖を持った高齢の男性を誘導して入って行った。 『よかったな』と思いながら用を済ませた時、トイレは白杖を持った男性と僕の2人だけになっていた。 「手を洗いますか?」「お願いしていいですか?」「はい、では後ろを向いて、そのまま真っ直ぐ」と僕は彼を洗面台に誘導して行った。 次に乾燥機を探す仕草をされたので、「そこを左に、そうそう〜」と言って手を乾かして頂きトイレの外までお連れした。 そこには先ほどの奥様かお嬢様らしい女性が、「私では入れませんから助かりました」と言って待っておられた。 こちらもホッとすると、いつの間にか僕の後ろにいた若い男性がニコッと微笑んでトイレから出て行った。 僕はなぜか『お役に立つことをさせて頂きありがとうございました』と幸せな気持ちになっていた。 これまでも『いい事をしたかな』くらいは思ったことがあるけど、『お手伝いさせていただけるってありがたい事なんだな』と初めて気がついた。 2日後Sさんに「コンサートもうまく行き、親孝行も出来て良かったね。 お母さん疲れてない?」と聞くと、「今朝ディサービスに行く時、またどこに連れて行かれるんだろうという顔をしてたけど元気に帰ってきた」と言っていた。 僕の父が最後にコンサートに来てくれたのは、亡くなる2年前だった。 その前年、いつも来てくれるはずの父が『会場にたどり着く自信がない』と言って顔を見せなかったのだ。 父の大好きなオペラだった。 そのため次のオペラ公演は僕の友人に付き添ってもらった。 あの時はまさか最後の来聴になるとは思わなかった。 Sさんも近年は、(母が来てくれるのも)最後かもと言いながら、いつも誰かに付き添いをお願いしていた。 今回はKさんが、リュックを背負い車椅子を押し、飛行機に乗って丸2日間の付き添いを引き受けた。 彼女が一生懸命お世話する姿を見ていると、なぜか『ありがたいことだ』と拝みたくなった。 Kさん本当にお疲れ様でした! 貴ちゃん、スロヴァキアの永住ビザ取得おめでとう! ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2015年7月号より 「オットーが貴子 たかこ に振られたらしい!」突然シュテファンが話題を変えた。 「食事に誘ったけど断られたらしい」。 「え?そんなことあったの?」隣にいた貴ちゃんに聞くと、「???そう言えば練習のとき何か言って来たけど、意味が分からなくてNO! と言ったような気がします。 」2006年10月、スロヴァキアのミルバッハ宮殿でコンサートを終えた後、マネージャのシュテファン家でワイワイやっている時だった。 「何だ、貴子は断ったわけじゃなかったのか。 オットーはとってもいい奴だ。 でも1人で寂しいから酒が友達になるんだ。 この際2人を何とかしよう!」シュテファンと話し合い、オットーと貴ちゃんにメールアドレスを交換してもらうことにした。 コントラバスのオットーはオーケストラで演奏しながら、一生懸命ピアノを弾いている貴ちゃんを気に入ってたらしい。 マネージャのシュテファン一家 それから9年後の先日、やはりミルバッハ宮殿でコンサートを終え、オットーは左手にコントラバスを抱え右手で息子の直人の手を握り、傍らで貴ちゃんは長女のさおりを乗せた乳母車を押しブラチスラヴァの街を歩いている。 美しい宮殿で優しい聴衆と共にコンサートを終え、雅な街をゆっくり家路に着く音楽家の家族を見送っていると、「あのシュテファンの一言がこんな温かい素敵な情景になったのか」と感慨深く感じられた。 人生は本当に想像がつかない。 僕がスロヴァキアで初めて振ったのは17年前の1998年だった。 初日の練習終了後、「マエストロ、家に食事に来ませんか」と言って声を掛けてくれたのがシュテファンだった。 彼は室内歌劇場のオーケストラで2ndヴァイオリンを弾いていた。 その時息子のシュテファンジュニアは3歳で、娘のユリアは生まれていなかった。 今、東京で1人暮らしをしていた貴ちゃんはスロヴァキアで4人家族になり、シュテファンの息子は音大でビオラを弾き、娘ユリアはコンセルバトールでヴァイオリンを弾き、彼らは今回のコンサートで初めて皆と一緒にオーケストラで弾いた。 そして僕自身はスロヴァキアで色々なオーケストラを振り、色々な人生に拘ってきた。 一緒に演奏したコンサートマスターが急逝し、嬉しそうに指輪を見せてくれたヴァイオリンのダニカは結婚後2年もしないうちに夫を亡くしたり、高校生だったボフスラフの息子がいつのまにか父親と同じ国立歌劇場のホルン奏者になり、結婚し、子供を作っていたり、悲しいことも嬉しいこともいっぱいあった。 スロヴァキアの人たちはすべてに優しく根気強い。 オットーも本当に優しい。 先日の貴ちゃんのメールでは「前回来られた時はさゆりがまだ今の直人よりちょっと大きいくらいだったかなぁ。 あの頃から比べると、こどもたちも大きくなり、すくすく成長してくれています。 オットーも、まず家族を大事にしてくれるし、私の日本の家族もとっても大事にしてくれるし、良い父、良い夫でいてくれ、穏やかに暮らせてることが本当に幸せです。 」 彼女は、すっかりスロヴァキアの美しい街に暮らす美しい家族を創っていた。 これから先のスロヴァキアとの拘りもやはり想像がつかないけど、10年後も20年後もいつまでも美しく心地よい音楽を求めているのだろう。 ますます春 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2015年4月号より 「昨年ルーマニアの国際指揮者コンクールにて特別賞を得ました。 」・・・え?ほんと?御年70歳じゃなかった?I アイ さんからの年賀状にびっくりして早速お祝いの電話をした。 「いやあ、年齢制限ないって言うから受けに行ったんだ。 そしたら審査委員長に呼ばれて、確かに制限は設けてないけどこれからの人たちのためのコンクールだからあなたの出場は困るって言われたよ。 それでもうだめなのかと思ってたら、1〜3位の発表の後突然特別賞に呼ばれたんだ。 若い人たちが皆祝福してくれてねえ。 」すごいなあ。 だって外国のコンクールには時々年齢制限のないものもあるけど、通常参加するのは30代までだろう。 ベートーヴェンの生まれた町ボンの マルクト広場のベートーヴェン像 5年前の電話でIさんは、「石井君頑張ってね。 僕はもう十分幸せだからこのまま 大学教授 でいいや」とおっしゃってた。 ところが4年前に初めて海外を旅行され、「ウィーンは良かった。 石井君が行けといってた意味がようやくわかったよ」。 3年前には「ロシアのオーケストラを振って来た。 すごいオケだったよ」。 2年前には「ブルガリアのオケを振ってきた。 もう少しで定年だけど大学はもう辞めようと思う。 最後はやっぱり指揮者として死にたいと思って」とおっしゃっていた。 そして昨年はコンクールだ!本当にびっくりした。 昨秋には僕のコンサートにホルン奏者として参加して頂いたWさんにも感動した。 定年まで東京フィルの首席ホルン奏者として活躍された方で67歳。 僕が学生時代、同じオーケストラに入団した先輩がいつも、Wさんうまいよなあと呟いていた。 今回の練習では誰よりも早く来てウオーミングアップをされ、翌日の本番終了まで黙々と吹いてスッと帰られた。 本当にホルン一筋、職人の仕事だった。 IさんもWさんも引退してもおかしくない年齢だ。 きっと死ぬまで音楽家として活動を続けられるのだろう。 カッコいい人生だと思った。 そして先日は若い人にワクワクした。 岩国から乗った飛行機にスーツ姿の集団が乗り込んできた。 もう新入社員の研修?何十人も採用する企業が近くにあったっけ?と思っていたら、東京の企業説明会に参加するための大学3年生のツアーだった。 これからの仕事、人生に興味津々の彼らを見ていると、いつの間にか差し込む朝の光が春になっていた。 それから3時間後、僕は次女の卒業式に出席していた。 彼女の卒業に際しての手紙の最後は「〜春からは石井家には珍しくそこそこ安定した仕事に付きます。 大金持ちになるべく頑張るので、いずれウィーンフィルを本場で聴きに行ったりとかしましょう」で締めくくられていた。 彼女は今日から社会人だ。 散歩しながら先日まで浴びていた梅の花も今浴びている桜も、老木がはちきれるように花を咲かせ、たよりなさそうに見える若木は恥ずかしそうに初々しい花を咲かせていた。 IさんやWさんのように求め続ける先輩たち、空港で会った大学生や次女など希望に溢れる後輩たち、それぞれにふさわしい春の花を感じた。 ロシア女性エレナはウィーンに住む"さんま" ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2015年1月号より ウィーンのマネージャーはロシア人の女性エレナ。 彼女は優秀なヴァイオリニストでもある。 ウィーンの南の町のオペラ劇場でコンサートミストレス(指揮者の左でヴァイオリンを弾いているオーケストラのリーダー)をしていた。 劇場が閉鎖されると、彼女がマネージメントを始めオーケストラは自主公演を始めた(僕が時々振らせてもらっている)。 彼女は忙しい。 いつもヴァイオリンを弾きながら、ロシア、スペインなどのツアーや、ロシアからのツアーを受け入れたりあらゆるマネージメントをこなしている。 僕とのメールも、「ごめん今ロシアだから、今ポーランドだからウィーンに帰ってゆっくりメールする〜」で終わったりする。 そして彼女はいつもしゃべっている。 僕が興味のなさそうな顔をしていると、「ん?ドイツ語わかりにくい?じゃ英語にしょうか?」「どっちにしても早すぎて分からん! 」「アハハ、あんたにはゆっくりしゃべっているつもりだけど」と言って再び普通の人間の倍速でしゃべり始める。 エレナと打合せ とても正直で、散らかり放題の部屋みたいな仕事もいつの間にか片付け、毎晩のようにコンサートでヴァイオリンを弾いている。 しょっちゅう楽しそうなプランを口にし、「それいいな!」と一言でも言おうものなら直ぐに実行に移し、「あれ?おとなしいな?」と思ったら一生懸命数独 すどく と格闘している。 「ところで息子は元気?大学卒業した頃だろ?」と話しかけると「うん、コンピュータの仕事をしているよ。 最近ウクライナ人の彼女ができてね。 いや、でも大丈夫!ロシアとウクライナはもめてるけど、私たちには全く関係ないから。 ほら、私たちのオケにもウクライナ人がいるけど皆仲いいじゃん〜」と言って10倍くらい返ってくる。 確かにオーケストラの名は「ユナイテッド・オイロッパ ヨーロッパ連合 」と言うだけあって、オーストリア人だけでなく、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、ポーランド、スロヴァキア、ドイツなど様々だ。 そして確かに皆温かい。 ロシアの公演が終わってウィーンへ帰る時、エレナが「結局実家には昨晩帰っただけだった」と言って空港に滑り込んで来た。 「コンサートが終わって夜遅く帰ったし、今朝も早く出たから今回はほとんどママの顔は見れなかった、アハハ!」と笑っている。 「あれ?ずっとママのところに滞在してるって言ってたじゃん?」「それは夫のママのところだよ。 私のママの所へ帰ったのは昨晩だけ。 」「え?お前の夫はポーランド人だろ。 」「そうだよ、つまり私は前の夫のママの所に泊まってたの。 私たち今でも仲がいいし、彼女は1人暮らしだから」と言っていつものようにあれこれしゃべり始めた。 「この間も、今の夫トーマスのポーランドの実家へ、前の夫ロザノフのママと一緒に行ったんだよ。 みんな仲良しでさ、アハハ!」といって楽しそうにしゃべっている。 今の夫トーマスはポーランド出身のファゴット吹きだ。 いつも静かに僕の棒に注文を付け、今日の演奏は満足してるか?と誠実に語りかけてくる。 それにしてもエレナはすごい!周りの人たちもすごい!皆がエレナみたいだと世界は本当に「アハハ!」と言って平和なのかもしれない。 しかし僕のキャラクターではちょっと追いつけそうもない。 少なくとも今年は「まあいいじゃん!」と言って過ごそう。 そしていつか、エレナのようにこだわりのない「アハハ!」が心から出てくるような人間になりたい。 「アハハ!」 思いもかけないことが色々ありましたが、無事に年を越せましたね。 新しい年を大事に活(生)きましょう! 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第72号より 「お前たちのオケは今までよく消えなかったなあ」「確かに微妙な存在だけど、24年前に国の体制が変わったとき、室内オケを存続させると言う覚書が政府と交わされたんだ」と言う。 ルーマニア放送局には、僕が時々お世話になる2管編成の室内オケの他に、4管編成のビッグオケ、50人の合唱、20人のジャズバンド、15人の民族オケを擁している。 それにしてもオケがよく2つも存在してきたなと思っていたら、最近は退職者の補充をせず期限雇用になってきたのだと言う。 「ほら、あの若いチェロはコンクールでも優勝したけど、ここでは半年の雇用なんだ。 こっちのヴァイオリンはオペラからのエキストラ。 」何と僕が通い始めた17年前に37名いた正メンバーは、いつの間にか20余名になっていた。 それでも存続しているからまだましなのかも。 実際、スロヴァキアの首都ブラチスラヴァでは6つあったオケも3つになってしまい、僕が振らせてもらっているオケも自主運営になった。 ウィーンで振らせてもらっているオケも、20年前に閉鎖された歌劇場のオケが自主活動しているものだ。 先日のテレビで、「東京にはプロのオーケストラが10もある。 世界の大都市と比べても突出して多く、実は日本はクラシック大国なのだ」といっていた。 単純計算すると千三百万人に対しての数字であり、国全体の一億三千万人対しては30にも満たない。 ドイツでは人口8千万人に対して130余のオケ、さらにそれらの多くが常設のオペラ劇場で活動していることを考えると、クラシック関係の就業人口の規模は日本のそれとは全く比べ物にならないほど大きい。 しかもドイツの場合20年前には200以上のオーケストラがあったのだ。 それにしてもローマ歌劇場182人の解雇にはびっくりした。 まさか首都の、しかも大マエストロを擁する歌劇場でオケや合唱の大量解雇が本当に行われるとは思わなかった。 とりあえず解雇だけは撤回できたけれど問題が収まったわけではない。 本場でこの状態だ、日本も当然油断はできない。 アメリカのような寄付は望めないし、ヨーロッパほどの補助も望めないのだから。 そう考えると日本の音楽家は本当によく頑張っていると思う。 今年も何があってもしぶとく活き活き生きたい! リンゴの旬 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2014年10月号より りんごが美味い! 最近は毎朝ヨーグルトと一緒に惰性のように食べているけど、冬眠 凍眠 から無理やり覚まされているからか、本来の味をすっかり忘れていた。 大きな玉が年中出回るようになってからか、いつの間にかリンゴをそのまま食べると言う習慣はなくなっていた。 旬は人間の生活を生き生きさせてくれる・・・リンゴの一切れが改めて大切なことを認識させてくれた。 すると、それを食べている人間の旬は?見かけでは20代か?その頃の僕は人生を真正面から突き進んでいたけど、「若いよ君!」といってやりたくなるほど幼かった。 上手く生きられないのは今も同じだけど、よく考えてみると30代、40代、50代それぞれすべて旬だったように思える。 常に進歩してきたからと思いたいけど、僕に限ってはただ一生懸命だっただけだ。 JCPオーケストラ西日本公演 先月は、20代から70代までのソリスト12名と共演した。 それぞれの思いがひしひしと伝わってきて、それぞれの年齢にしか出せない音楽がしっかり感じられた。 そして皆、「今が旬」なのだ。 そう、一生懸命というより焦らず本質を求めていくと、年を重ねるごとに人生が加わり、皆 お客様 と希望を共有できるような音楽になっていく。 しかし、年齢的に厳しい、力が限界だ・・・そう思ったらそのとおりになるだろう。 音楽に何を求めるか?大きな音、早い指を求めるだけなら若い一時が旬になりえるかもしれない。 そんな時期があっても・・・いや、無くてもいい。 本物の音楽人生を求めている人にとっては今現在が旬だろう。 さらに求め続けることによって、死ぬまで新鮮な旬でいられるに違いない。 「学校に勤めながら今までよくピアノを頑張りましたね。 定年まで10年くらい?このまま弾き続けたら、死ぬまで益々音楽が深まりますよ」と言ったら、「私来年還暦 定年 なんです」と言われた。 彼女は子供のときからの夢だったというチャイコフスキーのピアノ協奏曲を美しく弾きこなした。 ベートーヴェンの協奏曲を弾いた人は70歳になったばかり。 「まさか自分がこの年までピアノを弾いてるとは思わなかった」と言われた。 この人の音は40年前から聴き続けているけれど、還暦を過ぎてどんどん美しくなってきた。 好きであれば、求めたいなら、ずっと続ければいい。 そのうち音が抜けても、失敗しても何かが伝わればいい。 そういう生き様、それが「お仕事」ではない音楽家の本来の仕事なんだと思う。 そうして死ぬまで旬でいたい。 もう少しで紅玉 こうぎょく が出る。 旬のすっぱい味が楽しみだ。 20 本部からユニオン会員への確認・お見舞いの電話を頂きました お心遣いありがとうございました 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第71号より 数年振りに懐かしい人からメールが入ってきた。 「岩国大丈夫ですか?」何のことだろうと思っていると、遠く離れた知人からも「大丈夫?」と電話が入ってきた。 「今もメールが入ったけど何のこと?」と言うと、「岩国が大雨で大被害だって!」 あわててテレビをつけると、山が崩れ、家が水につかり、車が流されている情景が映し出された。 何とここ岩国だ。 まさか?すぐに近くの実家に電話すると、玄関の中まで水が入ってきて床まであと少しだったという。 そういえば朝起きた時は小雨だったけど、散歩道では小川が氾濫しそうな勢いだったし、アスファルトには結構水が流れていたのだ。 2週間後また知人からメールが入ってきた。 「広島が大変みたいですが皆さん大丈夫でしょうか?」すぐにテレビをつけると、どのチャンネルも安佐南区の災害の様子を大写しにしていた。 僕は27年前団地の下部に家を建てた。 山を造成しているから少しだけ高いところにあり、水害が来てもまず大丈夫だろうと思った。 ところが4年前近くにバイパスができて騒々しくなり、昨年は団地の上の山を削り取って国病、老人施設、消防署も移ってきた。 そのため降雨時は以前よりも水が流れてくるようになり、造成地が上から崩れて来る心配もでてきた。 考えてみると日本中すべて山か海だ。 どこに住んでいようと何らかの災害にあう可能性は誰にでもあったのだ。 個々では今回同様友人知人など連絡を取り合って災害に備えるしかない。 行政には喫緊の対策の他、百年後も風景が変わらないような街づくりを目指してもらいたい。 今も使い続けている二千年前に作られた下水道・・・あの時代のローマ人だったら、今の日本ではどんな街を作るだろう。 今回友人知人は皆無事だったけど、そのまた友人知人などが災害に合われた方は大勢おられるはずだ。 彼らに少しでも希望が持てるような街づくりあって欲しい。 心からご冥福をお祈りいたします。 熊谷先生 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2014年7月号より 今朝、7月21日久し振りに新幹線に乗った。 昨年岩国空港ができて以来ほとんど利用することがなくなってしまい、新岩国駅前の駐車場受付のおばあちゃんに会うのも久し振りだった。 90歳近くになっても自転車に乗っておられるとのことだったけど最近はどうなんだろうと顔を出すと、いつも通りとてもお元気そうでほっとした。 しかも「お宅の息子さんはもう高校生?」とも言われ、その記憶力にもびっくりした。 確かに息子は高校生になったばかりだった。 ここから乗る新幹線は本番の燕尾服を抱えて乗ることが多かったのだけど、今朝は喪服だった。 いつも共演している岡山のピアニストのお父様が亡くなられたのだ。 昨年から喪服を着る機会が多いなあと思いながら車を運転していたので、受付のおばあちゃんの笑顔には何だか元気をもらったような気がした。 今月5日は中学校時代の恩師、熊谷先生も亡くなられた。 僕が中学3年になった時、36歳の先生が岩国中学校に転任してこられた。 若い情熱溢れる先生の指導により僕たちは水を得た魚のようにどんどんうまくなって行った。 放課後のクラブ活動が終了する頃、運動部の連中が窓から覗き込むことが多くなり、音楽とは無縁の同級生が「お前ら、うもうなったのう(上手くなったなあ)」と褒めてくれるようにようになった。 在りし日の熊谷先生 昭和42年9月、岩国体育館 高校3年の時、近所の小学校の校庭でホルンの練習をしていると、ふらっと熊谷先生が顔を出されたことがあった。 「お前ラッパ吹きになるのか?オーケストラで飯が食えると思っとるんか。 」と言われた。 しかし数年後僕がその食えないオーケストラに入ってからはよくコンサートに来てくださった。 といっても直接声をかけて下さるわけでもなく、「石井が珍しくとちっとった(ミスをした)」とか、「あいつ指揮者から花束をもらっとったぞ(ホルンのソロがうまく行った)」とか、どこかで言われたことが耳に入ってくるだけだった。 ある時はコンサートが終わって駅前のスナックで飲んでいると、先生が入ってこられマスターにオーケストラの演奏会の帰りだと言われてた。 隅で飲んでいた僕は「エッそれ俺のじゃん!」とびっくりしてご挨拶に伺ったこともあった。 小学校教員をやっている時、市内の音楽の先生方全員の前で研究授業をやった事があった。 授業後の反省会では皆が良い授業だったと言って下さったのだが、そんなはずはないと思った。 1ヵ月たった頃熊谷先生のところに「教員を辞めて留学します」と報告に伺ったら、開口一番「お前、この間えらくひどい授業をしたそうじゃないか」と言われた。 その通りだった。 確かに研究授業をした時、心はすでにウィーンに飛んでいてまともな準備もしていなかった。 なぜか僕のやっていることは先生には筒抜けになっているようだった。 そして僕が棒を振るようになってからもコンサートにはよく来てくださっていた。 さらにコンクールの審査員をさせて頂くようになると、吹奏楽連盟の理事をしておられた先生はいつも懇親会で、「これが私が岩国中に赴任したときの最初の教え子じゃ」と言って笑顔で紹介して下さった。 今思えば、僕たちの中学時代は現在のレベルからは程遠い幼い音だった。 しかし以後40数年あの時ほど音楽をやっていて楽しかったことはなかった。 先生がおられなかったら僕は間違いなく音楽を続けていなかった。 熊谷先生ありがとうございました。 今日はピアニストのお父様の遺影にも、帰りの新幹線を降りて駐車場の受付におられたおばあちゃんの娘さんにも感謝した。 同 窓 会 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2014年4月号より 高校吹奏楽部の同窓会があった。 春休み前の日曜日、50回目の定期演奏会をきっかけに創成期のメンバーを中心とした50〜60代の30余名が集まった。 僕が高校の頃は合唱部の存在が大きかった。 福島先生のゆったりした指導で、県内ではトップレベルであり、西日本地区大会でも常勝していた。 その頃の合唱部は僕にはとてもまぶしく感じられ、お嬢様のような女子部員には話もできなかった。 そしてもうひとつ栄光のマンドリンクラブがあった。 熊谷先生による情熱溢れる指揮、そこから醸し出される柔らかい響きは、プレクトラムアンサンブルと言うハイカラな部名と共に、モノクロの名画を見るようなクラシックの世界だった。 会場で記念撮影 そのように県下で一目置かれていた両クラブの後から、野球部の応援を口実に生徒自ら立ち上げたのが吹奏楽部だった。 ラッパに飢えた生徒によりまたたく間に部員は膨れ上がり、まもなく1回目の定期演奏会が開かれた。 その頃中学でラッパを吹いていた僕は夏休み最後の日曜日、大きな氷の塊が置いてあるだけのエアコンもない古い講堂の後方の長椅子席で、「すごいなあ〜」と汗をたらたら流しながら彼らの熱演に聴き入っていた。 僕が高校に入学した頃も、吹奏楽部の立場は強いとは言えなかった。 合唱部が専用にしている音楽室はもちろん、一般の教室も音がうるさいからと使わせてもらえず、部室は体育館のステージ下、合奏は体育館のステージだった。 目の前では常にバレー部などが練習しており、そこも使えない時の合奏は体育館の裏、個人練習は常に外だった。 それさえ体育館の隣にあった弓道場から苦情が出て追い立てられ、練習はいつも体育館の周りをジプシー状態だった。 そんな状態の中、野球の応援で市民権を勝ち取り、定期演奏会をやり、部を育ててきた先輩方の集まり、それが先日の同窓会だった。 しかし当時の僕には生徒指揮による生徒のみの運営はとてもまどろっこしく感じられた。 そのため2ヶ月足らずで退部して、夏休みは苦手だった数学ばかり勉強していた。 ところが休み明けの試験でまずまずの点が取れると、よし数学はもういい、やはり好きな音楽を徹底的にやりたいと再入部することにした。 以来毎日長い坂を歩いて登校しながら、こんな余計な勉強をさせられる高校より、音楽高校か吹奏楽の指導者がいる高校に行ったほうがよかったんじゃないかと思っていた。 ほぼ40年ぶりにお会いした先輩方の思い出話の後、「ようやく最近、この高校を出てよかったと思えるようになりました」と挨拶したら、あとで先輩のYさんに、「お前のあの言葉の意味はよくわかった。 音楽を一生懸命続けてきたからそう思えるようになったんだな」と言われた。 そう言って下さったYさんも上を向いて一生懸命生きてこられた方だ。 極めようと思うと、そこに集中すると同時に、逆に全く関係ないと思えるような広い勉強が益々大事になってくる。 高校で徹底的にやらされた勉強が、いつの間にか地下深く流れる水脈のように今の僕を支えてくれていると、40年を経てようやく感じられるようになってきたのだ。 とてもありがたいYさんの言葉だった。 結局僕は先輩方にいっぱい迷惑を掛けお世話になっていた。 今考えるとあの時代、あの先輩方のお陰で吹奏楽部は存在したのだ。 先日の同窓会では本当に皆に感謝しながら乾杯をしていた。 い年、良い年 良い年を!その思いが大 今年こそ良い年、良い年 良い年を!その思いが大事かも! 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第70号より 国際障害者ピアノフェスティバルの審査をさせていただいた。 フランスやドイツ、カナダなど各国から参加した10名の審査員と共に、ウィーンのミノリーテン教会で17カ国から参加した障害を持ったピアニストたちの演奏に3日間浸っていた。 身体的、精神的に様々なハンディを持った人たちの演奏を聴いていると、「そもそもすべての人間は大なり小なり、目に見える或いは見えない障害を抱えているのではないか?健常者とか、それに対してなんとなく差別っぽい障害者とかいう言葉って何だろう?」と思うようになっていた。 不自由な身体を工夫して、ショパンやベートーヴェンを一生懸命表現している彼らの背後では、天使やキリスト、マリア像が見下ろしていた。 神は彼らに対して一体どのような恩寵を考えておられるのだろう〜ずっと考えていた。 音が足りなくたっていい。 バッハのピアノ協奏曲はヴァイオリン協奏曲などの焼き直しがほとんどだ。 それでもやはり両方ともバッハが作った同じ曲であり、同じ曲に感じられるのだ。 そうすると10本の指のために書かれている曲でも、5本しか使えないのであれば、そのように工夫すればよいだけだ。 大事なのは現実に可能な条件でその曲の真髄を最大現表現しようとする熱意、努力だろう。 皆それは十分あった。 ここで演奏している人たちは皆心からその曲を愛し、最大限に表現しようとしていた。 だから聴衆には彼ら演奏者の、作曲者の音楽が伝わってきた。 最終日の夜ファイナルコンサートでは、演奏中僕たち審査員はステージに座ったままだった。 客席のウィーンの聴衆を見ていると、少しづつ良い顔になり、温かい顔になって行くのがわかった。 それからそっと隣に座る夫や妻、恋人たちに寄り添い手を握り始めた・・・そこには確かに本物の音楽があった。 久々にルーマニアのこと ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2014年1月号より 「俺、来年オーケストラを辞めるんだ。 」練習が終わって車で送ってくれたリサンドロがボソッと言った。 突然の事にびっくりしていると「俺は来年で53歳になるんだ。 だからもうオケを辞めることができるんだ」と言った。 ルーマニア国営放送局のオーケストラの定年は60歳だ。 一応65歳まで延長ができるけど、逆に管楽器は53歳から、弦楽器は57歳からいつでも退職することができる。 「それにしても辞めるの早いんじゃないか?どこか他のオケに移るのか?」「いや、ホルンは若くて上手いやつがいっぱいいるし、俺はもう吹かない。 親父の仕事を手伝うんだ」と寂しそうに言った。 「そうか、この次俺が来た時にはもうお前に会えないんだな?日本のツアーには6回全部来てくれたよな。 長い間ありがとう」と言って僕はホテルの前で車を降りた。 コンサート終了後のワインパーティー 翌日イオン(クラリネット奏者)に彼の退団を確かめると、「あいつもうホルンを吹くのが飽きたみたいだ」と言った。 リサンドロはとても大きな体でいつも窮屈そうに2番ホルンを吹いていた。 少しこ強面 こわもて の顔にひげを生やしていたけれど、とてもおとなしくこれまでほとんど話す機会がなかった。 来る度に少しずつメンバーが若返っているのは当然だけど、今回は最近数ヶ月の間に3人も亡くなっていた。 チェロのコンスタンティンは僕が来る2日前に65歳で亡くなったという。 彼はいつも「石井、お前の棒はいい」と言ってくれた。 大きい体で優しい顔のオイゲンはヴィオラの首席で40歳だった。 奥さんと小さい子供2人を残して逝った。 そして黙々と仕事をしてくれたステージマネージャは53歳だった。 皆病気だったそうだ。 これまでも定年退職したり他のオーケストラに移ったメンバーはいたけれど、亡くなったというのは初めてだった。 しかも3人、そして皆若い。 イオンは、ストレスが多いんだろうと言った。 一瞬「このゆったりとしたオーケストラでストレスが多い?」と思ったけど、確かに彼の言う通りかもしれない。 彼が育った頃は独裁国家だったし、豊かになってきたなと思えるようになってきたのはここ数年だ。 本番の前日、早めに練習に行くと楽屋からホルンの音が聞こえてきた。 誰がこんなに早く来て練習してるんだろうと思ったらリサンドロだった。 そう言えば、今回のコンサートでは2番ホルンのリサンドロにソロ(一人で吹く場面)があった。 この16年間で初めてのことだ。 本番はとても柔らかい美しい音で吹いてくれた。 何だ、情熱いっぱいあるんじゃないか。 今回彼はせっせと僕の送り迎えをしてくれた。 これも16年間ではじめてのことだった。 お別れの「気持ち」だったのだろうか。 ありがとうリサンドロ、16年間楽しかったな! お彼岸 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2013年10月号より 庭を照らす薄赤い日差しがとても美しく、つっかけを履いてふらっと外に出た。 近くの蓮田を歩き空を見上げる。 秋の夕方、お日様は丁度雲の後ろに入るところだった。 5ヶ月前に足の骨を折って以来、朝夕のジョギングや散歩も億劫になっていた。 久しぶりに気持ちの良い歩きだった。 そういえばもうお彼岸だ。 還暦になって改めて回りを見渡してみると、いつの間にか自分の人生に深く拘った人が少しずついなくなっていた。 暑い夏も終わり運動会など人が元気になりザワザワした季節が、僕には彼岸の夕日を感じる季節になっていた。 これまで平均年齢というものを勘違いしていた。 男の平均年齢が79歳と言うことは、皆少なくとも79歳まで生きると言うのではなく、単純計算では79歳になった頃には半分いなくなりましたと言うことか。 すると40台辺りからぼちぼち消えていく人がいると言うことだ。 リヒテンタールのブラームスの部屋にて思いに耽る 昨年12月には中澤が逝った。 僕が教えた4人のホルンの教え子の1人だ。 その中で一番若い47歳、東京フィルの現役メンバーだった。 小6の頃よく遊んだ伊賀崎は数年前いつの間にか亡くなっていた。 昔一緒に吹奏楽をやった河野が逝ったのも数年前だ。 それらが一々僕には堪 こた えるようになってきた。 先日もW先生が亡くなったと聞きとてもショックだった。 彼は3年前まで高校の音楽教員だった。 毎年吹奏楽コンクールで棒を振っているのを見て「ああ、頑張ってるなあ」と思っていた。 僕がホルン吹きの頃は彼の温かいクラリネットの音と一緒に演奏したこともあった。 生前彼と親しかった人にお話を聞くと、近年は家族からも離れて暮らしており孤独死だったという。 しかし数日前には、もうすぐ90歳になる広瀬氏に食事に誘われた。 つい10年前までは一人で外国に行きレンタカーを乗り回しておられた。 近年は2度も病災に見舞われたが、見事に復帰され、この日も出される料理をパクパク召し上がられた。 「16年前 僕が勉強していた ウィーンに来て下さいましたよね。 いつかまたご一緒しましょう」と行ってお別れした。 皆人生を頑張っていたはずだ。 しかし運命はどこで変わって行くのだろう? 今日の風景はヨーロッパの美術館や宮殿で何度も見た。 様々な宗教画に描かれている天井の神々、御使い、キリスト、マリア〜中世の画家たちはきっと今日僕が味わったような風景から想像が膨らんできたのだろう。 本当にこのような美しい夕空は神様にしか創れない。 今日の夕日のように、美しく生き美しく空に行きたい。 粘り強く、更に粘り強く努力、後は力を抜いて神様にお任せしよう。 新スタート 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第69号より 中四国地本が新しくスタートした。 運営委員には行動力抜群の松崎氏が退任され新たに上田氏と清澄氏が加わった。 皆忙しい。 全くのボランティアであり活動に限界があるのは確かだ。 本音を言うとなるべく問題が起こらないことを祈るばかりだ。 しかし、小さな所帯の中四国地本にもなぜか問題が収まった頃を見計らったように必ず次の問題が持ち上がってくる。 とすると〜そろそろまた次の出番か? 最近もユニオンが拘った関連の裁判で17歳の元音高生の訴えが却下された。 訴訟時は15歳、ここに辿り着くまで2年、しかし最終読み上げは僅か1分だった。 却下理由は、尊厳を傷つけるような行為があったのは事実だが、教育の範囲内とのことだった。 最近問題になっている体罰に比べれば別にたいしたことではないという様子さえ伺えた。 記者会見で、現在17歳のその女の子はグッと気持ちを抑え涙をこらえ、しばらくしてようやく「くやしいです」と背筋を伸ばし清楚に答えた。 日本の裁判は勝っても負けても100%というのはほとんどない。 双方とも莫大なエネルギーを使い深いダメージを受けてなんとなく終わりだ。 そのため今回のように却下されても、ようやく開放されるという安堵感さえ感じてしまう。 だからだろう、控訴はやめた。 しかし一体なぜこのようなことになるのだろう?僕も含め音楽人や教育人は人間関係が疎いのか。 裁判では双方とも延々と不毛な時を過ごし、結果多くのものを失う。 あのアメリカでさえ、「たとえ勝ったとしても、得るものより失った物の方が大きい。 」と言われる。 今回の裁判は、人間関係を維持できない大人が教育者として権力を持ってしまった事が始まりだった。 豊かな人間関係と口では言うけど、字では読めるけど、基本は「やさしい」と言うことだろう。 教育人はもちろん音楽人にとっても一番大事な言葉だろう。 だれだってやさしくしてもらいたい。 しかしなぜか人には中々それができない。 今の音楽ユニオンの理念は「闘争」でないことは確かだ。 これからは「やさしい」を理念とできるユニオンでありたい。 いつもやさしく闘争をしてくださった松崎さん、長い間本当にありがとうございました。 石井も還暦 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2013年4月号より 4月1日。 これを書いている今日還暦になった!実際の誕生日は3月25日だったけど、こちらは戸籍上の誕生日だ 事由は参照。 これで確実に60歳になった! 還暦!できれば触れたくないけど、やはりどの節目とも何か違うように思う。 この際真正面に据えて考えて見たい。 20歳、30歳、40歳もそれぞれ大事な節目であり、これまでもそれぞれ目標を設定して生きてきた。 50歳では定職 短大です を辞めフリーを決断した。 音楽を一生の仕事と決めて以来いつも必死だったけど、あの頃も本当に必死だった。 後任をお願いした山崎先生にはお会いする度に「いつ帰ってきてもいいよ。 いつでも交代するよ。 」と言われた。 スパッと辞めてしまたものの、僕の顔は不安でいっぱいだったのだろう。 コンサートのポスター キリル文字でKazuhiko Ishii が 一緒に仕事をしたことがある指揮者のY氏もE氏も僕の前後に大学教員を辞めた。 彼らの気持ちは良くわかる。 ある程度の研究活動は保証されていても専任教員には山のような雑務がある。 日々音楽を求めていくとすぐに限界を感じることになるからだ。 ところがフリーになってもすぐに仕事がどんどん入ってくるわけではない。 また入ってきてもすぐにバリバリ棒が振れるわけでもない。 オーケストラはその気になれば毎日でも演奏できるけど、指揮者の方はとても勉強が追いつかないからだ。 しかも出演料の単価は指揮者の方が高いから錯覚してしまうけど、社会保険と雇用が保証されているオーケストラの楽員よりも確実に生活は不安定だ。 そんな生活になって9年経ち今日還暦を迎えて思うのは、「本当に9年間音楽をよくやってこれたなあ」、そして「60年間よく生きてこれたなあ」ということだ。 今になって考えてみると、この9年間は取りあえず還暦まで生きることを目標にしてきたようにさえ思う。 では次の目標は? 健康で子供たちが一人立ちするまで長生きする 一番下は中3です ・・・これは当然。 これからもブレずに音楽を求めていく・・・これも当然だ。 しかしよく考えてみると、指揮者としてはそろそろマエストロの世界に入るところだ。 ところが僕にはまだまだ未経験の曲がいっぱいある。 最近はそれらを勉強していると、これまで想像していたのとは全く違う深さに到達して改めて感動してしまう。 一体いつになったら「オッ!ちょっとは極められるようになったかな」という年齢になるのだろう?「もう髪を染めるのも面倒だ。 この際見た目だけでもマエストロで行くか!」と言ったら、友人に「やめとけ。 まだまださわやか路線で行ってしっかり実績をあげろ!」と言われた。 確かにそうかもしれない。 最近はどこまで白髪になっているのかもわからなくなってきたから、手入れをやめるとただの場末のよれよれ指揮者なってしまう可能性もある。 同級生のIは度々「石井、お前 の生き方 かっこいいよなあ!」と言ってくれる。 中2の息子は「僕にとったらあのまま学校にいてくれたほうが良かったよね。 だって収入は半部以下になったんだよね。 」と言う。 僕の生き方はやっぱり子孫には迷惑だろう。 昔ラッパ吹きだった頃お世話になった指揮者のIさんは、僕とは逆のケースをたどった。 彼は20年前オーケストラの正指揮者をやめ大学の専任教員になった。 昨年その彼が「最後はやはり指揮者で死にたい。 定年の70歳まであと3年だけど大学をやめることにした。 」と言って初めてのヨーロッパに行き演奏活動を再開した。 彼の誠実な人柄、実力はヨーロッパのオーケストラで立派に通用するだろう。 彼の白髪もマエストロの貫禄十分だ。 僕の方は昨年のコンサート評で「石井はまだ若手だが〜」と書かれていた。 当面期待?に沿って謙虚にスカッとした若い棒を目指すことにしよう。 そして、心中に決めた素敵な目標を5年以内、10年以内に達成しよう。 それらを記念パーティで盛大に披露できるよう、若きマエストロ頑張ります!人生って案外短いんですね。 気持ち良く寝たい! 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第68号より 寒い。 毎夜、布団に入り体の上下を厚い毛布に挟み、さらに背中に電気毛布の温かみを感じると、「ああ幸せだなあ〜神様、ご先祖様、仏様、本当に有難うございます」と心から感謝の気持ちが溢れてくる。 嘘つけ!と言われそうだけど、自分でも最近の謙虚さにはびっくりしている。 2ヶ月前、新宿のワシントンホテルに滞在していた。 そこから都庁前の地下鉄駅まで毎日250mの地下道を行き来していると、ホームレスの人たちの存在が気になり始めた。 そのうち、彼らは夕方6時頃から就寝の支度を始め、朝7時頃から片付けに掛かることに気がついた。 道の左右に、お互いの間隔を空け整然と寝具を置き、眠る人、食事をする人、本を読む人、それぞれが静かに時を過ごしている。 11月だ、街ではコートやマフラーの人も増えてきた。 幅20mもありそうな地下道は、通り抜ける風も冷たく身に凍みる。 コンクリや石畳の上は寒いだろうなあ。 アメリカのホームレスは平均寿命41歳と言うけど本当に命は縮むだろう。 皆、学校教育は受けているだろう。 字は読めるし計算も出来るだろう。 しかもこんなに行儀良くしている人たちがなぜここで寝なくてはいけない?それぞれの生き方に責任はあるにしても、彼らにすべての責任があるのか?地球上で最も労働人口の減少が著しい、しかも先進国と自称する日本で、なぜ僅かな仕事の分配にさえありつけないのか? それは人事 ひとごと ではない。 現在安定した収入があろうと、財産があろうと油断は出来ない。 実際、ホームレスには元公務員や元社長という人も結構存在するし、今の日本社会は益々リベンジが不可能な構造に変化しているからだ。 こんな時こそ行政や宗教団体の役割は当然として、私たち一人ひとりはどう考え、どう行動すればよいのだろうか? それは既に自然や社会現象が何度も警告しているのではないか?今すぐ、少しづつ、もう少しだけ、お互いに優しくなりたい。 それだけで今年1年が終わる頃、少なくともこの島国くらいは今よりは認め合う社会に変化しているはずだ。 おみそれしました! ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2013年1月号より 初めての国で、初めてのオーケストラ。 そして当然初めてのホールで、初めての練習、それはロシア! 少し緊張しながらスッとかっこ良く のつもりで 指揮台に立った。 このオーケストラも大分若返りが進んでいるのかなと楽員をゆっくり見渡すと、人生に疲れたようにふやけた様子のおばあちゃん ごめんなさい と目が合った。 彼女が座っているのは第1フルートの席だ。 大事なポジションだけど大丈夫かいな?と思いながら棒を振り下ろした瞬間、「このオケすげえ!」思わず心の中でこんな言葉を叫んでいた。 そして間もなく「このフルートのお方 急に丁寧語 ただ者じゃないな!」と言うことがはっきりわかった。 ロシアの初雪? 彼女の音は僕が大好きなルーマニア国立放送のコンスタンツァの音とは全く違う、ユナイテッドオイロッパでいつも吹いてくれるウィーンフィルのシュルツ 息子の方、父も偉大なフルーティスト の美しく格調高い音とも全く違っていた。 それではこのあばあちゃん 何度もごめんなさい の音は明るい?エレガント?やはりすべて違う。 彼女の音は錆びかかった銀のようにくすんでいて、幅広い、しかし太いわけでもなく一体何と形容すればいいのだろう。 何ともとらえようが無いけど、ただただすごいものが伝わってくるのだ。 次の日フルートの席を横切ると、彼女が「マエストロ、こんにちは」と日本語で話しかけてきた。 「エッ?日本語?」とびっくりしていると、「私の先生はムラビンスキーの奥さんでした。 」と言った。 これだけで十分びっくりする価値があるのだけど、もっと先があった。 「私は1975年、レニングラードフィルハーモニーの一員として日本に行きました。 」と言ってその時のプログラムと写真を見せてくれた。 「指揮者がムラビンスキーで、この第1フルートが彼の奥さん、その隣が私です。 そしてこちらのオーボエは私の最初の夫で、後ろのバスクラリネットは私の父です。 2人共もう亡くなりました。 」と寂しそうに微笑んだ。 やはりただのお方ではなかった!ムラヴィンスキーは閉ざされたソビエトで50年間レニングラードフィルの指揮者として君臨した。 そしてほとんど外国で振ったことがない、音楽界では神様のような存在だ。

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来週の今頃には君はもうロンドンを発ってしまっているね 英語

広瀬さん ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2020年4月号より 「久しぶりに食事でもしない?」3年前の夏、いつもお世話になっている病院に行くと広瀬さんが診察待ちをしておられた。 広瀬さんにお会いしたのは2年ぶりだった。 その時93歳、足腰は随分弱っておられたが変わらずお元気だった。 病院を出て2時間後広瀬さんとステーキ店のカウンターに座っていると、50歳くらいの女性が男性2人を伴って入って来た。 食事をしてそのままスタンドに同伴出勤するらしかった。 女性は、少し離れた席から男性客と話を合わせながら時々こちらの様子を伺っているようだった。 「誰だろう?どこかの店で会ったかな?」と思いながら広瀬さんの方を見ると、特に気にする様子も無く草履 ぞうり のような牛肉を美味しく完食されていた。 「気のせいだったのか?」と思いながら店を出て、広瀬さんを支え10mくらい歩いた時、さっきの女性が店の戸を開け小走りにこちらに向かってき来た。 そして、「私のことわかりますか?昔よくお店に来ていただいて」と懐かしそうに広瀬さんに話しかけ、懇情の別れのように寂しそうな顔をして先ほどのステーキ店に戻って行った。 在りし日の広瀬さんと私 3年前のこの日が広瀬さんとの最後の食事になった。 その後も1人住まいの広瀬さんが気になり時々電話をかけたりしていたが、1年前からほとんど繋がらなくなっていた。 昨年の5月、やはりいつもの病院で広瀬さんが介護型の病院に入院されたとお聞きした。 2ヵ月後車で20分くらいのその病院に伺うと、いつものように知的でおしゃべり好きの広瀬さんがベッドに横たわっていた。 「いやー嬉しいなあ!こんなところに入って誰も来てくれないと、俺ももう終わりか?と僻(ひが)んじゃうんだよね」とおっしゃった。 それから3度目の11月に伺った時には近々演奏するモーツァルトをスマホで聴いていただいた。 広瀬さんが大好きだった曲だけど口も動かせず意識もはっきりしてないようだった。 年が越せるかなあと思っていたけどやはりこの時が最後の別れになってしまった。 1月1日の朝、96歳を目前に亡くなられた。 2月になって息子さんから連絡を頂き、久しぶりに広瀬さんの御宅にお邪魔した。 数学から宇宙、音楽、文芸など様々な分野の積み上げられた本、オペラから交響曲までぎっしりと整理されたレコード、自身で編集、出版された植物関係の専門書、世界中旅をして触れ合った人々との多くの写真。 そこではあらゆることに興味を持ち楽しく取り組み充実した広瀬さんの人生が感じられた。 その中から僕は1冊の本を遺品としていただいた。 こんなものにも興味があったのかと感心しながら、ウィーンで勉強、活躍した打楽器奏者の素敵なエッセイを読ませていただいた。 広瀬さんとのお付き合いは、25年前僕のコンサートのことを新聞に寄稿して頂いた縁で始まった。 以来、各種催しや食事など度々誘っていただくようになり、僕がウィーンで勉強している時には2人の女性を伴ってふらっと陣中見舞いにも来て下さった。 そのように年齢や肩書きに関係なく誰とでも楽しく過ごせる人だった。 「あそこの店に可愛い女性が入ったんだ、行ってみない?」と飲みにも度々誘って頂き、お店に行くと「どう?素敵な女性でしょう?」と言ってお茶を飲みながら会話を楽しまれるのだった。 父と同年代だったけど、広瀬さんは僕にとって人生を豊かに生きるメンターであり「友だち」だった。 「石井さん、あそこの喫茶店は美人姉妹がやっててね。 僕は時々お昼を食べに行くんだけど、今度一緒に行こうよ!」 こちらはついに実現しなかった。 今度は僕が誰か誘って行ってみよう。 希望のレクイエム ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2020年1月号より スーパーで流れるBGMがいつの間にかスッと心に入り込んできた。 若い女性のギターによる弾き語りらしかった。 「今日のおかずはハンバーグ〜お月様ころころころがして〜」一体どういう歌だこれは?と思っていたら、涙がポロッと出てきた。 一見、素朴なメロディに日常の言葉を連ねた平凡な歌詞。 だけど何かが違う!美しいとか、明るいとか、そんな言葉が意味なく思えるように心に染み込んでくる歌声だった。 いつもの僕はBGMが苦手だ。 デパートなどあらゆる音が入り乱れてるところに行くと益々苦痛になる。 なのに、スーパーで流れている歌にこれほど聞き入っている自分に本当にびっくりした。 ブラチスラヴァ城のライトアップ それ以来、買い物に行った時その歌が流れるたびに気になってしまい、歌詞を頼りにネットで調べてみた。 それは岩国出身のシンガーソングライターHさんの弾き語りで、スーパー丸久(まるきゅう)が委嘱した「家族の音」だった。 それから間もなくして高校の同級生よりHさんのコンサートに誘われた。 同級生はHさんが幼い頃からのママ友でずっとHさんを応援しているのだと言う。 僕はペンライトを持ってのノリノリ応援に躊躇しながらも(こちらも苦手)初めて生の「家族の音」を聴きにいった。 バンドとの共演後、大ホールのステージ前寄りにぽつんと座りPA マイク も使わなかったHさんの弾き語りは、不思議な希望を感じさせた。 その1週間前、僕はピアニストのKさんとバッハを共演した。 2年前Kさんと初めてウィーンで共演した時、彼女の心に染み入るようなモーツァルトがなぜか不思議に感じられた。 そして今回スロヴァキアで演奏したKさんのバッハはさらに深かった。 CDなど巷ちまたで聴かれるような厳格で頑張るバッハではなく、人間バッハを感じさせる演奏だった。 未だ20代の彼女の音楽がなぜこんなにも深く、温かいのだろう?数日間Kさんと一緒に練習をして話をしているうちに、彼女の音楽の意味がわかってきた。 シンガーソングライターのHさんもピアニストのKさんも未だ若い人たちだ。 ところが二人とも、家族を突然失った悲しみや病気と共に人生を生きていた。 そんな彼女たちの音楽は同様に深く、優しく、希望をも感じさせる。 それは、彼女たちが自分の人生に何があっても決して誰をも恨むことなく、人を信じ、自分の人生を信じ、音楽に人生を問い続けてきたからだろう。 彼女たちの演奏は大切な家族のためのレクイエム(鎮魂歌)だと思った。 若い彼女たちの深い演奏から、今年の希望をもらった。 デビュー ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2019年10月号より どうもおかしい。 最近勉強する時間が足りない。 今年は本番も多くないはずだし、タイムカードもない生活をしてるのになぜだろう? ゆっくり考えてみた。 1年前に始めたフランス語のレッスンはおよそ1、2ヶ月に1回のペースで往復3時間かけて車で通っている。 いつもレッスンの3日前から集中的に勉強するから年にして合計約1ヶ月の消費。 同様に1年前に始めたフィットネスは、家を出てから帰るまで約3時間。 結局半日近くつぶれるから年にしてやはり1ヶ月の消費。 そして昨年12月に生まれた初孫のお世話が新しく加わった。 夫側の両親はアメリカ在住で、妻側=長女側は岩国在住だ。 それでどちらの両親も東京に住む長女の手助けは出来ない。 近くに住む次女と息子が時々手伝いに行ってるけど若い二人は結構忙しい。 そのため東京で僕の用事がある時はできるだけ子守に通うことにした。 コンサートや仕事が終了した後ホテルから次女&長男のところに移って家事をやり、孫のところに通い育児を手伝っている。 2、3ヶ月ごとのペースで年間約2週間の消費。 さらに考えてみると、やはり昨年12月からJCP事務局スタッフのKさんが長期お休み中だ。 彼女がやってくれていた毎週2時間程度の情報管理や楽譜製作がそのまま僕の仕事になった。 驚いたことに新しく始めた 始まった 事々によって1年のうち4分の1の時間がこれまでの生活に入り込んでいた。 どれも僕にとっては喜びだから一生懸命やっているけど、音楽の勉強時間を圧迫していることには気づかなかった。 先週は孫の保育園の敬老会らしきものに行った。 未だ生後9ヶ月だけどたまたま空きがり、8月から週3、4日午後だけお世話になっているのだ。 当日はわくわくしながら登園すると、どのクラスも大勢のおじいちゃんおばあちゃんで賑わっていた。 ところが0歳児のわが孫のクラスは3人だけの登園(5人中)でしかも僕以外おじいちゃんもおばあちゃんも参加はなかった。 3人の先生と3人の園児で小1時間童謡遊びなどして楽しく過ごし「10月の運動会も是非参加してくださいね〜」と言われながら孫と2人してご機嫌で帰ってきた。 思い返せば僕は3人の子どもたちの運動会もできる限り参加しているけど、当時はいつも心に余裕がなかった。 たいていシンフォニーなどのスコア(指揮者用楽譜)を持って行き、子どもたちの出番以外はテントの隅で必死に覚えていた。 さらにもっと昔小学校の教員をやっていた時も(色々やってます)遠足のバスで後ろの席に座ってベートーヴェンの運命を覚えていたことがあった。 必死だったということもありなぜか静かなレッスン室にいるよりよく覚えることができた。 今思い返すと本当にろくでもない人間だったと思う。 来月の孫の運動会は色々行事もあってまず無理だけど、僕の心は「その頃東京で何か仕事が湧くといいなあ」ともどこかで思ってもいる。 さすがにその時は楽譜を持って行くのはないけど(あたりまえですね)、そうなると逆に先頭に立って参加していそうな気もする。 じいちゃんデビューしてありがたい仕事が増えた。 ネット ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2019年7月号より 買い物はすっかりネットが多くなった。 わずか1個のボタン電池が送料込み75円で注文の翌日届いたのにはびっくりした。 楽譜もネットだ。 現役でいる限りどんどん増えて行くのは仕方ないけど、せめて本はこれ以上増やしたくない。 そう思って近くの図書館を勝手に自分の書庫と決め、たちまち必要無い書籍は少しずつ近くのリサイクル集積所に持って行った。 すっきりしたと思っていたら、あれ?いつの間にか再び本が増えている。 図書館で借りた面白い本がいつの間にか寝室で増えていった。 同じ本をネットで注文してしまったのだ。 でも寝入る前のベッドでの読書は僕の楽しみだ。 何度も読みたい本は買ってしまうことにした。 そして旅行の手続きも全てネットになってしまった。 国内はもちろん、国外の飛行機もホテルも全てだ。 日程の変更や確認をネット旅行社に電話をすると、外国人らしい人がきれいな日本語で丁寧に対応してくれる。 電話番号こそ国内だけど本当はどこに掛かってるんだろうと思う。 先月はネットで恐る恐るブレザーを注文した。 翌日には届きさっそく袖を通してみると中々いい。 近所で袖丈と肩パットを2000円で直してもらったけど本体は何と3800円だった。 前に買ったランバンのブレザーは20倍以上の値段だ。 両方並べてみるとそれなりに価格の差はあった。 でもネットだからとあまり期待してなかったし、気楽にどこにでも着ていけそうで結構気に入ってしまった。 そこでもう少し挑戦してダメもとでスーツを注文してみた。 シンプルな夏向きの薄い上下だ。 前回よりも本気で画像や口コミも調べただけに最初から体にピタッと合った。 しかし・・・上着に内ポケットはなく、外ポケットも形だけで使えず、ズボンの後ろポケットも当然のごとく無かった。 本当に無い、形すら無い!娘の結婚式でも着た 関係ないけど)ランバンのスーツと並べるとその差は歴然だった。 ネット上のモデルの着こなしは美しかったけど実物はやはり2600円の値段どおりだった。 さすがに外に着て行けるとは思えず、ネットの注意書きに従って返品の手続きをした。 すぐにメールで「返品は中国なので、送料のほか通関にも手間隙が掛かる。 20%の返金でどうか?」と言ってきた。 一瞬もうそれでいいかなとも思ったけど再度「送付先は大阪になっており、注文翌日には受け取っている。 中国に返品は理解できない」と書いた。 再びすぐに「大阪ではダメ。 20%で折り合わないか?」と返事が来た。 何か不自然だなと思った。 今度はアマゾンの苦情センターにメールすると、すぐに同様の返事がきて、「100%返金の手続きをした。 お客様の手間が大変だから品物も送り返さなくて良い」と言ってきた。 益々意味がわからなくなってきた。 衣服を対面で買うのは煩わしいこともあるけど、やはり出来るだけ時間を使って丁寧な買い物をしなくては。 雑多に縫製されているスーツがかわいそうだと思った。 ドイツ語学校 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2019年5月号より 先生!私ウィーンに1ヶ月行けることになったんです!」 先日夜遅く、数年ぶりにOさんから電話を頂いた。 「それから…スイスにもドイツにも行きたいんです。 でも1人で行くのは初めてなんです。 どうしたらいいでしょうか?」突然のはじけるような電話からはあふれるような喜びと少女のような不安が伝わってきた。 Oさんは音楽科教員を定年退職したあと、さらに数年間継続して教壇に立っていた。 しかし今年から非常勤(パートタイム講師)になり夏休みはすべて自由になったそうだ。 在職中の40年間はフルタイムで中学や高校に勤務をしながら4人のお子さんを育てられた。 そしてピアノも一生懸命を弾いてこられた。 僕も何度か彼女の素晴らしいピアノでチャイコフスキーやベートーヴェンのコンチェルトをご一緒した。 電話で話しているうちに、Oさんは夏休みになったらドイツやスイスを回ってウィーンに行き1ヶ月間ドイツ語学校で勉強することになった。 「素敵だな、僕ももう一度ドイツ語学校で勉強したいな」と思った。 僕が初めてドイツ語学校に入ったのは30年前の平成1年だった。 長女が生まれてようやく半年経った頃、10年間勤めた学校を辞め(当然定年退職ではありません)、ドイツ語も全くしゃべれずウィーンに行った。 すべてが不安だった。 それでもようやく勉強ができる!と言う喜びは大きく、毎日わくわくして学校に通った。 授業は午前か午後の4コマ3時間、ひとクラス10人、授業料は月3、5万円程だった。 クラスメイトは、ルーマニア、コロンビア、イラン、タイ、韓国、イギリス、トルコ、中国など様々な国、人種、宗教、年齢の人たちで構成されていた。 「これで一体どうやって授業をするのだろう?」という心配は授業初日からさらっと無くなった。 教室に入ってきた先生は一人ひとり「ヴォヘア・コメンズイ?」と聞いて回る。 最初(?)と焦っているとそのうち「貴方はどこからきたの?」というニュアンスが伝わって来た。 へえ〜と思っているうちに、どんどん授業に吸い込まれていった。 最初の1ヶ月の間に学校が主催する校外観光やホイリゲ(ワイン酒場)、カフェの交流があり、生徒が催す各種パーティがあった。 生徒同士では最初片言の英語で意思の疎通を図っていたのが、不思議なもので1ヶ月経つうちに何とかドイツ語で交流していた。 それは熱心な先生のお陰でもあった。 言語は、その言葉にたどり着くまでの歴史、文化のすべてを内在する。 クラスメイトとドイツ語でしゃべっているときでさえ、それぞれの母国語から来る個性が感じられ、すべてが僕とは違う彼らともっと色々なことを喋りたいと思った。 僕ももう一度ドイツ語学校で1ヶ月間勉強したい。 それから英語を1ヶ月、イタリア語を2ヶ月、ロシア語を3ヶ月、フランス語を半年それぞれ語学学校で勉強したい。 そしてアメリカ人牧師のケン、イタリアでホームステイしてるとき遊んだ当時中学生のマルコ、ロシアのオーケストラでお世話になったナターシャ、指揮者ゼミでいつも一緒にいたフランス人のパトリックといっぱい話がしたい。 まずはOさんの今年の夏休みの話が楽しみだ。 きっとクラスで人気者になっていっぱい友達を作り、十数年分の人生経験をして帰国されるだろう。 迫田先生 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2019年1月号より 「石井先生は楽譜通り音が並んでない演奏をどう思われますか?音楽とは認めませんか?やはり作曲家を冒涜してると思われますか?」 不思議なことを言う方だなと思っていた。 コンサートが終わったとき「いやー!よかったよかった!」と言って体格のよい方が楽屋に来られた。 そのとき共演したピアニストに私の恩師ですといって紹介されたのが迫田先生だった。 その後も先生のお弟子さんと共演する度に「ああいい演奏だった!やっぱりピアノ協奏曲はいいですね」と言って挨拶に来られた。 それから折に触れて「障害者の方々のピアノ演奏についてどう思われますか?」「一度聴いていただけませんか?」とおっしゃるようになった。 初めて迫田先生にお会いしてから数年後、先生が主催されるコンサートで障害者の方々の演奏を聴いた。 全く耳が聞こえない人のリスト、手首から先がない人のショパンは素晴らしい演奏だった。 全盲で自閉症のピアニストが、今初めて聴いた曲を即座に再現したときは、「一人ひとりの人間に確実に様々な才能を与えておられる神」が今この場におられるのでは?とさえ思った。 それから半年後、迫田先生から「片道分の航空券でウィーンの障害者国際コンクールの審査をお願いできませんか?」と言って来られた。 実質の主催者である先生が、もう10年以上同様の催しに自費を投入して続けてこられたことは知っていた。 せっかくの申し出は遠慮して自費参加させていただくことにした。 そして2013年の12月、ウィーン市民が心から感動し惜しまない拍手をする様子に3日間浸った。 それから5年後の2018年12月にはニューヨークで4回目の障害者国際ピアノコンクールが開催された。 今回も3日間唯ただ感動の涙が流れっぱなしだった。 私たちには想像もできない障害を持った人たちばかりだけど、どれも各国を代表してこられた人たちだ。 立派な音楽家の演奏だった。 そしてどの演奏も深く心をえぐってくる。 油断して聴いていると「お前も本当に音楽家?」と問われるような気さえした。 3位に入賞したイタリア人男性のシューベルトは最初の第1音から真剣勝負を迫ってくるようにさえ感じた。 入賞者コンサートで彼の音楽を聴いていると再び涙がぽろっと落ちてしまった。 やばい!とふと周りに視線を移すとあろう事かテレビカメラがずっとこちらを捕らえていた。 「バカ映すな、こんなとこ撮ってどうするんだ!」と思っていると、ぼろぼろっと涙が溢れてきた。 終演後ハンカチを出しながらそっとあたりを見渡すと観客の多くが同様に涙を流していた。 終演後彼に「ミ・ピアーチェ・トウア・ムージカ=私は貴方の音楽が好きです」と言うと、「?」の顔をしている。 え?イタリア人にイタリア語でなぜ通じない?と思ったら、耳がほとんど聞こえないとのことだった。 何がこんなに心を打つのだろう?なぜ彼らが音楽の本質を持っているのだろう? いつか迫田先生が言われていた。 「この人たちはピアノに興味を持ったときほとんど門前払いを食らったんです。 君にはピアノは無理だ。 他の事をやりなさい。 どうにか教えてくれる先生が見つかっても、障害があるのだからこの程度で満足しなさいと言われる。 それを乗りこえてピアノを弾きたい、音楽をしたいと努力してここに来ているんです。 それでも未だに障害者は馬鹿だと思っている人がいる。 とんでもない!彼らには障害を持ったからこそ私たちにはない深い音楽が表現できるんです。 」そしてニューヨーク大会の終了の挨拶では涙ながらに「ディスイズ、ディスイズ、ミュージック!」と言われた。 今年82歳になられる迫田先生はご自身素晴らしいピアニストとして活躍された方だ。 習い事 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2018年10月号より 数年来やりたかったことをようやく始めた。 フランス語の勉強だ。 大学に入学して間もないころ1度だけフランス語の授業を受けたことがあった。 最初の授業に出ると僕以外すべて女子学生だった。 あんまり恥ずかしくて翌週からドイツ語に移った。 そのドイツ語も前期試験でほとんど白紙で出そうとしたら、近くにいた先輩が「ばか!何でもいいから書け!俺のを写せ!」と言ってくれようやく1単位取っただけだった。 それから15年後に参加したウィーンの指揮者ゼミは当然ドイツ語で行われ、多少自信があった僕の英語も全く通用せず本当に大変だった。 3年後再びウィーンに降り立った僕は、すぐにゲーテ(語学学校)に入りわき目も振らずドイツ語に取り組んだ。 ウィーン大学入学後もドイツ語講座や、語学学校に通った。 オペラを振るにはさらにイタリア語が必要だ。 短大教員をしていた夏休みにフィレンツェで1ヶ月勉強した。 ドイツ語に比べてイタリア語はすぐに馴染んだ。 あと2ヶ月勉強するとかなり喋れると思ったけど、次に勉強に行ったのはそれから11年後だった。 その時は短大を辞めすぐにミラノに行った。 今度こそ完璧なイタリア語を取得だ!と毎日一生懸命勉強していると、何が何でも吹奏楽コンクールの審査員をやってくれと日本から連絡が入り2ヶ月も経たないうちに帰国することになった。 でも最低限度の会話力と読み書きだけは何とか取得した。 さらにあちこちのオーケストラを振るためは英語が必要だ。 特にルーマニアや、ブルガリア、ロシアなど東欧に行くとピタッとどの言語も通じなくなる。 そして控えている通訳や放送局のインタビューはすべて英語なのだ。 でも今さら英語まで勉強していられない。 中学高校6年間の英語力だけでも、頑張ってしゃべっていると身につくはずだと思うことにした。 その上でフランス語は今回の人生では無理!次の人生に掛けよう!と思っていた。 そうして頑 かたく なに拒んでいると、なぜかフランスの曲を振る機会が増えてきた。 これまでもフランスのオペラアリアを振るときは歌詞の部分だけ勉強して無理やり覚えていた。 しかしそんな付け刃の勉強で音楽が自然に美しく流れるはずはなく、歌手も歌い易くはなかったはずだ 迷惑かけました。 とりあえず2、3ヶ月集中できそうになってきた先月からフランス語のレッスンに通い始めた。 未だ「ジュ・テーム」より「イッヒ・リーベ・ディヒ」(フランス語とドイツ語のアイ・ラヴ・ユー)の方が馴染むけど、ドイツ語やイタリア語の勉強を始めたときと同様に、未知の文化に接する喜びでわくわくしているところだ。 しかし勉強でわくわくというのは学生時代の僕には全く分からなかった。 そして今大学2年の息子が昔の僕の状態だ。 息子が夏休みに帰ったとき、「もともとわからん授業が(フェンシングの)試合で抜けて戻ってみると益々わからなくなってる。 ちゃんと卒業したいから出席だけはしてるけど、わからん授業は大体寝てる。 」と言ってた。 そのとき「気持ちはわかるけど勿体無いな」という話はした。 それから間もなくして僕がフランス語の初レッスンを受けてわくわくして帰ったとき、息子にライン(メール)した。 〜〜〜お疲れ!パパはフランス語の勉強を始めた。 勉強は本当はめちゃくちゃ面白い。 でもみんな無理矢理やらされてるから離れようとする。 もったいない!大学は閉鎖社会だからろくでもない先生もいるけど、ばりばりの専門家には違いない。 卒業してあんなこと習おうと思ったら莫大な金と時間がかかる。 先生のいいところとか、科目の面白いところとか それはかなりある 、そこのクラスの友だちとか、楽しそうなことを探すのが授業だと思えばいい。 〜〜〜 夢の中の僕にも言いたかったのだ。 大学の授業は未だに夢にもよく出てくる 初めての本番 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2018年7月号より 初めての本番はわけもわからなく怖い。 先日は父親として初めて娘の結婚式(本番)を経験した。 娘親は特にすることはないと言うけど、ドラマや映画、コマーシャルでさえ、彼氏を連れてくる娘、嫁に出す父親、と言う設定が目に付きプレッシャーをかけてくる。 さらに「バージンロードは公園を歩くんだよ、舞踏会を入れたからパパにもワルツを踊ってもらうよ、最後にお話してね」などこれまでの結婚式からは想像もできないようなことばかり言われ、唯々ただただとまどうばかりだった。 「すでに籍も入れて一緒に住んでるし、もう結婚式という儀式はしなくてもいいのでは」とか勝手に思っていた。 「パパは、参加して下さった方々にゆっくり料理も味わって頂ける温かい結婚式がいいなあ、ヨーロッパのような」などと余計なことを言ってしまったからこんなことになったのか?本番は一体どうなるのだろう?公園でと言うけど天気は大丈夫?と心配ばかりしていた。 ついにやってきた結婚式は南池袋公園の芝生を歩き、大きな木の下で新郎新婦が誓いの言葉を交わし、公園の中のレストランでパーティという設定だった。 当日の朝、心配していた通り雨がポツリポツリ落ち始め、バージンロードは芝生で行わずレストランの2階から降りてくることになった。 ところがそわそわしているうちに開始の時刻を迎えても少しも始まる様子がない。 ?と思って周りを見渡すとスタッフの皆さんが外で慌しく準備をしていた。 いつの間にか空にスッと薄明かりがさしていたのだ。 結局少し遅れて予定通り外の芝生でセレモニーがスタートした。 公園で子どもたちと遊んだりくつろいでいた人たちも「結婚式だ!」と言う表情でさりげなく邪魔をしないよう気を使って下さった。 そして誓いの言葉も終わりレストラン特製の心のこもったケーキをカットする頃、本格的な雨になってきた。 人生の大事な場面で天気が見守ってくれるなんてことが本当にあるんだ!と思った。 2年前、大学の同級生のお嬢さんの結婚式に出席したときは、開始直前にみごとに美しい虹が顔を出した。 僕はこのとき初めて、娘を嫁がせる父親の気持ちと言うものが感じられたように思った。 さて結婚式&パーティは娘の恩師 テノールの大家です の歌に始まり、同級生たちによるオペレッタ、新郎と新婦のワルツなどあっと言う間の5時間!!だった。 一番最後は僕と新郎のお父さんの挨拶だ。 そのとき思い出していたのは、娘が小さい頃、それからもっと昔の事だった。 僕は昔、結婚式が行われた南池袋公園を横切って毎日大学に通っていた。 池袋駅から数分歩いて公園にたどり着きさらに数分歩くと大学だった。 その頃は「ラッパが上手くなりたい」ばかり考え毎日毎日通った。 しかし1日だけ無断欠席したことがあった。 その日はスランプなのかなぜかラッパを吹く気がしなかった。 すると同じアパートの先輩が1日遊びに連れ出してくれた。 ところがその晩、何と同級生と後輩の女の子がお見舞いの花を持ってアパートまで訪ねて来てくれた。 「真面目なお前が学校に来ないからてっきり病気で寝込んだのかと思った」と言った。 その頃の僕に、40年後娘が僕と同じ大学に同じようにして通いここで結婚式を挙げることを教えてやりたかった・・まさか! 結婚式前夜からの2日間、新婦のお父さんは「大事なのはとにかく二人の幸せだ」とずっとおっしゃってた。 まったく同感だ! そして最後にJCP事務局員の三上さんに「今日はよく泣きましたね」と言われた・・・こちらも同感だ! 石井のさんぽ ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2018年4月号より 毎朝散歩をしている。 面倒だなと思うときもあるけど、40分も歩くと1日の大仕事を終えたような気持ちになる。 いつも団地のそばの小川が流れる道を上がって行く。 10分も歩くと青い空が広がり岩国医療センターが見えてくる。 今朝はここでトイレに行き、水を飲んで、ATMでお金を下ろした。 ここが僕にとって一番近い銀行であり、コンビニであり、カフェで、レストランなのだ。 昨年からここに高校同級生のKさんが入院していた。 同級生と言っても女性なのでお見舞いには行きづらい。 容態はどうなんだろう?元気になったのかなあ?とか心配しながらその前を通り過ぎ今度は別の小川沿いを下って行く。 こちらにも団地が広がっておりさらに緑が多く気持ちがいい。 Kさんとはしかし高校時代に面識があったわけではない。 10数年前に他の同級生の誘いで後援会に加わって下さったのだ。 その頃から後援会報のエッセイなども時々感想を頂くようになった。 それにはいつも「元気をもらいました」とか言って頂いたけど、おそらく僕の方が何倍も元気と、希望を頂いていたよう思う。 彼女は新幹線「新岩国駅」から車で数分、小さな峠を越えたところにあるご主人の実家近くにご家族と住んでいた。 そんな新幹線駅の近くに僕が大好きな桃源郷のような地域があった。 そこには蝋梅、紅梅、桜がどれもひっそり、しかしとても美しく咲いていた。 ところが僕はそれ以上彼女のことは知らなかった。 もっと楽しめるコンサートを企画してあげたい、いつかウィーンツアーにも誘ってあげたいなどと思っているうちに、先月ひっそりと岩国医療センターで逝ってしまわれた。 お葬式もご家族でそっと行われたとのことだった。 昨年8月の高校同窓会でもお会いしてない。 病院におられたのだ。 Kさんが彼方で美しい季節を、音楽を楽しまれるよう今朝も散歩コースの最後にある神社でお祈りをした。 蝋梅のごとく 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第77号より 玄関の蝋梅 ろうばい が美しく香る。 毎週月曜日家事に来て下さるYさんが年末に生けて下さった。 1週間もすると小さな蕾 つぼみ が見事に開き、センリョウの赤い実と共に新年を祝福してくれるように玄関を芳香な香りで満たしてくれた。 それからさらに2週間、今日もしっかり玄関を豊かにしてくれている。 蝋梅 ろうばい この頃になるとやはりあちこちに蝋梅の開花が見られるようになり、「こんな寒いときに真っ先に咲くなんてすごいなあ」と感心しつつ、散歩中もクンクン鼻を近づけている。 向かいの家の蕾も最近開花した。 こちらに蝋梅があると気がついたのは数年前だ。 よくよく考えてみると昔から黄色い生気のない葉っぱは目に入っていたのだが、あまりにも地味な様相に全く関心がなかった。 いつの頃からか庭先に出る度 たび にかすかな甘い匂いを感じるようになり、ようやく「あ、これが蝋梅というものか」と気が付いた。 ここに住んで30年〜何だか申し訳ない気がした。 あちこちに蝋梅の開花を確認した頃、今日は廃屋がある庭に紅梅を見つけた。 「エッ?今朝は特に寒いのにもう咲いているのか?」と近づいてみると、ミイラのようぶら下がった実に隠れるようにひっそりとピンクの花が咲いていた。 「栄養を取られたの?」それでもよく見ると枝中に小さな花を咲かせている。 今になって思えば、昔は梅花どころか派手に咲く花々でさえあまり感じる余裕はなかったように思う。 どんなに寒くても雪が降っても毎年必ず咲き続ける梅花!蝋梅の花言葉は「ゆかしさ」「いつくしみ」と言うらしい。 世間が騒がしくても、街中が雑多でも、周りが自分と違っていても...彼らの生き様を励みに今年もさらっと確実に音楽をしたい 機内の過ごし方 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2018年1月号より いつもどおり6時半に起床。 食事、荷物のチェックをして8時半には車で出発した。 15分後、岩国空港で20キロのトランクと共にチェックインして身軽になる。 トランクはウィーンで受け取りだ。 11時、羽田空港に到着。 ここではパスポートと共に再度国際便にチェックインする。 ミュンヒェン行きに乗り、座席に落ち着き、スマホの電源を切る。 しばらくすると飲み物に続いて食事が出された。 ようやくホッとする〜もう電話も鳴らないメールも届かない、12時間完全に自由だ! いつも通り赤ワインを頂き、昼食を摂り、コーヒーを頂きさらにホッとして、歯を磨いて少し寝る。 周りの乗客はそれぞれ映画など観始めた。 最近の飛行機では最新作などダイレクトで見ることが出来てとても便利だ。 さて僕は・・・そろそろ勉強開始だ。 バザルジク州立交響楽団 フィルハーモニーホール、ブルガリア 3日後に演奏する曲の譜読みを始める。 今回は2ヶ月間たっぷり勉強したしたはずだけど、今回も最後は機中での追い込みになった。 もう20年もの間、色々忙しくしていても心のどこかで「大丈夫、最後は飛行機の中で何とかなる!」と思ってしまう。 「最後の機中で最後の勉強に集中!」と言う習慣が身についてしまったのだ。 昔短大に勤めていた頃、あちこち国内に出張をしていてそのまま飛行機に乗り込み、夜中の日付が変わってヨーロッパのホテルに着き、そのまま朝からオーケストラの練習を開始していた。 もちろん時差ぼけ状態だったけど、当時はこれ以上日程を割くことは出来なかった。 この頃、「最後の追い込みは飛行機の中で死に物狂いで勉強」が身についてしまった。 「本当に明日までに覚えられるのか?明日本当に俺は振るのか?」と言う背中に張り付いた恐怖心とワンセットだった。 それに比べると近年はもう少し落ち着いて勉強できるようになったけど、やはり最後は機中で楽譜を覚えると言うスタンスになってしまった。 でも楽しみはある。 最初の1杯のワイン!そして勉強して落ち着いた頃心地よい疲れと共に眠ること。 それにも飽きた頃ちょっと見る映画。 それから先日はお隣の乗客に「え?ミュンヒェンまで一人旅なの?ヨーロッパは初めて?すごいねえ!大丈夫、英語は通じるよ!今、クリスマス市が美しいから楽しんでね」なんて話しかけ、彼女の人生をふと見せてもらうこと。 あっという間に12時間経った。 さらに乗り継いで1時間でウィーン空港に降り立った。 無事美しいコンサートを終え帰りの機中では、やはりワインを一杯頂く。 次に・・・映画だ!最新作のヒューマンドラマを観る。 日頃映画館に行くこともないしDVDを借りることもない僕にとって、機中で観る映画はどれもこれも新鮮だ。 観る、泣く、食べる、寝る、再び観る。 こうして3本立て続けにヒューマンドラマを観てずっとぼろぼろ涙を流していた。 真っ暗だけどさすがに回りに気づかれたくないなあと思っていた頃、隣のご婦人から「仕事ですか?」と聞かれた。 「ええ、まあ」「お隣のお嬢さんは中学生ですか?学校を休ませて始めてのヨーロッパ?いいですね。 いつか必ず彼女の自信に繋つながりますよ」とか言ってると羽田空港に到着した。 さあ!今年もいい音楽を頑張るぞ! ウィーンの女学生 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第76号より 休憩時、エキストラでホルンを吹いていた女の子が練習の順番を変えてくれと言ってきた。 「この後私の出番はオペラアリアの2曲だけです。 私の吹く曲を先にやってもらえませんか?」へえ〜よくこんなことを俺に言ってくるなあと思いながら、「わかったコンミスと相談してみよう」と答えた。 ユナイテッドオイロッパウィーン バロックザール、ウィーン コンミスは、「じゃ後半の練習のはじめに皆に聞いてみよう」という。 「え?そんな簡単に順番をかえるの?」と思っていたら、「この子の出番が後2曲みたい。 先にやっていい?」「おー!いいよいいよ先にやってやれ!俺たちは時間があるから」とか皆ワイワイ言い始めた。 ホンマかい?このオケのメンバーは皆ウィーンフィルやウィーンシンフォニカーなどの錚々 そうそう たる連中だ・・・その気さくさと、それゆえにスーと物事が動いて行く様を目の当たりにして本当にびっくりした。 本番の日、そのホルンの子と話してみたいと思った。 「君は何年生?どこで勉強したの?」「私は ウィーン国立 音大の3年生です。 オーバーエーステルライヒ ウィーンの北 の町で育ち、高校生になって近くの音楽学校でホルンを習い始めました。 」「卒業したらどうするの?」「ウィーンのオーケストラに入ります。 」 ゆっくり話してみると本当に素直な普通の若い女の子だった。 思ったから素直に言う彼女、それを素直に受け止めるオケのメンバー、それは正 まさ にウィーンのオーケストラが持っている「自然な美しさに溢れた素直な音楽の流れ」そのものだと思った。 同 級 会 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2017年10月号より 高校の同級会があった。 優秀な幹事が数年毎に開催してくれもう20年になる。 実は最初の頃はとても億劫だった。 高校時代には男子生徒の半分以上知らなかったし、女子生徒に至っては同じクラブの子以外話をしたこともなかった。 そんな同期会に行って懐かしそうに話すのも面倒だなと思っていたのだけど、2度、3度と出席しているうちにだんだん色々な楽しみがあることがわかってきた。 500名の卒業生のうち60余名が参加した今回は、以前のような生き生きした様相から少し安堵したような穏やかな雰囲気に変わっていた。 前期高齢者 65歳 に達する年と言うこともあり、すでに退職あるいは引退して数年間過ごしてきた人、正に一線から退こうとしている人、現役そのままの人、本当に様々で、様々な顔をしていた。 浜離宮朝日ホールでのコンサートにご来場いただいた関西学院大学首都圏同窓会40年卒の皆様と共に くじ引きで着いたテーブルでは隣の女性と話すのは初めてだった。 確かに同級生だったはずだが旧姓を聞いても分かるはずもなく、しかし初対面?の女性との会話はとても楽しかった。 もしこれが高校時代だったら楽しいどころか話す機会すらなかったはずだ。 20年前の同期会では始めて会う男に「よう!元気か?」と言われびっくりしたことがある。 顔はもちろん名前を聞いてもわからず適当に話しているうちに、以前僕が通っていた薬局の親父だということがわかった。 その頃はいくらか年上のまじめなおっさんだなあくらいにしか思っていなかったのだが、同級生だったと知り本当にびっくりした。 しかもうちの娘と彼の娘も同じ小学校にいて同級生だと言われさらにびっくりした。 今ではこうやって普通の顔をして普通に同級会に出て顔も知らなかった同級生との交流を楽しんでいるのだけど、実は僕は本来この高校に行きたかったわけではなかった。 特に1年生の秋に音大に行こうと決めてからは、ずっと「しまった!もっと吹奏楽がうまい他の高校か音楽高校に行くべきだった」「毎週毎週模試なんかやっとられんなあ」とか思っていた。 音楽を深め求め続けるためには、音楽以外のことをしっかりやっておくことがとても大切だとわかってきたのはずっと後だった。 さて、二次会では1年次にクラスメイトだった森澤 旧姓樋口 君が話しかけてきた。 彼と話すのは48年振りだった。 森澤君は大学卒業後ずっと銀行に勤め最近定年退職したところだった。 在職中は仕事の関係で広島交響楽団のコンサートに時々行くようになり、ふと僕のことが気になっていたという。 「うちの高校から音楽家になるなんてとても大変だったんじゃないか?」初めてそう思ったそうだ。 そして「貴方は本気の目をしていますよ」と言ってくれた。 彼はこの秋から通訳ガイドをやるために勉強を始めたそうだ。 きっと彼のこれからの人生も本気なのだ。 何か同級生に助けてもらった気がした。 パリの散歩 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2017年7月号より 今回パリを旅するまでフランスには興味がなかった。 さらに好きではなかった。 それは、 1. 昔パリの地下鉄で切符を買おうとしたら無視された。 英語で話しかけたからか途中からプイと横を向かれ、次の客に愛想よく応対していた。 そんなことが何度かあり何と狭量な民族かと思ってしまった。 フランスの映画は最後までたどり着いても、もやもやっと終わってしまうことが多い。 同様にフランス音楽は結論があいまいだ。 ベートーヴェンのように「わかったか!これでもか!」とまで言わなくてもいいけど、愛人のことを問い詰められ「それが何か?」とはぐらかしたフランスの大統領みたいにあいまいな音楽が僕には向いてないと思っていた。 街中は雑然としていて、地下鉄も暗くてきれいとはいえず、お金を払って入るトイレも便座がないなど概して清潔感が感じられない。 観光客でにぎわう「ムーラン・ルージュ」 というわけで、世間が言うファッションや芸術の街パリと僕が体験したパリのギャップが大きすぎた。 それに特にフランス語を勉強したこともなかった。 たまにフランスオペラのアリアを振る機会があっても、その部分だけフランス語をつけ刃やいばのごとく勉強して振っていた。 しかしやはりどこか自分にうそをついてるような気もしていた。 僕がフランス語ができないことは実際には歌手にはばればれだっただろう。 しかも最近フランスの音楽を振ることが増えてきた。 「よし、一度バシッとフランスに浸りに行こう!」とモチベーションが上がってきたところで、何とパリはテロが増え極右のルパン氏が台頭するなど益々物騒になっていた。 今回のパリ滞在で何よりも驚いたのは、十数年前に比べと黒人がすごく増えていることだった。 もともとアフリカを植民地にしていたのだからそこから移民してくる人がいるのは当然だろうけど、さらにシリアをはじめとする中東の移民、難民も地下鉄や街のなかで大勢見た。 ここは本当にフランス?大統領選では負けたけど極右のルパン氏の気持ちがわかるような気がした。 それに中国からの観光客がどっと増えており、パリ一のデパート「ラ・ファイエット」は中国の人たちの団体で溢れかえっていた。 しかし十数年前まで僕もここラ・ファイエットに学生を引率していたのだ。 当時のパリは日本人観光客でいっぱいだった。 それが今はごっそり中国の人たちに入れ替わっていた。 そこには若い人はもちろん、お父さんお母さん、さらにおじいさんおばあさん世代の人たちが大勢いた。 彼らの服装は割合質素に感じたけど、皆幸せそうな柔らかい顔をしていた。 この人たちは先の大戦に加え、文化大革命の時代を生き抜き、これまでの人生でもっとも自由な時代にたどり着いたのだろう。 そして今観光客としてここパリにいる。 僕自身父をウィーンに連れて行くことができなかったためか、彼らの顔を見ていると「人生頑張ってきて本当に良かったねえ」と言う気持ちになっていた。 今フランスは、ホテルのスタッフも郵便局員も家政婦も様々な人種で溢れかえっている。 いまさら下手に後戻りはできないだろうし、後戻りしてしまうと二百年以上昔のフランス革命は何だったのかと言うことになるだろう。 混沌としながらもすべてを鷹揚に飲み込んでいるパリに浸っていると、マクロン氏を大統領にしたフランスをもう少し知りたいと思うようになっていた。 しばらく通ってみよう。 それが僕のフランス音楽を深めてくれるような気がする。 初 共 演 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2017年4月号より 「先生、僕はいつか娘と一緒にラッパを吹くのが夢なんです。 」今年のお正月に久しぶりに顔を出した田中君がボソッと言った。 彼は長い間警察音楽隊でホルンを吹いていた。 娘さんは昨年音楽大学に入ってトランペットを専攻しているそうだ。 彼はそれがとても嬉しくて色々話もしたいのだけど、最近はほとんど口を利いてもらえないのだという。 「音大に入った時、必要だと思って高いラッパを買ってやったんです。 台所のテーブルにそっと置いてたら、いつの間にかスッと無くなってて。 大事に使ってくれてるようなんですが…」と寂しそうに言う。 「大丈夫だ!気持ちは伝わってる。 本当は娘さんの方こそ一緒にやりたいと思ってるよ」。 娘奈々と初共演 彼と同級生だった岩本君は、最近それを実現して人生がとても楽しそうだ。 昨年の吹奏楽コンクール(一般の部)で、若い人たちに混じってラッパを吹いている岩本君を発見した僕は「まじか?」とびっくりした。 坊主頭の彼の姿は20代中心の奏者の中で異様に目立った。 隣で吹いているのは彼の娘さんだ。 3ヵ月後アマチュアオーケストラのコンサートに行くと、再び娘さんと一緒にラッパを吹いている岩本君の姿があった。 「よく頑張るなあ、いくつになったの?」「55歳です。 」嬉しそうに言った。 彼の娘さんも今、音楽大学でトランペットを吹いている。 数年前、岩本君と飲んだ時、「娘が中学でラッパを吹いているんです。 高校に受かったら新しい楽器を買ってやると約束しました。 いつか娘と一緒に吹きたいんです!」と嬉しそうに語った。 彼は若い頃吹奏楽オタクだった。 なりふり構わず30年ぶりにラッパを持ち出してきて娘と一緒に吹く姿には、ただただ「すごいなあ、よかったなあ」と言う気持ちで一杯になった。 そして僕は…昔車で家族旅行をしたとき、ウイーンオペレッタのCDを流したことがあった。 「パパは本当はこんな音楽をやりたいんだ。 でも日本でオペラをやるのは大変すぎて。 次の人生ではヨーロッパでオペラをやりたいなあ」と言うと娘が、「私はあきらめてないよ。 今から頑張るからパパいつか一緒にやろうね」と言った。 その頃彼女は未だ歌の勉強を始めていなかった。 でもとても嬉しかった。 それから10年以上経て、先日初めて娘と共演した。 なぜかとても緊張した。 僕のコンサートの時、いつも幸せそうな顔をして会場の隅にそっと座っていた父の気持ちが溢れるように感じられた。 日本の宝!「文部省唱歌 しようか 」 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2016年10月号より 「『たき火』とか『赤とんぼ』とかいいですよねえ。 わたしゃ最近の歌は良く分からんのですが昔の童謡なんかすごいなあと思って。 」 初めて行ったおすし屋さんのご主人はカラオケが趣味だという。 歌うのは昔の歌ばかりだそうだ。 「お客さんがやっておられるクラシックなんかもっと古いじゃないですか。 何であんな昔のものが今でも演奏されるんですかねえ。 」 僕がオーケストラを辞めて 4年間いました 小学校の教員になった時、2年生から6年生までの音楽の授業を受け持った。 毎日のように文部省唱歌をピアノで弾きながら、「教科書って何でこんな古い歌ばかりなんだろう?」と思っていた。 つい昨日まではさらに古いベートーヴェンやブラームスなどを毎日難しい顔をして演奏していたのに。 教員初日であるはずの4月1日は着任式にも出ず、福岡でチャイコフスキーの交響曲を演奏していた。 あまりのギャップの大きさにすべてが戸惑いっぱなしだった。 2016バッハ・モーツァルトシリーズvol. 6 本番前日のオケ合せ 2年生の授業では「先生、わたし音楽がだ〜い好き!」と言って子供たちが入ってくる。 「ごめん、俺じゃ無理!大体こんな短い曲をどうやって1時間持たせたらいいんだ?」と思いながら何とか授業をこなしていた。 5年生の「荒城の月」では歌詞の意味がさっぱり分からなかった。 「あのね、春高楼 はるこうろう はね」とか言って国語が専門の先生に優しく教えて頂き、どうにか授業をしていたけど、心の中では「10歳の子供にこんな古い歌が解かるはずないだろう!」と思っていた。 ところがそうして10年もの間小学校の教員を続けているうちに、古臭いと思っていた「うみ」も「茶つみ」も「ふじ山」もみんな名曲ではないかと思うようになっていた。 そのうち短大の教員養成課程でやはり小学校の音楽教材を教えることになった。 ある時小学生の頃からピアノを習っていたという学生が「ぞうさんを」をバシャバシャ弾いた。 「なんちゅう弾き方をするんだ!そんなピアノで子供たちに歌わせるのか!」と思わず叱ってしまった。 続いて音楽講義の授業に行くと、先ほどの学生が「ぷうっ」と本当にふぐのように膨れて座っていた。 その姿があまりにも可笑しくて「プッ」と笑ったら、彼女もホッとしたような顔で笑い始めた。 翌週のピアノの試験で彼女はそこそこ良い点を取っていた。 「先生の学生は音楽が素敵ですね。 」同僚の先生からボソッと言われた。 ピアノが弾ける学生にとって、たかが「ぞうさん」と思ったかもしれない。 しかし唱歌も童謡も、情熱を持った多くの日本人が西洋文化を吸収し、日本の文化、芸術に昇華させグングン深くなっていった結果だ。 特に明治から昭和初期にかけての文部省唱歌の何と美しいことか。 「もみじ」も「冬景色」も「おぼろ月夜」もすべての詩が、曲が心に染みこんで来る。 あのようにシンプルでそして深い歌をいつまでも小学校で歌い続けて欲しい。 「昔と言うことが変わってきましたね〜」最近よく言われるようになった。 EU=ヨーロッパユニオン=欧州連合 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2016年7月号より ほんまかい? 英国のEU離脱にはびっくりした。 他のヨーロッパの国々と違って通貨も頑なにポンドのままだし、日頃から「俺たちはヨーロッパとは 格が 違う」とか言って微妙な位置づけだったけど、本当に離れてしまうとは。 これからは6月23日が独立記念日だと言ってはしゃぎたてるイギリスの政治家たちの顔が、本当に狭量で節操のないものに見えた。 かっての大英帝国のプライド? それは世界中を植民地にして、徹底的に奪略と殺戮 さつりく をした結果ではないか。 それを格上と言うなら、同じ植民地支配でも、教育、病院、鉄道、郵便、交番などやはり徹底的に社会整備したあげく完全な歳出オーバーに終わった日本の方がさらに格が上ということになってしまう。 押し寄せる難民になぜ俺たちが食わせなきゃいけない? かって自分たちが犯したことを考えると至極当然の義務だろう。 二度の対戦で本当にめちゃくちゃになったヨーロッパで、あれだけ個性的で気質も違い言語も違う国々が、通貨を一つにしてまで争いのない平和な社会を築こうとしているのだ。 一民族国家では考えられない問題があとからあとから山ほど出てくる。 大変なのは当然だが、後戻りしてはいけないというのも当然だろう。 それを、えーい!せからしか 博多弁がピッタリ !ちゃぶ台ひっくり返して気分いいだろうけど・・・いいんかいそれで? チェコ&スロヴァキアに通い始めた頃いつの間にか二つの国に分かれてしまっていた。 これまでも離れたりくっついたりしてたけど、本来一つの民族だ。 どうしてこんなことになったの?と聞いても、皆「解らん?俺たちは別れたくなかったんだけど」と言うだけだった。 '90年にハンガリーで出会ったユーゴスラビアから来たと言う高校生グループは、「俺たちの国は危ないんだ」と心配そうに言っていた。 本当にその後直ぐ内戦になり彼らの国は分解してしまった。 その頃のウィーンは東欧からの亡命者で溢れていた。 しかし活気があり西側が一番輝いていた時でもあった。 逆に隣の東側は限界だった。 それはチェコやスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアに行った時、国境を越えると直ぐに確信できた。 それから四半世紀経った今、僕が持っている通貨、オーストリアシリング、ドイツマルク、チェコ&スロヴァキアコロナ、フランスフラン、イタリアリラはすべてユーロになってしまい、皆使えなくなってしまった。 もちろんイギリスポンドも持っている。 こちらは何だか永遠に使えそうな・・・いいのかなあ、それで? 春のわくわく ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2016年4月号より 入試や、転勤、移動などが落ち着き始めると街中にホッとした空気が漂い始める。 この頃ころ朝の散歩コースには紅梅や桃の花が咲き誇り、淡い光が気持ち良い。 今春音大を卒業したばかりの長女が小さな画廊でソプラノリサイタルを行った。 娘の小さい頃を良く知っている方たちも多く参加して下さり、暖かな春の素敵な一ひと時になった。 最後に花束を渡してくれた女性もやはり娘の知り合いらしかった。 司会をしていた三上さん JCPスタッフです が終了後その女性を紹介して下さった。 「娘のふうちゃんです。 」「え?あの子供だった?6年前のウィーンツアーで白いご飯が食べたいってずっと言ってた・・・確か小学6年生だったよね。 」すっかり素敵なレディに成長したふうちゃんは、今春高校を卒業して大学生になる。 1週間後のちには高2の息子のフェンシングの試合があった。 2日間岩国で行われた全国高校総合選抜大会では、卒業したばかりの生徒も手伝いに来ていた。 皆、就職や進学それぞれ進路も決まり、後輩たちのために一生懸命手伝ってくれた。 そんな彼らを見ているとやはり自分の18歳の頃を思った。 高校を卒業した春休みには初めてのバイトをし、友人たちとたむろし、12時間かけて東京の大学に向かった。 寝台特急「あさかぜ」の朝を知らせるチャイムは今でもはっきり覚えている。 3段のベッドから朝日を浴びた雄大な富士山を眼前に見た時、これからの自分をいっぱい祝福してもらったように思った。 試合を手伝ってくれた卒業生も先ほどのふうちゃんも高校を卒業したばかりで皆ホッとしているようであり、次の未来への希望に輝いているようだった。 そして、それらに触れ合えたこの春、僕は本当に幸せなのだと思った。 しかし同じ頃、高校を卒業する娘さんを祝福してやることが出来なかったお母さんを見た。 自ら命を絶った娘さんを思う気持ち・・・僕のこれまでの人生では想像もしてあげられない。 お母さんのこれからの人生がいつか娘さんの同級生たちを祝福して上げられるようになることを願うだけだった。 岩国の美しい地区祖生そおで育ち高校をフェンシング部で頑張った翼つばさ君は、今春地元の酒造会社に就職した。 2日間の大会中、初めてもらう給料のこと、一緒に入社した10人の仲間のことなど将来の希望を語ってくれた。 有名なその会社のお酒はこれまでめったに飲むことがなかったけど、これからは折に触れて味わうことにしよう。 そしていつか翼君が作るお酒を楽しみにしたい。 もちろん僕の同級生の実家が作るお酒も大事にしたい。 この春、楽しみが増えた。 無事新年を迎えることができましたね! ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2016年1月号より 今回はなぜかロシアに行くのが億劫 おっくう だった。 3年前ペテルブルグのオーケストラの素晴らしい音にびっくりして以来、モスクワの音も浴びてみたい、ロシアの音をもっと知りたいと思うようになっていたのだけど、モスクワの街を良いイメージで想像出来なかった。 ソ連時代の威圧するような建物、煤(すす)けて薄暗い街、物価は高く人々は無愛想でスリも多くとにかくすべてに気を付けなくてはいけない・・・仕入れた情報はろくなものではなかった。 更に未だに ロシア入国のための ビザの手続きが煩雑で、その上最近ロシアを取り巻く国際情勢も怪しくなってから益々気が乗らなくなっていた。 まあ今回で最後だからと恐る恐る市内散策を始めると、街を行く人たちは普通に落ち着いており、地下鉄でもこわもてのおじさんが自然に席を譲っていた。 一緒に行ったピアニストは、「これモスクワじゃない。 前はもっと暗くて、警察もいっぱいいてとても危ない感じでした」と言う。 彼女は10年前モスクワで勉強していた。 確かにそうなのかもしれない。 ロシアの小学生 今のモスクワこそ人々が望んでいた街であり、長いロシアの歴史の中で最も幸せな時代なのだろう。 そしてやはりブカレスト(ルーマニア)、ワルシャワ(ポーランド)、ソフィア(ブルガリア)に良く似た東欧の香りがする街だった。 僕にはとっては懐かしく、人々にはノルウェーやフィンランドなどの福祉国家と共通するゆとりが感じられた。 ところがオーケストラはごく普通の音だった。 若い人が多いオーケストラからは明るく美しい、しかし歴史を感じさせるわけではない深みのない音がした。 いつの間にか僕はソヴィエト時代の何かすごい音を求めていたのだ。 ソ連が崩壊してもう四半世紀 25年 になる。 つまり彼らの音は今のモスクワの街の音だった。 しかしそれでもオーケストラから得るものは一杯あった。 ハチャトウリアンのヴァイオリン協奏曲の練習では、「これは君たちの音楽だ。 いつもどう演奏してる?」と聞くと、コンサートマスターが「私は40年ラジオ 旧ソヴィエト放送交響楽団 で弾いてきたけど、この曲は1度もやったことがない。 だからあなたが来る前に自分たちで2回練習した」と答えた。 ハチャトウリアンはソ連時代は3巨匠の1人と言われ数々の賞を獲得した人民作曲家だ。 「剣 つるぎ の舞」など日本の小学校の教材でも出てくる程有名だ。 ロシアでは当然しょっちゅう演奏されているはずだと思っていた僕は本当にびっくりした。 でもよく考えると案外そんなものかもしれない。 国外に出るオーケストラは当然自国の曲を演奏するだろうが、自国民にはモーツァルト、ベートーヴェンに始まり多くの偉大な曲を演奏、紹介するのだろう。 やはり面白い!来てみないと分からない。 益々僕たちが知らない町の知らないオーケストラを振って見たいと思うようになっていた。 ロシアは今回で終わりだと思っていたけど、今度はシベリアや、コーカサスあたりのオーケストラを振ってみたい。 きっとCDやメディアでは聴いたこともないような、そこの町の音がするに違いない。 もうちょっとだけロシアを〜新年の挨拶と一緒にマネージャにお願いしておいた。 敬老の日 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2015年10月号より 本番当日、GP リハーサル で棒を振ろうとすると客席から叫ぶような声が聞こえてきた。 『何?』と振り返ると再び大きな声がした。 すると目の前のチェロ奏者が、『大丈夫!』という仕草で「Sさんのお母様です」と言った。 今回共演したピアニストSさんのお母様は御年99歳だ。 やはりピアニストのKさんが朝の飛行機で岩国からお連れした。 ご本人の希望で東京まで聴きに行くことになったのだけど、空港では「私はどこに連れて行かれるの?」とおっしゃってたらしい。 本番ではお母様は客席でじっとして聴かれ、Sさん、Kさんと一緒にホテルに泊まり再び飛行機で帰られた。 ホテルのエレベーター前で客室係の方に、「この方は99歳なんですよ。 昨日飛行機でコンサートに来られたんです」と僕が言うと、彼女は心から感動した様子で「気をつけてお帰りくださいね」と何度も慈しむように声を掛けられた。 KさんとSさんのお母様 皆、自分の両親や身内、更に自分の(近い)将来の姿に重ね合わせるのだろう。 本番翌日、羽田空港の男性トイレの入り口で1人の女性が「そこを左、それから右へ」とか言っていると、後から来た男性が「私がお連れしましょう」と言って白杖を持った高齢の男性を誘導して入って行った。 『よかったな』と思いながら用を済ませた時、トイレは白杖を持った男性と僕の2人だけになっていた。 「手を洗いますか?」「お願いしていいですか?」「はい、では後ろを向いて、そのまま真っ直ぐ」と僕は彼を洗面台に誘導して行った。 次に乾燥機を探す仕草をされたので、「そこを左に、そうそう〜」と言って手を乾かして頂きトイレの外までお連れした。 そこには先ほどの奥様かお嬢様らしい女性が、「私では入れませんから助かりました」と言って待っておられた。 こちらもホッとすると、いつの間にか僕の後ろにいた若い男性がニコッと微笑んでトイレから出て行った。 僕はなぜか『お役に立つことをさせて頂きありがとうございました』と幸せな気持ちになっていた。 これまでも『いい事をしたかな』くらいは思ったことがあるけど、『お手伝いさせていただけるってありがたい事なんだな』と初めて気がついた。 2日後Sさんに「コンサートもうまく行き、親孝行も出来て良かったね。 お母さん疲れてない?」と聞くと、「今朝ディサービスに行く時、またどこに連れて行かれるんだろうという顔をしてたけど元気に帰ってきた」と言っていた。 僕の父が最後にコンサートに来てくれたのは、亡くなる2年前だった。 その前年、いつも来てくれるはずの父が『会場にたどり着く自信がない』と言って顔を見せなかったのだ。 父の大好きなオペラだった。 そのため次のオペラ公演は僕の友人に付き添ってもらった。 あの時はまさか最後の来聴になるとは思わなかった。 Sさんも近年は、(母が来てくれるのも)最後かもと言いながら、いつも誰かに付き添いをお願いしていた。 今回はKさんが、リュックを背負い車椅子を押し、飛行機に乗って丸2日間の付き添いを引き受けた。 彼女が一生懸命お世話する姿を見ていると、なぜか『ありがたいことだ』と拝みたくなった。 Kさん本当にお疲れ様でした! 貴ちゃん、スロヴァキアの永住ビザ取得おめでとう! ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2015年7月号より 「オットーが貴子 たかこ に振られたらしい!」突然シュテファンが話題を変えた。 「食事に誘ったけど断られたらしい」。 「え?そんなことあったの?」隣にいた貴ちゃんに聞くと、「???そう言えば練習のとき何か言って来たけど、意味が分からなくてNO! と言ったような気がします。 」2006年10月、スロヴァキアのミルバッハ宮殿でコンサートを終えた後、マネージャのシュテファン家でワイワイやっている時だった。 「何だ、貴子は断ったわけじゃなかったのか。 オットーはとってもいい奴だ。 でも1人で寂しいから酒が友達になるんだ。 この際2人を何とかしよう!」シュテファンと話し合い、オットーと貴ちゃんにメールアドレスを交換してもらうことにした。 コントラバスのオットーはオーケストラで演奏しながら、一生懸命ピアノを弾いている貴ちゃんを気に入ってたらしい。 マネージャのシュテファン一家 それから9年後の先日、やはりミルバッハ宮殿でコンサートを終え、オットーは左手にコントラバスを抱え右手で息子の直人の手を握り、傍らで貴ちゃんは長女のさおりを乗せた乳母車を押しブラチスラヴァの街を歩いている。 美しい宮殿で優しい聴衆と共にコンサートを終え、雅な街をゆっくり家路に着く音楽家の家族を見送っていると、「あのシュテファンの一言がこんな温かい素敵な情景になったのか」と感慨深く感じられた。 人生は本当に想像がつかない。 僕がスロヴァキアで初めて振ったのは17年前の1998年だった。 初日の練習終了後、「マエストロ、家に食事に来ませんか」と言って声を掛けてくれたのがシュテファンだった。 彼は室内歌劇場のオーケストラで2ndヴァイオリンを弾いていた。 その時息子のシュテファンジュニアは3歳で、娘のユリアは生まれていなかった。 今、東京で1人暮らしをしていた貴ちゃんはスロヴァキアで4人家族になり、シュテファンの息子は音大でビオラを弾き、娘ユリアはコンセルバトールでヴァイオリンを弾き、彼らは今回のコンサートで初めて皆と一緒にオーケストラで弾いた。 そして僕自身はスロヴァキアで色々なオーケストラを振り、色々な人生に拘ってきた。 一緒に演奏したコンサートマスターが急逝し、嬉しそうに指輪を見せてくれたヴァイオリンのダニカは結婚後2年もしないうちに夫を亡くしたり、高校生だったボフスラフの息子がいつのまにか父親と同じ国立歌劇場のホルン奏者になり、結婚し、子供を作っていたり、悲しいことも嬉しいこともいっぱいあった。 スロヴァキアの人たちはすべてに優しく根気強い。 オットーも本当に優しい。 先日の貴ちゃんのメールでは「前回来られた時はさゆりがまだ今の直人よりちょっと大きいくらいだったかなぁ。 あの頃から比べると、こどもたちも大きくなり、すくすく成長してくれています。 オットーも、まず家族を大事にしてくれるし、私の日本の家族もとっても大事にしてくれるし、良い父、良い夫でいてくれ、穏やかに暮らせてることが本当に幸せです。 」 彼女は、すっかりスロヴァキアの美しい街に暮らす美しい家族を創っていた。 これから先のスロヴァキアとの拘りもやはり想像がつかないけど、10年後も20年後もいつまでも美しく心地よい音楽を求めているのだろう。 ますます春 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2015年4月号より 「昨年ルーマニアの国際指揮者コンクールにて特別賞を得ました。 」・・・え?ほんと?御年70歳じゃなかった?I アイ さんからの年賀状にびっくりして早速お祝いの電話をした。 「いやあ、年齢制限ないって言うから受けに行ったんだ。 そしたら審査委員長に呼ばれて、確かに制限は設けてないけどこれからの人たちのためのコンクールだからあなたの出場は困るって言われたよ。 それでもうだめなのかと思ってたら、1〜3位の発表の後突然特別賞に呼ばれたんだ。 若い人たちが皆祝福してくれてねえ。 」すごいなあ。 だって外国のコンクールには時々年齢制限のないものもあるけど、通常参加するのは30代までだろう。 ベートーヴェンの生まれた町ボンの マルクト広場のベートーヴェン像 5年前の電話でIさんは、「石井君頑張ってね。 僕はもう十分幸せだからこのまま 大学教授 でいいや」とおっしゃってた。 ところが4年前に初めて海外を旅行され、「ウィーンは良かった。 石井君が行けといってた意味がようやくわかったよ」。 3年前には「ロシアのオーケストラを振って来た。 すごいオケだったよ」。 2年前には「ブルガリアのオケを振ってきた。 もう少しで定年だけど大学はもう辞めようと思う。 最後はやっぱり指揮者として死にたいと思って」とおっしゃっていた。 そして昨年はコンクールだ!本当にびっくりした。 昨秋には僕のコンサートにホルン奏者として参加して頂いたWさんにも感動した。 定年まで東京フィルの首席ホルン奏者として活躍された方で67歳。 僕が学生時代、同じオーケストラに入団した先輩がいつも、Wさんうまいよなあと呟いていた。 今回の練習では誰よりも早く来てウオーミングアップをされ、翌日の本番終了まで黙々と吹いてスッと帰られた。 本当にホルン一筋、職人の仕事だった。 IさんもWさんも引退してもおかしくない年齢だ。 きっと死ぬまで音楽家として活動を続けられるのだろう。 カッコいい人生だと思った。 そして先日は若い人にワクワクした。 岩国から乗った飛行機にスーツ姿の集団が乗り込んできた。 もう新入社員の研修?何十人も採用する企業が近くにあったっけ?と思っていたら、東京の企業説明会に参加するための大学3年生のツアーだった。 これからの仕事、人生に興味津々の彼らを見ていると、いつの間にか差し込む朝の光が春になっていた。 それから3時間後、僕は次女の卒業式に出席していた。 彼女の卒業に際しての手紙の最後は「〜春からは石井家には珍しくそこそこ安定した仕事に付きます。 大金持ちになるべく頑張るので、いずれウィーンフィルを本場で聴きに行ったりとかしましょう」で締めくくられていた。 彼女は今日から社会人だ。 散歩しながら先日まで浴びていた梅の花も今浴びている桜も、老木がはちきれるように花を咲かせ、たよりなさそうに見える若木は恥ずかしそうに初々しい花を咲かせていた。 IさんやWさんのように求め続ける先輩たち、空港で会った大学生や次女など希望に溢れる後輩たち、それぞれにふさわしい春の花を感じた。 ロシア女性エレナはウィーンに住む"さんま" ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2015年1月号より ウィーンのマネージャーはロシア人の女性エレナ。 彼女は優秀なヴァイオリニストでもある。 ウィーンの南の町のオペラ劇場でコンサートミストレス(指揮者の左でヴァイオリンを弾いているオーケストラのリーダー)をしていた。 劇場が閉鎖されると、彼女がマネージメントを始めオーケストラは自主公演を始めた(僕が時々振らせてもらっている)。 彼女は忙しい。 いつもヴァイオリンを弾きながら、ロシア、スペインなどのツアーや、ロシアからのツアーを受け入れたりあらゆるマネージメントをこなしている。 僕とのメールも、「ごめん今ロシアだから、今ポーランドだからウィーンに帰ってゆっくりメールする〜」で終わったりする。 そして彼女はいつもしゃべっている。 僕が興味のなさそうな顔をしていると、「ん?ドイツ語わかりにくい?じゃ英語にしょうか?」「どっちにしても早すぎて分からん! 」「アハハ、あんたにはゆっくりしゃべっているつもりだけど」と言って再び普通の人間の倍速でしゃべり始める。 エレナと打合せ とても正直で、散らかり放題の部屋みたいな仕事もいつの間にか片付け、毎晩のようにコンサートでヴァイオリンを弾いている。 しょっちゅう楽しそうなプランを口にし、「それいいな!」と一言でも言おうものなら直ぐに実行に移し、「あれ?おとなしいな?」と思ったら一生懸命数独 すどく と格闘している。 「ところで息子は元気?大学卒業した頃だろ?」と話しかけると「うん、コンピュータの仕事をしているよ。 最近ウクライナ人の彼女ができてね。 いや、でも大丈夫!ロシアとウクライナはもめてるけど、私たちには全く関係ないから。 ほら、私たちのオケにもウクライナ人がいるけど皆仲いいじゃん〜」と言って10倍くらい返ってくる。 確かにオーケストラの名は「ユナイテッド・オイロッパ ヨーロッパ連合 」と言うだけあって、オーストリア人だけでなく、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、ポーランド、スロヴァキア、ドイツなど様々だ。 そして確かに皆温かい。 ロシアの公演が終わってウィーンへ帰る時、エレナが「結局実家には昨晩帰っただけだった」と言って空港に滑り込んで来た。 「コンサートが終わって夜遅く帰ったし、今朝も早く出たから今回はほとんどママの顔は見れなかった、アハハ!」と笑っている。 「あれ?ずっとママのところに滞在してるって言ってたじゃん?」「それは夫のママのところだよ。 私のママの所へ帰ったのは昨晩だけ。 」「え?お前の夫はポーランド人だろ。 」「そうだよ、つまり私は前の夫のママの所に泊まってたの。 私たち今でも仲がいいし、彼女は1人暮らしだから」と言っていつものようにあれこれしゃべり始めた。 「この間も、今の夫トーマスのポーランドの実家へ、前の夫ロザノフのママと一緒に行ったんだよ。 みんな仲良しでさ、アハハ!」といって楽しそうにしゃべっている。 今の夫トーマスはポーランド出身のファゴット吹きだ。 いつも静かに僕の棒に注文を付け、今日の演奏は満足してるか?と誠実に語りかけてくる。 それにしてもエレナはすごい!周りの人たちもすごい!皆がエレナみたいだと世界は本当に「アハハ!」と言って平和なのかもしれない。 しかし僕のキャラクターではちょっと追いつけそうもない。 少なくとも今年は「まあいいじゃん!」と言って過ごそう。 そしていつか、エレナのようにこだわりのない「アハハ!」が心から出てくるような人間になりたい。 「アハハ!」 思いもかけないことが色々ありましたが、無事に年を越せましたね。 新しい年を大事に活(生)きましょう! 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第72号より 「お前たちのオケは今までよく消えなかったなあ」「確かに微妙な存在だけど、24年前に国の体制が変わったとき、室内オケを存続させると言う覚書が政府と交わされたんだ」と言う。 ルーマニア放送局には、僕が時々お世話になる2管編成の室内オケの他に、4管編成のビッグオケ、50人の合唱、20人のジャズバンド、15人の民族オケを擁している。 それにしてもオケがよく2つも存在してきたなと思っていたら、最近は退職者の補充をせず期限雇用になってきたのだと言う。 「ほら、あの若いチェロはコンクールでも優勝したけど、ここでは半年の雇用なんだ。 こっちのヴァイオリンはオペラからのエキストラ。 」何と僕が通い始めた17年前に37名いた正メンバーは、いつの間にか20余名になっていた。 それでも存続しているからまだましなのかも。 実際、スロヴァキアの首都ブラチスラヴァでは6つあったオケも3つになってしまい、僕が振らせてもらっているオケも自主運営になった。 ウィーンで振らせてもらっているオケも、20年前に閉鎖された歌劇場のオケが自主活動しているものだ。 先日のテレビで、「東京にはプロのオーケストラが10もある。 世界の大都市と比べても突出して多く、実は日本はクラシック大国なのだ」といっていた。 単純計算すると千三百万人に対しての数字であり、国全体の一億三千万人対しては30にも満たない。 ドイツでは人口8千万人に対して130余のオケ、さらにそれらの多くが常設のオペラ劇場で活動していることを考えると、クラシック関係の就業人口の規模は日本のそれとは全く比べ物にならないほど大きい。 しかもドイツの場合20年前には200以上のオーケストラがあったのだ。 それにしてもローマ歌劇場182人の解雇にはびっくりした。 まさか首都の、しかも大マエストロを擁する歌劇場でオケや合唱の大量解雇が本当に行われるとは思わなかった。 とりあえず解雇だけは撤回できたけれど問題が収まったわけではない。 本場でこの状態だ、日本も当然油断はできない。 アメリカのような寄付は望めないし、ヨーロッパほどの補助も望めないのだから。 そう考えると日本の音楽家は本当によく頑張っていると思う。 今年も何があってもしぶとく活き活き生きたい! リンゴの旬 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2014年10月号より りんごが美味い! 最近は毎朝ヨーグルトと一緒に惰性のように食べているけど、冬眠 凍眠 から無理やり覚まされているからか、本来の味をすっかり忘れていた。 大きな玉が年中出回るようになってからか、いつの間にかリンゴをそのまま食べると言う習慣はなくなっていた。 旬は人間の生活を生き生きさせてくれる・・・リンゴの一切れが改めて大切なことを認識させてくれた。 すると、それを食べている人間の旬は?見かけでは20代か?その頃の僕は人生を真正面から突き進んでいたけど、「若いよ君!」といってやりたくなるほど幼かった。 上手く生きられないのは今も同じだけど、よく考えてみると30代、40代、50代それぞれすべて旬だったように思える。 常に進歩してきたからと思いたいけど、僕に限ってはただ一生懸命だっただけだ。 JCPオーケストラ西日本公演 先月は、20代から70代までのソリスト12名と共演した。 それぞれの思いがひしひしと伝わってきて、それぞれの年齢にしか出せない音楽がしっかり感じられた。 そして皆、「今が旬」なのだ。 そう、一生懸命というより焦らず本質を求めていくと、年を重ねるごとに人生が加わり、皆 お客様 と希望を共有できるような音楽になっていく。 しかし、年齢的に厳しい、力が限界だ・・・そう思ったらそのとおりになるだろう。 音楽に何を求めるか?大きな音、早い指を求めるだけなら若い一時が旬になりえるかもしれない。 そんな時期があっても・・・いや、無くてもいい。 本物の音楽人生を求めている人にとっては今現在が旬だろう。 さらに求め続けることによって、死ぬまで新鮮な旬でいられるに違いない。 「学校に勤めながら今までよくピアノを頑張りましたね。 定年まで10年くらい?このまま弾き続けたら、死ぬまで益々音楽が深まりますよ」と言ったら、「私来年還暦 定年 なんです」と言われた。 彼女は子供のときからの夢だったというチャイコフスキーのピアノ協奏曲を美しく弾きこなした。 ベートーヴェンの協奏曲を弾いた人は70歳になったばかり。 「まさか自分がこの年までピアノを弾いてるとは思わなかった」と言われた。 この人の音は40年前から聴き続けているけれど、還暦を過ぎてどんどん美しくなってきた。 好きであれば、求めたいなら、ずっと続ければいい。 そのうち音が抜けても、失敗しても何かが伝わればいい。 そういう生き様、それが「お仕事」ではない音楽家の本来の仕事なんだと思う。 そうして死ぬまで旬でいたい。 もう少しで紅玉 こうぎょく が出る。 旬のすっぱい味が楽しみだ。 20 本部からユニオン会員への確認・お見舞いの電話を頂きました お心遣いありがとうございました 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第71号より 数年振りに懐かしい人からメールが入ってきた。 「岩国大丈夫ですか?」何のことだろうと思っていると、遠く離れた知人からも「大丈夫?」と電話が入ってきた。 「今もメールが入ったけど何のこと?」と言うと、「岩国が大雨で大被害だって!」 あわててテレビをつけると、山が崩れ、家が水につかり、車が流されている情景が映し出された。 何とここ岩国だ。 まさか?すぐに近くの実家に電話すると、玄関の中まで水が入ってきて床まであと少しだったという。 そういえば朝起きた時は小雨だったけど、散歩道では小川が氾濫しそうな勢いだったし、アスファルトには結構水が流れていたのだ。 2週間後また知人からメールが入ってきた。 「広島が大変みたいですが皆さん大丈夫でしょうか?」すぐにテレビをつけると、どのチャンネルも安佐南区の災害の様子を大写しにしていた。 僕は27年前団地の下部に家を建てた。 山を造成しているから少しだけ高いところにあり、水害が来てもまず大丈夫だろうと思った。 ところが4年前近くにバイパスができて騒々しくなり、昨年は団地の上の山を削り取って国病、老人施設、消防署も移ってきた。 そのため降雨時は以前よりも水が流れてくるようになり、造成地が上から崩れて来る心配もでてきた。 考えてみると日本中すべて山か海だ。 どこに住んでいようと何らかの災害にあう可能性は誰にでもあったのだ。 個々では今回同様友人知人など連絡を取り合って災害に備えるしかない。 行政には喫緊の対策の他、百年後も風景が変わらないような街づくりを目指してもらいたい。 今も使い続けている二千年前に作られた下水道・・・あの時代のローマ人だったら、今の日本ではどんな街を作るだろう。 今回友人知人は皆無事だったけど、そのまた友人知人などが災害に合われた方は大勢おられるはずだ。 彼らに少しでも希望が持てるような街づくりあって欲しい。 心からご冥福をお祈りいたします。 熊谷先生 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2014年7月号より 今朝、7月21日久し振りに新幹線に乗った。 昨年岩国空港ができて以来ほとんど利用することがなくなってしまい、新岩国駅前の駐車場受付のおばあちゃんに会うのも久し振りだった。 90歳近くになっても自転車に乗っておられるとのことだったけど最近はどうなんだろうと顔を出すと、いつも通りとてもお元気そうでほっとした。 しかも「お宅の息子さんはもう高校生?」とも言われ、その記憶力にもびっくりした。 確かに息子は高校生になったばかりだった。 ここから乗る新幹線は本番の燕尾服を抱えて乗ることが多かったのだけど、今朝は喪服だった。 いつも共演している岡山のピアニストのお父様が亡くなられたのだ。 昨年から喪服を着る機会が多いなあと思いながら車を運転していたので、受付のおばあちゃんの笑顔には何だか元気をもらったような気がした。 今月5日は中学校時代の恩師、熊谷先生も亡くなられた。 僕が中学3年になった時、36歳の先生が岩国中学校に転任してこられた。 若い情熱溢れる先生の指導により僕たちは水を得た魚のようにどんどんうまくなって行った。 放課後のクラブ活動が終了する頃、運動部の連中が窓から覗き込むことが多くなり、音楽とは無縁の同級生が「お前ら、うもうなったのう(上手くなったなあ)」と褒めてくれるようにようになった。 在りし日の熊谷先生 昭和42年9月、岩国体育館 高校3年の時、近所の小学校の校庭でホルンの練習をしていると、ふらっと熊谷先生が顔を出されたことがあった。 「お前ラッパ吹きになるのか?オーケストラで飯が食えると思っとるんか。 」と言われた。 しかし数年後僕がその食えないオーケストラに入ってからはよくコンサートに来てくださった。 といっても直接声をかけて下さるわけでもなく、「石井が珍しくとちっとった(ミスをした)」とか、「あいつ指揮者から花束をもらっとったぞ(ホルンのソロがうまく行った)」とか、どこかで言われたことが耳に入ってくるだけだった。 ある時はコンサートが終わって駅前のスナックで飲んでいると、先生が入ってこられマスターにオーケストラの演奏会の帰りだと言われてた。 隅で飲んでいた僕は「エッそれ俺のじゃん!」とびっくりしてご挨拶に伺ったこともあった。 小学校教員をやっている時、市内の音楽の先生方全員の前で研究授業をやった事があった。 授業後の反省会では皆が良い授業だったと言って下さったのだが、そんなはずはないと思った。 1ヵ月たった頃熊谷先生のところに「教員を辞めて留学します」と報告に伺ったら、開口一番「お前、この間えらくひどい授業をしたそうじゃないか」と言われた。 その通りだった。 確かに研究授業をした時、心はすでにウィーンに飛んでいてまともな準備もしていなかった。 なぜか僕のやっていることは先生には筒抜けになっているようだった。 そして僕が棒を振るようになってからもコンサートにはよく来てくださっていた。 さらにコンクールの審査員をさせて頂くようになると、吹奏楽連盟の理事をしておられた先生はいつも懇親会で、「これが私が岩国中に赴任したときの最初の教え子じゃ」と言って笑顔で紹介して下さった。 今思えば、僕たちの中学時代は現在のレベルからは程遠い幼い音だった。 しかし以後40数年あの時ほど音楽をやっていて楽しかったことはなかった。 先生がおられなかったら僕は間違いなく音楽を続けていなかった。 熊谷先生ありがとうございました。 今日はピアニストのお父様の遺影にも、帰りの新幹線を降りて駐車場の受付におられたおばあちゃんの娘さんにも感謝した。 同 窓 会 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2014年4月号より 高校吹奏楽部の同窓会があった。 春休み前の日曜日、50回目の定期演奏会をきっかけに創成期のメンバーを中心とした50〜60代の30余名が集まった。 僕が高校の頃は合唱部の存在が大きかった。 福島先生のゆったりした指導で、県内ではトップレベルであり、西日本地区大会でも常勝していた。 その頃の合唱部は僕にはとてもまぶしく感じられ、お嬢様のような女子部員には話もできなかった。 そしてもうひとつ栄光のマンドリンクラブがあった。 熊谷先生による情熱溢れる指揮、そこから醸し出される柔らかい響きは、プレクトラムアンサンブルと言うハイカラな部名と共に、モノクロの名画を見るようなクラシックの世界だった。 会場で記念撮影 そのように県下で一目置かれていた両クラブの後から、野球部の応援を口実に生徒自ら立ち上げたのが吹奏楽部だった。 ラッパに飢えた生徒によりまたたく間に部員は膨れ上がり、まもなく1回目の定期演奏会が開かれた。 その頃中学でラッパを吹いていた僕は夏休み最後の日曜日、大きな氷の塊が置いてあるだけのエアコンもない古い講堂の後方の長椅子席で、「すごいなあ〜」と汗をたらたら流しながら彼らの熱演に聴き入っていた。 僕が高校に入学した頃も、吹奏楽部の立場は強いとは言えなかった。 合唱部が専用にしている音楽室はもちろん、一般の教室も音がうるさいからと使わせてもらえず、部室は体育館のステージ下、合奏は体育館のステージだった。 目の前では常にバレー部などが練習しており、そこも使えない時の合奏は体育館の裏、個人練習は常に外だった。 それさえ体育館の隣にあった弓道場から苦情が出て追い立てられ、練習はいつも体育館の周りをジプシー状態だった。 そんな状態の中、野球の応援で市民権を勝ち取り、定期演奏会をやり、部を育ててきた先輩方の集まり、それが先日の同窓会だった。 しかし当時の僕には生徒指揮による生徒のみの運営はとてもまどろっこしく感じられた。 そのため2ヶ月足らずで退部して、夏休みは苦手だった数学ばかり勉強していた。 ところが休み明けの試験でまずまずの点が取れると、よし数学はもういい、やはり好きな音楽を徹底的にやりたいと再入部することにした。 以来毎日長い坂を歩いて登校しながら、こんな余計な勉強をさせられる高校より、音楽高校か吹奏楽の指導者がいる高校に行ったほうがよかったんじゃないかと思っていた。 ほぼ40年ぶりにお会いした先輩方の思い出話の後、「ようやく最近、この高校を出てよかったと思えるようになりました」と挨拶したら、あとで先輩のYさんに、「お前のあの言葉の意味はよくわかった。 音楽を一生懸命続けてきたからそう思えるようになったんだな」と言われた。 そう言って下さったYさんも上を向いて一生懸命生きてこられた方だ。 極めようと思うと、そこに集中すると同時に、逆に全く関係ないと思えるような広い勉強が益々大事になってくる。 高校で徹底的にやらされた勉強が、いつの間にか地下深く流れる水脈のように今の僕を支えてくれていると、40年を経てようやく感じられるようになってきたのだ。 とてもありがたいYさんの言葉だった。 結局僕は先輩方にいっぱい迷惑を掛けお世話になっていた。 今考えるとあの時代、あの先輩方のお陰で吹奏楽部は存在したのだ。 先日の同窓会では本当に皆に感謝しながら乾杯をしていた。 い年、良い年 良い年を!その思いが大 今年こそ良い年、良い年 良い年を!その思いが大事かも! 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第70号より 国際障害者ピアノフェスティバルの審査をさせていただいた。 フランスやドイツ、カナダなど各国から参加した10名の審査員と共に、ウィーンのミノリーテン教会で17カ国から参加した障害を持ったピアニストたちの演奏に3日間浸っていた。 身体的、精神的に様々なハンディを持った人たちの演奏を聴いていると、「そもそもすべての人間は大なり小なり、目に見える或いは見えない障害を抱えているのではないか?健常者とか、それに対してなんとなく差別っぽい障害者とかいう言葉って何だろう?」と思うようになっていた。 不自由な身体を工夫して、ショパンやベートーヴェンを一生懸命表現している彼らの背後では、天使やキリスト、マリア像が見下ろしていた。 神は彼らに対して一体どのような恩寵を考えておられるのだろう〜ずっと考えていた。 音が足りなくたっていい。 バッハのピアノ協奏曲はヴァイオリン協奏曲などの焼き直しがほとんどだ。 それでもやはり両方ともバッハが作った同じ曲であり、同じ曲に感じられるのだ。 そうすると10本の指のために書かれている曲でも、5本しか使えないのであれば、そのように工夫すればよいだけだ。 大事なのは現実に可能な条件でその曲の真髄を最大現表現しようとする熱意、努力だろう。 皆それは十分あった。 ここで演奏している人たちは皆心からその曲を愛し、最大限に表現しようとしていた。 だから聴衆には彼ら演奏者の、作曲者の音楽が伝わってきた。 最終日の夜ファイナルコンサートでは、演奏中僕たち審査員はステージに座ったままだった。 客席のウィーンの聴衆を見ていると、少しづつ良い顔になり、温かい顔になって行くのがわかった。 それからそっと隣に座る夫や妻、恋人たちに寄り添い手を握り始めた・・・そこには確かに本物の音楽があった。 久々にルーマニアのこと ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2014年1月号より 「俺、来年オーケストラを辞めるんだ。 」練習が終わって車で送ってくれたリサンドロがボソッと言った。 突然の事にびっくりしていると「俺は来年で53歳になるんだ。 だからもうオケを辞めることができるんだ」と言った。 ルーマニア国営放送局のオーケストラの定年は60歳だ。 一応65歳まで延長ができるけど、逆に管楽器は53歳から、弦楽器は57歳からいつでも退職することができる。 「それにしても辞めるの早いんじゃないか?どこか他のオケに移るのか?」「いや、ホルンは若くて上手いやつがいっぱいいるし、俺はもう吹かない。 親父の仕事を手伝うんだ」と寂しそうに言った。 「そうか、この次俺が来た時にはもうお前に会えないんだな?日本のツアーには6回全部来てくれたよな。 長い間ありがとう」と言って僕はホテルの前で車を降りた。 コンサート終了後のワインパーティー 翌日イオン(クラリネット奏者)に彼の退団を確かめると、「あいつもうホルンを吹くのが飽きたみたいだ」と言った。 リサンドロはとても大きな体でいつも窮屈そうに2番ホルンを吹いていた。 少しこ強面 こわもて の顔にひげを生やしていたけれど、とてもおとなしくこれまでほとんど話す機会がなかった。 来る度に少しずつメンバーが若返っているのは当然だけど、今回は最近数ヶ月の間に3人も亡くなっていた。 チェロのコンスタンティンは僕が来る2日前に65歳で亡くなったという。 彼はいつも「石井、お前の棒はいい」と言ってくれた。 大きい体で優しい顔のオイゲンはヴィオラの首席で40歳だった。 奥さんと小さい子供2人を残して逝った。 そして黙々と仕事をしてくれたステージマネージャは53歳だった。 皆病気だったそうだ。 これまでも定年退職したり他のオーケストラに移ったメンバーはいたけれど、亡くなったというのは初めてだった。 しかも3人、そして皆若い。 イオンは、ストレスが多いんだろうと言った。 一瞬「このゆったりとしたオーケストラでストレスが多い?」と思ったけど、確かに彼の言う通りかもしれない。 彼が育った頃は独裁国家だったし、豊かになってきたなと思えるようになってきたのはここ数年だ。 本番の前日、早めに練習に行くと楽屋からホルンの音が聞こえてきた。 誰がこんなに早く来て練習してるんだろうと思ったらリサンドロだった。 そう言えば、今回のコンサートでは2番ホルンのリサンドロにソロ(一人で吹く場面)があった。 この16年間で初めてのことだ。 本番はとても柔らかい美しい音で吹いてくれた。 何だ、情熱いっぱいあるんじゃないか。 今回彼はせっせと僕の送り迎えをしてくれた。 これも16年間ではじめてのことだった。 お別れの「気持ち」だったのだろうか。 ありがとうリサンドロ、16年間楽しかったな! お彼岸 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2013年10月号より 庭を照らす薄赤い日差しがとても美しく、つっかけを履いてふらっと外に出た。 近くの蓮田を歩き空を見上げる。 秋の夕方、お日様は丁度雲の後ろに入るところだった。 5ヶ月前に足の骨を折って以来、朝夕のジョギングや散歩も億劫になっていた。 久しぶりに気持ちの良い歩きだった。 そういえばもうお彼岸だ。 還暦になって改めて回りを見渡してみると、いつの間にか自分の人生に深く拘った人が少しずついなくなっていた。 暑い夏も終わり運動会など人が元気になりザワザワした季節が、僕には彼岸の夕日を感じる季節になっていた。 これまで平均年齢というものを勘違いしていた。 男の平均年齢が79歳と言うことは、皆少なくとも79歳まで生きると言うのではなく、単純計算では79歳になった頃には半分いなくなりましたと言うことか。 すると40台辺りからぼちぼち消えていく人がいると言うことだ。 リヒテンタールのブラームスの部屋にて思いに耽る 昨年12月には中澤が逝った。 僕が教えた4人のホルンの教え子の1人だ。 その中で一番若い47歳、東京フィルの現役メンバーだった。 小6の頃よく遊んだ伊賀崎は数年前いつの間にか亡くなっていた。 昔一緒に吹奏楽をやった河野が逝ったのも数年前だ。 それらが一々僕には堪 こた えるようになってきた。 先日もW先生が亡くなったと聞きとてもショックだった。 彼は3年前まで高校の音楽教員だった。 毎年吹奏楽コンクールで棒を振っているのを見て「ああ、頑張ってるなあ」と思っていた。 僕がホルン吹きの頃は彼の温かいクラリネットの音と一緒に演奏したこともあった。 生前彼と親しかった人にお話を聞くと、近年は家族からも離れて暮らしており孤独死だったという。 しかし数日前には、もうすぐ90歳になる広瀬氏に食事に誘われた。 つい10年前までは一人で外国に行きレンタカーを乗り回しておられた。 近年は2度も病災に見舞われたが、見事に復帰され、この日も出される料理をパクパク召し上がられた。 「16年前 僕が勉強していた ウィーンに来て下さいましたよね。 いつかまたご一緒しましょう」と行ってお別れした。 皆人生を頑張っていたはずだ。 しかし運命はどこで変わって行くのだろう? 今日の風景はヨーロッパの美術館や宮殿で何度も見た。 様々な宗教画に描かれている天井の神々、御使い、キリスト、マリア〜中世の画家たちはきっと今日僕が味わったような風景から想像が膨らんできたのだろう。 本当にこのような美しい夕空は神様にしか創れない。 今日の夕日のように、美しく生き美しく空に行きたい。 粘り強く、更に粘り強く努力、後は力を抜いて神様にお任せしよう。 新スタート 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第69号より 中四国地本が新しくスタートした。 運営委員には行動力抜群の松崎氏が退任され新たに上田氏と清澄氏が加わった。 皆忙しい。 全くのボランティアであり活動に限界があるのは確かだ。 本音を言うとなるべく問題が起こらないことを祈るばかりだ。 しかし、小さな所帯の中四国地本にもなぜか問題が収まった頃を見計らったように必ず次の問題が持ち上がってくる。 とすると〜そろそろまた次の出番か? 最近もユニオンが拘った関連の裁判で17歳の元音高生の訴えが却下された。 訴訟時は15歳、ここに辿り着くまで2年、しかし最終読み上げは僅か1分だった。 却下理由は、尊厳を傷つけるような行為があったのは事実だが、教育の範囲内とのことだった。 最近問題になっている体罰に比べれば別にたいしたことではないという様子さえ伺えた。 記者会見で、現在17歳のその女の子はグッと気持ちを抑え涙をこらえ、しばらくしてようやく「くやしいです」と背筋を伸ばし清楚に答えた。 日本の裁判は勝っても負けても100%というのはほとんどない。 双方とも莫大なエネルギーを使い深いダメージを受けてなんとなく終わりだ。 そのため今回のように却下されても、ようやく開放されるという安堵感さえ感じてしまう。 だからだろう、控訴はやめた。 しかし一体なぜこのようなことになるのだろう?僕も含め音楽人や教育人は人間関係が疎いのか。 裁判では双方とも延々と不毛な時を過ごし、結果多くのものを失う。 あのアメリカでさえ、「たとえ勝ったとしても、得るものより失った物の方が大きい。 」と言われる。 今回の裁判は、人間関係を維持できない大人が教育者として権力を持ってしまった事が始まりだった。 豊かな人間関係と口では言うけど、字では読めるけど、基本は「やさしい」と言うことだろう。 教育人はもちろん音楽人にとっても一番大事な言葉だろう。 だれだってやさしくしてもらいたい。 しかしなぜか人には中々それができない。 今の音楽ユニオンの理念は「闘争」でないことは確かだ。 これからは「やさしい」を理念とできるユニオンでありたい。 いつもやさしく闘争をしてくださった松崎さん、長い間本当にありがとうございました。 石井も還暦 ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2013年4月号より 4月1日。 これを書いている今日還暦になった!実際の誕生日は3月25日だったけど、こちらは戸籍上の誕生日だ 事由は参照。 これで確実に60歳になった! 還暦!できれば触れたくないけど、やはりどの節目とも何か違うように思う。 この際真正面に据えて考えて見たい。 20歳、30歳、40歳もそれぞれ大事な節目であり、これまでもそれぞれ目標を設定して生きてきた。 50歳では定職 短大です を辞めフリーを決断した。 音楽を一生の仕事と決めて以来いつも必死だったけど、あの頃も本当に必死だった。 後任をお願いした山崎先生にはお会いする度に「いつ帰ってきてもいいよ。 いつでも交代するよ。 」と言われた。 スパッと辞めてしまたものの、僕の顔は不安でいっぱいだったのだろう。 コンサートのポスター キリル文字でKazuhiko Ishii が 一緒に仕事をしたことがある指揮者のY氏もE氏も僕の前後に大学教員を辞めた。 彼らの気持ちは良くわかる。 ある程度の研究活動は保証されていても専任教員には山のような雑務がある。 日々音楽を求めていくとすぐに限界を感じることになるからだ。 ところがフリーになってもすぐに仕事がどんどん入ってくるわけではない。 また入ってきてもすぐにバリバリ棒が振れるわけでもない。 オーケストラはその気になれば毎日でも演奏できるけど、指揮者の方はとても勉強が追いつかないからだ。 しかも出演料の単価は指揮者の方が高いから錯覚してしまうけど、社会保険と雇用が保証されているオーケストラの楽員よりも確実に生活は不安定だ。 そんな生活になって9年経ち今日還暦を迎えて思うのは、「本当に9年間音楽をよくやってこれたなあ」、そして「60年間よく生きてこれたなあ」ということだ。 今になって考えてみると、この9年間は取りあえず還暦まで生きることを目標にしてきたようにさえ思う。 では次の目標は? 健康で子供たちが一人立ちするまで長生きする 一番下は中3です ・・・これは当然。 これからもブレずに音楽を求めていく・・・これも当然だ。 しかしよく考えてみると、指揮者としてはそろそろマエストロの世界に入るところだ。 ところが僕にはまだまだ未経験の曲がいっぱいある。 最近はそれらを勉強していると、これまで想像していたのとは全く違う深さに到達して改めて感動してしまう。 一体いつになったら「オッ!ちょっとは極められるようになったかな」という年齢になるのだろう?「もう髪を染めるのも面倒だ。 この際見た目だけでもマエストロで行くか!」と言ったら、友人に「やめとけ。 まだまださわやか路線で行ってしっかり実績をあげろ!」と言われた。 確かにそうかもしれない。 最近はどこまで白髪になっているのかもわからなくなってきたから、手入れをやめるとただの場末のよれよれ指揮者なってしまう可能性もある。 同級生のIは度々「石井、お前 の生き方 かっこいいよなあ!」と言ってくれる。 中2の息子は「僕にとったらあのまま学校にいてくれたほうが良かったよね。 だって収入は半部以下になったんだよね。 」と言う。 僕の生き方はやっぱり子孫には迷惑だろう。 昔ラッパ吹きだった頃お世話になった指揮者のIさんは、僕とは逆のケースをたどった。 彼は20年前オーケストラの正指揮者をやめ大学の専任教員になった。 昨年その彼が「最後はやはり指揮者で死にたい。 定年の70歳まであと3年だけど大学をやめることにした。 」と言って初めてのヨーロッパに行き演奏活動を再開した。 彼の誠実な人柄、実力はヨーロッパのオーケストラで立派に通用するだろう。 彼の白髪もマエストロの貫禄十分だ。 僕の方は昨年のコンサート評で「石井はまだ若手だが〜」と書かれていた。 当面期待?に沿って謙虚にスカッとした若い棒を目指すことにしよう。 そして、心中に決めた素敵な目標を5年以内、10年以内に達成しよう。 それらを記念パーティで盛大に披露できるよう、若きマエストロ頑張ります!人生って案外短いんですね。 気持ち良く寝たい! 日本音楽家ユニオン中国四国地方本部発行 ゆにおん通信 第68号より 寒い。 毎夜、布団に入り体の上下を厚い毛布に挟み、さらに背中に電気毛布の温かみを感じると、「ああ幸せだなあ〜神様、ご先祖様、仏様、本当に有難うございます」と心から感謝の気持ちが溢れてくる。 嘘つけ!と言われそうだけど、自分でも最近の謙虚さにはびっくりしている。 2ヶ月前、新宿のワシントンホテルに滞在していた。 そこから都庁前の地下鉄駅まで毎日250mの地下道を行き来していると、ホームレスの人たちの存在が気になり始めた。 そのうち、彼らは夕方6時頃から就寝の支度を始め、朝7時頃から片付けに掛かることに気がついた。 道の左右に、お互いの間隔を空け整然と寝具を置き、眠る人、食事をする人、本を読む人、それぞれが静かに時を過ごしている。 11月だ、街ではコートやマフラーの人も増えてきた。 幅20mもありそうな地下道は、通り抜ける風も冷たく身に凍みる。 コンクリや石畳の上は寒いだろうなあ。 アメリカのホームレスは平均寿命41歳と言うけど本当に命は縮むだろう。 皆、学校教育は受けているだろう。 字は読めるし計算も出来るだろう。 しかもこんなに行儀良くしている人たちがなぜここで寝なくてはいけない?それぞれの生き方に責任はあるにしても、彼らにすべての責任があるのか?地球上で最も労働人口の減少が著しい、しかも先進国と自称する日本で、なぜ僅かな仕事の分配にさえありつけないのか? それは人事 ひとごと ではない。 現在安定した収入があろうと、財産があろうと油断は出来ない。 実際、ホームレスには元公務員や元社長という人も結構存在するし、今の日本社会は益々リベンジが不可能な構造に変化しているからだ。 こんな時こそ行政や宗教団体の役割は当然として、私たち一人ひとりはどう考え、どう行動すればよいのだろうか? それは既に自然や社会現象が何度も警告しているのではないか?今すぐ、少しづつ、もう少しだけ、お互いに優しくなりたい。 それだけで今年1年が終わる頃、少なくともこの島国くらいは今よりは認め合う社会に変化しているはずだ。 おみそれしました! ジャパン・チェムバー・フィルハーモニー後援会報 2013年1月号より 初めての国で、初めてのオーケストラ。 そして当然初めてのホールで、初めての練習、それはロシア! 少し緊張しながらスッとかっこ良く のつもりで 指揮台に立った。 このオーケストラも大分若返りが進んでいるのかなと楽員をゆっくり見渡すと、人生に疲れたようにふやけた様子のおばあちゃん ごめんなさい と目が合った。 彼女が座っているのは第1フルートの席だ。 大事なポジションだけど大丈夫かいな?と思いながら棒を振り下ろした瞬間、「このオケすげえ!」思わず心の中でこんな言葉を叫んでいた。 そして間もなく「このフルートのお方 急に丁寧語 ただ者じゃないな!」と言うことがはっきりわかった。 ロシアの初雪? 彼女の音は僕が大好きなルーマニア国立放送のコンスタンツァの音とは全く違う、ユナイテッドオイロッパでいつも吹いてくれるウィーンフィルのシュルツ 息子の方、父も偉大なフルーティスト の美しく格調高い音とも全く違っていた。 それではこのあばあちゃん 何度もごめんなさい の音は明るい?エレガント?やはりすべて違う。 彼女の音は錆びかかった銀のようにくすんでいて、幅広い、しかし太いわけでもなく一体何と形容すればいいのだろう。 何ともとらえようが無いけど、ただただすごいものが伝わってくるのだ。 次の日フルートの席を横切ると、彼女が「マエストロ、こんにちは」と日本語で話しかけてきた。 「エッ?日本語?」とびっくりしていると、「私の先生はムラビンスキーの奥さんでした。 」と言った。 これだけで十分びっくりする価値があるのだけど、もっと先があった。 「私は1975年、レニングラードフィルハーモニーの一員として日本に行きました。 」と言ってその時のプログラムと写真を見せてくれた。 「指揮者がムラビンスキーで、この第1フルートが彼の奥さん、その隣が私です。 そしてこちらのオーボエは私の最初の夫で、後ろのバスクラリネットは私の父です。 2人共もう亡くなりました。 」と寂しそうに微笑んだ。 やはりただのお方ではなかった!ムラヴィンスキーは閉ざされたソビエトで50年間レニングラードフィルの指揮者として君臨した。 そしてほとんど外国で振ったことがない、音楽界では神様のような存在だ。

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平成30度後期金曜1講時「英語ⅣC(英語表現 トレーニング)」授業用ウェブサイト

来週の今頃には君はもうロンドンを発ってしまっているね 英語

ノー天気 平成17年11月17日(木) 帰国して漸く一月が経とうとしている。 でも、昨日までヨルダンにいたという感覚はすっかりなくなっている。 11月9日には、アンマンで三件の同時多発テロがあって、ヨルダン情勢もすっかり変わってしまったようであるが、それも一端離れてしまうと全くの他人事のように感じている。 全体として何事にも余り関心の湧かないノー天気な気分が続いている。 ひとつの大事な時間を無事乗り越えて、解放感、終息感が支配しているからだろう。 こうしてまた二年前と同じ失業状態に戻ったことになるが、あの当時のような追い込まれた感じとは、全く無縁である。 毎日が日曜日を、何の恐怖感もなく迎えて、のんびり過ごしている。 たまに、二年前のピンチの記録を読み返してみたりもするが、余り共感する意識は出てこない。 不思議なくらい平穏でノー天気な日々である。 この二年間で起こったことが、大変大きな役割を果たしてくれたせいなのだろうと理解している。 つまり、1000日の父の残りの時間処理が、最大の難点であったものが、その間の銀行問題をうまく切り抜けられたことで無事終わってしまったことで終了したことが大きいのだろう。 あの時点で、最大の懸案であった、末娘の大学卒業も、今年の春までに終わってしまっている。 今は、毎日文句も言わずに仕事にせいを出している姿を見ると、これが一番大きく変わった点なのだろうと思う。 妻の方も、ヨルダンで一緒に二年間を過ごして、この間の銀行問題もなんとかクリアできたと思うのか、あの当時の騒がしさはない。 こんな失業状態の私に対しても、かなり安定した心境のようである。 またJICA頼みの仕事が待っているという期待感さえもっていて、日々の活動にも大変協力的なのも様変わりである。 時間帯としても、ひとつのゴールである還暦までも、残り三ヶ月という秒読みに入っていることも、二年前の春とは違っているのだろう。 もうすぐ年金年齢に到達するのだから。 この二年間で、すべての環境が一変してしまったようである。 まさにJICA様様の二年間であったと言えるのだろう。 官の無駄遣いかもしれない外交資金による失業対策に救われたと言えるのだろう。 一番幸いなのは、私自身の心の持ちようがすっかり落ち着いたという点であろう。 あたかも、まだ現役のような感覚が戻っているのだから不思議だ。 JICA頼みでまだ未来があると信じられるようになった事が大きく働いている。 まさに一瞬にして、天からの恵みに合ったような感じである。 次回のシニアボランティアへの応募も済んでいる。 少なくとも、この結果が分かるまでは、この気分は続けることができる。 この二年間の蓄積で、この浪人時間帯の軍資金も貯まっているのも大きい。 家族に迷惑をかけないで、浪人時間を過ごせると思う自信は、いかにも大きい。 まさに銀行問題の悩みはどこへやらである。 代わりに登場しているのが、健康問題である。 こちらは時間と共に直実に進行しているのだから、自分では選べないといえば、その通りであるが、少しは自信があったはずなのが、この速さで進行されるとかなりぐらついて慌てているということになろうか。 二年前も、ノイローゼが体調に影響したのかな位に思っていたのだが、出発前の健康診断は、余り良くはなかった。 でも、ヨルダン赴任後のしばらくは、何の健康不安もなしにスタートした。 健康不安に気がつき始めたのは、一年ほど過ぎた頃からである。 朝の一瞬の心臓パクパクに突然気がついたのは通学バスの中でのことだった。 似た現象、多分同じ現象だと思うが現役時代の通勤時も、通勤電車の中で一瞬は起こっていたが、その頃は、時間も短いし、心臓パクパクという狭心症的自覚はなかった。 背中が張って、両腕が一瞬痺れるような数秒の現象だけで、それほど健康不安につながってはいなかった。 しかし、今回の自覚は、一日一回の狭心症として感じるものであった。 どうしてこうなったのかと疑問に思ってみていたが、やはり血圧の上昇が原因にあるようである。 これまでは最高血圧で120を超えることは余りなかったのが、一気に130台まで上がっている。 たまたま健康診断の時、午前中早く測るからかなと思っていたが、最近プールの血圧計などで測ってみると、いつも130台の血圧になっていそうなのが判明してきた。 やはり、この高血圧化がすべての現象であるようだ。 ヨルダンでの暴飲暴食、運動不足なども手伝って、こうした常態的血圧上昇につながってきたのだと思う。 循環器は大丈夫と思っていた過信が、誤解であったことになる。 いよいよこうした老人病、生活習慣病との戦いが始まったということになる。 もう銀行問題はいらない、次は健康問題の試合開始という常態に移っていそうである。 パラダイム・シフトである。 いったいどっちがより深刻なのだろう。 ノー天気でも、心老はつきない今日この頃である。 健康オタク 平成17年11月19日(土) うっかり気づかないでいたが、帰国後健康診断では大変な結果が出ていた。 肝機能の低下である。 三桁まで上がったら何とか対処しようと思っていたのが、一気に200を超えてしまったのだから、一大事である。 受け取ったばかりの時は、またいつもと同じように肝機能要注意が書いてあるだけだと思って、数字までは見ていなかった。 三井ビルクリニックでJICA応募書類の方に転記してもらいに出したら、再検査と書かれてしまったので大慌てという訳である。 慌てて、これまで続けてきた健康管理グラフにプロットしてみると、やはり急上昇で大慌てが続いている。 これに気がついた昨日から慌てて節酒開始である。 これにあわせて全体の健康チェックをしてみると、自覚異常に習慣病が進んでいるのが分かる。 まず高血圧である。 もう限界すれすれまで上がってきているのだ。 自分の頭の中にある110 mmHgという数字は40代の頃の数字で、よく見ると50代ではもう120台が普通になっている。 そして最近3年間は、すでに130台に突入しているという訳で、自覚が甘かったグラフになっている。 最低血圧の方も、頭の中では70台の数字であったが、とんでもない話でもはや限界すれすれの90台まで上がっているのだから、正に要注意である。 すべてが老人の成人病の数値に近づいているのを発見して唖然とした昨日、今日である。 そして同じようにコレステロールが高すぎるという全体悪化現象である。 決してもはや、何もしないでも健康であるという時代ではなくなったという事実だろう。 この事態を受けて、急に健康オタクに変身しなければ、というのが今日の大決心である。 とりあえず最大の肝機能回復運動では、昨日、おとといと2日間の節酒には成功している。 確かに、帰国後検診は覚悟の上の旅行中の暴飲暴食であったが、こうして如実にその結果に示されると、改めてドキッとする状況である。 ヨルダンで始まった一日一回の心臓パクパク症状も、結局はこうした生活習慣病の進行が原因で出てきたのだと思えば理解しやすい。 ひょっとして血圧が上がっているのかなという疑念はあったが、数字の事実としてここまで来ているという認識はなかった。 やはり血圧を下げなければ、この症状は減らないのだろう。 いまでも朝一度は起こる日の方が多い。 少しずつジョギングや水泳も再開しつつあるが、まだまだ試運転で昔のように勢いよくはいかない。 すこしおっかなびっくりの再開であるが、こうして健康オタクへの変身を決意すれば、もう少し思い切って元の状態に戻していってもいいのだろうという気もする。 確かに銀行問題より、健康問題の時代に移ったことになる。 1000日の父の終了で銀行問題は解決したとしよう。 少なくとも、こうしてまだJICAで働き続ける可能性を信じている間は、ノー天気に未来の銀行問題を放っておくことができる。 今回の応募の結果が判明するまでは、ノー天気OKのサインである。 代わっては、すべては健康問題にかかっているというパラダイムシフトである。 JICAの方での成否の心配も、こちらの方が先立つ。 ああして、応募診断書に再検査要と書かれたことが、何かの悪影響にならないかが心配となる。 こうした健康問題は、やがては最後の信仰問題につながっていくのだろう。 2年前の死神様との約束を、昨今はすっかり忘れたような傲慢な態度で目立っている。 この健康管理の失敗も、多分そんな驕りの表れなのだろう。 一度渡りかけた三途の河への道を、引き返してきたかのような傲慢な日々である。 「この人を見よ」という態度にさえ戻っている。 気分的には楽で結構なのだが、覚悟が間違っているのだろう。 やはり、死神様との対話はかかさずに覚悟の道を進んでいくべきなのだ。 お蔭様で、この2年間は、「生きて死ぬ」の実践に、少しずつ成功しつつある。 あれ程、恐れていた社会からの脱落も、徐々に完成しつつある。 恐れおののかなくても、自然体でこの世から離れていける環境を整えつつある。 この間に、母も姉も先立っている。 少しずつ安心して脱落できるようには、なりつつある。 これからは、覚悟の健康オタクを目指さなければならないのだろう。 もう少し信仰オタクの方へのパラダイムシフトにも目をやらなければならないのだ。 回顧と懐古 平成17年11月27日(日) ノー天気の日々は続いている。 三日前には、長姉の納骨式に行って来た。 その前に母の一周忌も終わった。 すべては過去になりつつある。 過ぎ去っていったのだ。 徐々に幕引きに向かっていることは確かだ。 この間に感慨はあるか。 これまでのことを振り返る時間はあるのか。 半生を回顧して何か思い当たる節はあるのか。 一人の人間には、ひとつの生き方しかないのだろうが、果たして自分のひとつの生き方は回顧するのに値するのだろうか。 これしかなかったのか。 もし、こうでなかったらどうなったのか。 別の人生を選べたのだろうか。 人より少し世界を広く見ることができたのは良かったのかと思ってはいるが、果たしてそうなのだろうか。 なんだか、この間に教わってきた価値観も、かなり偏ったものだったような気もする。 アメリカ文化、或いは西欧文化を強烈に叩き込まれたのかという気もする。 こうでない価値観、もう少しドメスチックな価値観だったらどうだったろうかとも思ってみる。 もう少し古い日本人らしく生きたらどうだったろうと思ってもみる。 でも、所詮は詮方のない回顧である。 リベラルとかフリーとか、今流行りの価値観を先取りしてきたのだから、流行や流れの方向には進んできたのだろう。 社会的不成功は、いたしかたのない事情なのだろう。 大学生活の失敗は、もう飽きるほど反省してきたのだから。 ここまできたら、その話はもう止めるしかない。 そこからは解放されているはずだ。 何とか見ぐあいして、子供が出来て、それを育てるという最低の条件は、クリアしてきたことになるのだから、半生としては成功としか言いようがないのだから。 その他の事情は、余りたいした問題ではないのだろう。 むしろ、自分を捨てないとか、自覚を迎合しないとか、そんな頑なさ、頑固さは自分でいつも良しとして続けてきたことなのだから、それもつべこべいう回顧ではない。 つまりどう回顧しても、懐古にもならない代わりに、厳しい反省にもならない。 今のこうしたノー天気がすべてなのだろう。 終わりを喜ぶしかないのだ。 順番に終わっていくのを喜ぶしかないのだろう。 時代は移り変わるだけである。 この頃、テレビで瀬戸内寂聴の女の一生をやっていた。 サブタイトルに「出家、生きて死ぬ」という字幕が出てきた。 「生きて死ぬ」とは、正に自分の唱えた最後と同じものである。 私の場合は、出家ではなくて、出国とか離国とかになるのだろうが、概念は同じである。 此岸と彼岸とか、連続してスムーズにつながっているという概念なのだろう。 静かに、出家するか、離国するかで、このまま死を体現するという意味では同じ行為なのだ。 これにはすっかり頷いてしまった。 私のこの最後への方向も、決して珍しい発想でもなくて、もともと仏教の教えていた概念なのだと思えるのは嬉しいことになる。 もう残りのレールは敷かれたということなのだろう。 とりあえずノー天気は、今度のJICA応募の結果が出る、12月の初めまでは続けることが出来る。 もしも、受からなかったらという不安もないではないが、まあ出てからパニックになろうとたかをくくっている。 二年前のあの焦燥はすっかり忘れさられている。 なんとか、もう少し必死にならないと罰でも当たりそうな気もしてくる。 油断大敵である。 世の中そんなに甘くはないよというささやきもないではない。 まあ、予断や想像であくせくしてもしょうがない。 せっかく、こんなにノー天気でいられる時間帯があるなら、それを楽しませてもらうしかない。 いつでもまたあの深刻さはぶり返すのだから。 「生きて死ぬ」を、さらに深く追求していくだけなのだろう。 変な日々である。 発表前夜 平成17年12月7日(水) いよいよ明日一次試験の結果の発表である。 通知が届くのは明後日になるのだろう。 これまでのノー天気もここで終わりである。 いまだに失敗は想像していない。 前回、最初の時に比べれば、格段自信のある身の上だと認識しているから、まさか落選はないだろうとたかをくくっている。 ヨルダンで一緒だったメンバーとの競争なら落ちるはずがないという自信である。 でも、試験なんて何が起こるか分からないのだ。 健康診断だけで落選かも知れないのだから。 そんな多少の不安は感じているが、今の所落ちたらどうしようという対策は何もしていない。 前回の薄氷を踏む思いはない。 厚い氷の上を悠々と歩いている気分でいる。 それも、今日までなのかもしれないのに。 やはり、こうした事情を支えているのは、銀行問題の解決である。 少なくとも、次の当選までの軍資金はあるという楽観論である。 前回のように、まったく無一文の時とは大違いである。 こうして銀行問題を抱えていない身分となると、まるで高校受験生か大学受験生と同じような環境にある。 予備校に備えて、次の勉強をするかといえば、なかなか発表が決着するまでは手につかない。 なんとはなしに、テレビでも見てぶらぶらするばかりである。 ここのところ少し寒くなって風邪気味で、咳がとまらないのをいいことに、あちらでごろり、こちらでごろりの感じである。 とりあえず受験生なら文句も言われまいという態である。 少なくとも、帰国してから一月半ばかり、もう休養十分と言えるのだろう。 そろそろ次に向かって動き出す時期が来ているのだろうから、明日の朗報を待つ準備はできている。 こんな本人の実績を評価してか、周囲の当たりも前回とは大分違う。 あれから3年、やはり1000日の父をクリアできたことは大きい。 実に貴重な3年間だったと言える。 その効果が、今回にもつながってくれと祈るばかりである。 死神様との約束も決して忘れたわけではない。 日々、いつでも用意はできていますとは祈っている。 ただ切迫感がない。 今度こそは本当に健康問題がトップに来ているのだから、事態はもっともっと差し迫っているはずではあるのだ。 ただ、1000日の父のような社会的呪縛から解かれている分、自分の事だけなら「後は野となれ山となれ」の開き直りさえあるのだろう。 相変わらずノー天気のまま、JICAからの返事を待とう。 何事も思うようにはならない 平成17年12月10日(土) JICAの一次試験の結果が来た。 残念ながら、第一志望のメキシコは落選で、第二志望のグループ・コーディネーターの方だけが残った。 結果としては厳しいものがある。 残ったグループ・コーディネーターは前回も、最も競争率の激しい要請項目だっただけに、今回もまだまだ予断を許さない結果になったのだろう。 前回は、この段階ではまだ両方共受かったことになっていたので、まあどちらかにはと思えたが、今回の結果では残り皮一枚という状況だろうか。 前回に比べればリピーターというアドバンテージがありそうではあるが、まだまだ不安は続く。 二次試験を頑張るしかない。 何とかTOEC900点クリアを目標に頑張るしかないのか。 三度目の受験の正直である。 希望の任地はトルコの大学ではあるが、こちらでは選べないのでシリアの可能性もかなり高い。 ヨルダンの隣の利を生かしてということになろうか。 ここまで来れば、どこでも行く覚悟で受かれば御の字とするしかないだろう。 家族もメキシコ落選の方に落胆の体である。 まあ、みんな自分の都合でしか考えないのだから、こちらの思惑とは関係のない所にいるのだろう。 みんながどう思うかは二の次である。 ただ、ひたすら働く場所を確保しなければ、の一念である。 とりあえず銀行問題だけは確保して、次の健康問題の深刻化を待つという計画なのだから。 ここでは、余り信仰問題は顔を出してこない。 全てを失敗した時の奥の手なのだろう。 折角始めたスペイン語の学習は、ここらでまた切り上げるしかない。 むしろ、来年のワールドカップ熱に合わせて、トルコ語とアラビア語の復活をするしかない。 余り目標のはっきりしない、グループコーディネーターとなると、一体何を準備するか見当がつかない。 すべての遊びの準備をするだけだ。 こうなると、テニス以外に、ゴルフも頭に入れていかなくてはならないかもしれない。 入れ歯の作り変えも急務になってきた。 二次の健康診断もある。 とりあえず次の12月20日の二次試験までは、忙しく動き回らねばならない。 一歩一歩つないでいくしかない。 一方で、もうすぐ還暦を迎えて、厚生年金保険の給付も始まるという。 こした環境は、3年前とは大分違った要素となって、あのパニック状態からは抜け出せたのだろう。 娘も、働き始めて、結構張り切って勤めているようなので、一安心である。 嘆きの1000日の父の姿はもうない。 つまり、銀行問題はさよなら、なのだ。 今日も娘達とテニスをした後の昼食は、私が胸を張って払うことが出来た。 3年前とは様変わりである。 JICA様々なのだ。 どこへ行かされようが文句は言えないという事情である。 まあ、こうした幸運を神に祈って行けるところまで頑張るばかりである。 まだまだ「この人を見よ」の自信の中での活動は続いているのだ。 健康問題の許す限りである。 生きる 平成17年12月16日(金) いよいよ最後のテーマになってきた。 なぜ生き続けるのか、というテーマである。 このところアルバムの整理をしていたら、この5〜6年で家族や友人に起こった不幸の記録が、アルバムに張られた写真にはっきりと出ていることに気がついた。 義姉、義父から、実母、実姉の死へと毎年続いてきている。 ひとりひとり消えていっているのである。 これに同年輩の友人達の死も重なっている。 身の周りが大分寂しくなってきたという事実である。 順番から言えば、そろそろ自分にも、もういつ自分に来てもおかしくはない時間帯に入っているという自覚はある。 日々の健康問題の自信のなさも、これを証拠付けている。 しかし、義父や実母は90歳まで生きたことを考えると、ひょっとしたら後30年も生きつづけなければならないことになる。 まあ、自分の健康から、そんなに長いことは考えなくてもいいとは思う。 しかし、たとえ後5年でも10年でも同じことであるが、どうやって生き続けていくのだろうと訝ってしまうこの頃である。 もう「生きて死ぬ」の論理は達成されつつあるように見受けるし、いつでもいいと準備は完了なのである。 社会的役割もほぼ完了している。 残されるのは、孤独の晩年の姿のみである。 余りいい見かけの生き方は残っていない。 ただ、死神様に祈って、時間をつないでいくだけだ。 ひたすら祈りのある晩年のみである。 心の問題はそれで済むのだろう。 しかし、この老体の処理の仕方が一番厄介である。 いつかは自然に崩壊していくのだろうが、一日一日はなかなか進まない。 飯は食わねばならないし、酒は飲まなければならない。 そして、やがて医者にかかって、ベッドにくぎ付けになってと、ゆっくりと静かに進行していくのだろう。 それは実に長い工程になるのだろう。 その間、何を思い、何をして生きていくのか。 そこが問題である。 余り人は巻き込めない。 ただ、妻も同じような状況だから、ここは否応なくお互いが巻き込まれる世界がある。 このぐじゃぐじゃの関係をずるずると引きずって、どこにでもある見苦しい晩年を作りあげていくのだろうか。 念願になっているはずのホームページの作成も、今ひとつ身が入らない。 何故だろう。 創作意欲がほとんどなくなってしまっているのだろう。 もう何か理解しなければならないという問題意識はなくなってしまっているからだろう。 世の中のままならないのは、こうした出家人間のかかわることではないし、死の対する不安についても、もう勉強し終わった感じである。 まだ「生きとし生けるもの」に対する愛情や憐憫というのにはつながっていない問題は残っているのだが。 信仰問題は、いまだ未完には違いない。 多分、ここが唯一のやることとして残っているのだろう。 「生きとし生けるもの」への共感と人類愛とでもいうものだろうか。 そんなものの探求は残っているのだろう。 この肉体をどうしようかという問題は、今や健康問題として急務として上がってきている。 こちらの方は、実質的にこれからJICA試験が受かるかどうかという、最後以前の一仕事の一部として日々気になるところである。 晩年を迎えての身辺整理も同じような命題である。 本を片付けなければならないのだ。 残りの時間と残りの本の量を比べると、時間の方が足りないのかもしれない。 これも健康問題次第ではあるが、このところの体調の悪さから見れば、なかなか片付かない状況ではある。 JICAの二次試験は、後4日後である。 もし、今日みたいな体調だったらという不安が増している。 血圧が急に上がってきたことが原因であるとは思うが、何故そうなってきたかは掴めていない。 暴飲暴食の結果には違いない。 加齢現象も気にせずに、食い意地にまかせて行動していた生活習慣の結果ではある。 この問題でも、やっぱり、ここまできていまさら何を、という思いがあるから、比較的投げやりである。 余り、真剣に対処しなければという準備がないのが辛いところである。 もう、ケセラセラ、なるようになれという心境であるから、ちょっとこれまでの対処法では当たれない。 こんなやる気のない状態での、「生き続ける」がどうなっていくのかという新しいテーマである。 確かに、ここ数年で起こってきた事件は、否応もなくパラダイムシフトを迫ってきている。 それを、どんな新しい発想で処理できるのかが、そこで躓いているのだろう。 気力、体力、我慢の衰えをどんなものでカバーしていこうとしているかが見えないのだ。 スローライフのスピードが、どの程度が適当な速さかが見えないのだ。 枯れ木の案山子よろしく、外見だけで中身はぼろぼろと隠して生きるか、身も心もぼろをまとって姥捨て山で過ごすか、何かの選択が迫られているのだろう。 こんなところまで来て、心はちじに乱れるのだ。 というより、岐路に立ってどぎまぎと戸惑っているだけなのだ。 老人のうろうろ徘徊の始まりである。 受験戦争 平成17年12月21日(水) この時間帯の山場は終わった。 JICAの二次試験が、可もなく不可もなく無事に終わった。 TOECは、進行が速過ぎてついていけない。 前回の方がきっといい点になるのだろう。 結局、生涯900点の大台には乗せられなかったという結果だ。 これからは益々反応が鈍くなって、あのテンポの速さについていけなくなっていくことだろう。 余り緊張すると、血圧の上がるのも心配になってきているのだ。 面接の方は、なんと言ってもリピーターの地の利があって、何でもかんでもしゃべりまくった感じである。 他の人の時間に比較すると、大分短かったような気もするが、果たしてそれがいいのか悪いのか。 案の定トルコではなくて、シリアでもいいのかという質問があった。 これは、いけるところがあればどこでもという所だから、最低シリアには行けるのかもしれない。 家内の不機嫌は覚悟しなくてはなるまい。 それはそれで生きていくという努力とは比較はできないのだろう。 すべて覚悟の上の老後なのだから。 特に、今度からは1000日の父も終わっているから、まさに自由気ままな老後のお遊びという話になってしまうのかもしれない。 死場を求めての気楽な行脚の旅である。 危険や事故に対する不安さえ余りない。 とりあえず無事に終わったことだけで良しとしなくては。 後は運を天にまかせてである。 来週初めに、なんとか健康診断書を発送したいものである。 こうして最大の関門を無事通過できたのも、心配された歯の問題が恐れたようにはならなかったからだ。 この日までに、残りのぐらぐらの前歯が抜けてしまうかもしれない、入れ歯を使えなくなるかもしれないという心配があった。 それも何とか、みっともないのはしかたがないとしても、話を出来ない状態にはならなかった。 この山場の面接が終わったのを機に、今日は歯医者に通い始めた。 新しい担当の医師は、ほんとに威勢のいいおばさんで、何と今日のうちに残りの6本の歯を全部抜いてしまった。 3時間もかかる大治療、いや大手術の態であった。 長い時間と痛さで思わず涙を流したものである。 まさに歯の治療も、死に至る病のひとつであろう。 これで完全に歯痛の心配はなくなった。 もう抜かれる心配は無用である。 これで還暦を迎えるまでに新しい入れ歯の出来る見通しもついた。 相当大胆なやり方ではあるが、こんなものは余り時間をかけない方がいいのだろう。 きっと、こうした病院を選んで成功なのだろうと思う。 しかし、3時間も病室の中にいたきりだと、やはりこれから先に来るだろう病院生活が思いやられて、なんとも辛い思いをしたものだ。 痛さよりも、こうした最後の場面を思い浮かべる悲哀が、涙につながったのかもしれない。 日めくりは、後戻りできないの理である。 いよいよ時間ですよ、の新しいページを垣間見た一日である。 これで、歯医者通いも結構忙しくなりそうで、さあここから年末大掃除でもと思っていたのも、ちょっと出鼻をくじかれた感がある。 まあ、次の場面展開に向けて踏まなければならない一歩をまた踏み出したというだけなのかもしれない。 生きている限り、こうした日々の展開は続く。 ただ徐々に場面が病院や養老院という場所に移っていっているだけなのだろう。 くわばらくわばら、である。 医学の進歩 平成17年12月30日(金) 健康オタクとしての関心は、今血圧と入れ歯にある。 血圧の方は、手首型血圧計を手に入れて毎日計測し始めた。 これから何か手がかりがつかめてくるだろう。 もうひとつのテーマの入れ歯の話である。 これは、40歳以降いつも私の健康にとっては頭の痛い問題として続いてきた。 遺伝性の糖尿病と歯槽膿漏の可能性である。 ジョギングを続けてきたこともあって、歯はそれ以降次々と腐って抜かれていった。 ヨルダンに出かける前は、前歯3本と右下奥歯2本を残すのみとなっていた。 なんとか2年もってくれと祈りながらの生活であったが、幸いグラグラになりながらも、2年間は現地の歯医者にかからずに済んだ。 その意味では、出かける前に作った入れ歯は成功であった。 しかし、前歯3本がどんどん前に出てきて、漫画のバガボンのパパ現象は進行していき、いかにも老人の歯となって、写真を撮る度に恥ずかしい思いを新たにしてきた。 ヨルダンでの写真は、この最後の歯の残骸を見る思い出、いつも寂しく眺めなければならない。 妻に馬鹿にされる由来でもあった。 そうして今回いよいよ最後の入れ歯作りを開始した。 歯のない状態でJICAの面接には行けないと思い、12月20日(火)までは我慢していたが、終わって翌日さっそく歯医者に向かった。 しかし、抜く方はすばやいもので、こちらの未練には関係なく、その日のうちに残りの歯をすべて抜かれてしまった。 いよいよ歯のない老境が始まったのである。 これで、入れ歯が出来るまで当分は不自由しなければならないと覚悟の通院ではあった。 案の定これまでの入れ歯では、ほとんど食事の出来ない状態になった。 しかし、ここは偉いもので、こうしたこちらの不安は、簡単に払拭されていったのである。 医学の進歩とはという驚きのこの頃なのだ。 まず、歯が抜けた日には、これまでの入れ歯にちゃんと抜けた部分の歯が付け加えられたのである。 前歯がなくなったら人に見られるのはまずいから、当分外に出られないと覚悟はしていたのが、その見かけの心配は初めからなくなった。 笑っても、むしろ前のほんとの歯より見かけのいい歯がついているのだ。 これは第一の驚きであった。 それでも、その入れ歯では、上歯がほとんど上顎にくっついていなくで、口を開ければすぐ落ちてくる。 接着剤もほとんど効かない。 食事をするのに、手で上歯を抑えておいて食べ物を口に運ばないと、誤って入れ歯と上顎の間に食べ物が入って、どうしようもなくなる。 これは困ったと一週間ほど悲しんでいた。 そして年末最後に通院して、この窮状を訴えたら、すぐに分かりましたと上の入れ歯の奥行きを広く直してくれたのである。 これですべてが一件落着の態である。 接着剤がうまく効きだして、あの不自由はどこへやらになったのである。 このすばやさには驚いた。 自分の見ている前で自分の入れ歯が出来てくるなんて、ほとんど想像していなかった。 多分数年前までなら出来なかったことなのだろう。 これにはすっかり感心、感謝感激雨あられである。 うれしくなって、食い欲だけはさらに百倍の様である。 捨てる神ありゃ拾う神ありで、進歩したものであると妙に感じ入っているこの頃である。 ほんとに助かった。 想像していた入れ歯作戦から見ると驚くほど簡単に進んでいる。 ほんとに覚悟の老後が、かくも楽になりつつあるのか。 ひょっとしたら長生きも可能かもしれないなどとさえ思い始めたりしている。 すべてサイボーグになっても、やっぱり生き続けるような話は夢ではない時代なのかもしれないのだ。 ロボットと長生き比べを出来るかもしれないのである。 変なところで医学の進歩に脱帽である。 こうして健康オタクの方は順調に船出している感じである。 今年も後2日を残すばかりとなり、3年ぶりのお正月を迎えようとしている。 JICAの方は、毎日神頼みでひたすら待つばかりである。 もしも、落ちたら、の不安はいつでも付きまとっているが、分かるまでは信じ続けていくしかない。 不安は不安で味わっていくしかない。 とりあえず、その時の準備は余りない。 衝撃が大きいかもしれないが。 こうした時間帯の一番厳しいのが、相変わらず愚や愚や汝の問題である。 なかなか静かに放っておいてはくれない。 次々と責めてくるから、何とか身を隠すことにせいを出さなければという事態は続く。 これも老後の宿命と諦めるしか手はなさそうだ。 こんな狭い家に二人で居るのだから。 なかなか主婦の論理には追いつかない。 イスラム教の学習も、ろくな本がなくて、無駄に読書を重ねるだけである。 やっぱり皮相な文化としか見えていない。 書く方も書く方で、みんな外見の描写しかないのが不思議だ。 それ以外に深まらないというのは、つまり、結局外面規範宗教でしかないという結論なのだろう。 これは追いかけても、余り実りのない学習にしかならなそうだ。 コンピューターの勉強の方がまだましかもしれない気がしてきている。 音楽の学習の方が楽しみが多いと見えて、だんだんそちらに傾倒していく日々である。 リズムとは何ぞやである。 この年でよくやるものだ。 感心、感心。 よいお正月を。 2006年 三年ぶりのお正月 平成18年1月1日(日) 久しぶりにお節料理をご馳走になった。 娘の作ったお節料理である。 妻のお節とはまた違う教室で習ったきれいなお節料理である。 お陰で、大晦日はてんやわんやで、ゆっくり紅白歌合戦も見ていられなかった。 長女と三女は、海外旅行に出て留守である。 妻のお母さんも呼んで、4人でほとんど真夜中、年が明ける時間になって、やっと夕食にありつけた。 たっぷり時間がありすぎて、ついついお酒を飲みすぎてしまった。 健康オタクとしては大失敗である。 今朝起きたら、ちょっとした二日酔いであった。 もう新年の朝を迎えても特に感動はない。 とうとう2006年までも生きてきたかという程度である。 一年の計画も特にない。 ただ、健康に気をつけて、行けるところまでいくという程度である。 一応近所の氷川神社に初詣には行ってみた。 ただ健康と無事を祈るばかりである。 ついでに受験の合格祈願までしてきた。 全くのご利益宗教である。 信心などないのだ。 ちょうど今法然、親鸞の宗教改革の話を読んでいるところだ。 さすがに日本の話だけに良く分かる。 一方でイスラム教研究は、余り進まない。 というより、余りに違いすぎる宗教ということが分かるにつれて、興味はどんどん減っていくというありさまである。 キリスト教に見てきたような視点は、どこからも得られない。 ただ外面規範宗教として嫌気を誘うだけである。 おおよそ、こちらの概念にある宗教とは異質なものだ。 余り学んでもご利益はありそうにないという結論である。 ひたすら趣味の探求と、健康管理の日々になるのだろう。 テレビのスポーツ観戦も、三年振りでし三昧である。 新年の駅伝のオンパレードだ。 二年間のブランクはあっても、余り情報不足とはなっていない。 歌や芸能番組は、全く情報不足でとんちんかんとなっているが、スポーツの方はそれほど変わっている訳ではなさそうだ。 話はだいたい通じる。 世間の普通の社会生活が大分縁遠くはなっている。 つまり、社会から引退しているという実感ではある。 これまでのような帰属感はもてない。 どこか遠くの生活のように見える。 こちら側は老後の被阻害者生活なのだろう。 なかなか環境というのは難しいものだ。 サラリーマン引退後というのは、男にとっては景色がすっかり変わってしまってまごつくが、妻の方はそうした急変がないだけに楽な様子である。 昨日までと変わらない台所生活を続けることができるのだ。 こちらは一日中家の中で暮らす生活様式にはなじんでない。 どうしても違和感が残る。 急変感がつきまとうのである。 やはり、何か活動することを見つけて外に出ることを続けるしかないのだろう。 なかなか難しい命題である。 とりあえず、後3週間はJICAの受験結果待ちの不安な日々を送っていくしかない。 その後のことは、今のところ何の予定も立たない。 良い結果報告を待つばかりである。 三年振りの新年も大分様子を変えつつあるのだ。 i-Pod 平成18年1月9日(月) 今日は成人の日で三連休の最後の日になる。 成人の日は一月十五日と馴染んで育った者には、あまりピンとこない成人の日ではある。 我が家も、もやは成人の日とは縁のない世界に移っているから、休めさえすればいいのだろうが。 そんな三連休は、再びパソコンのOS入れ替えに終始した。 長い道のりであった。 動機は、すでに何度も試しているとおり、これまで使ってきたMS Windows 2000 ProfessionalというOSがどうしてもエラーが出てうまく立ち上がらないし、うまく動作しないで、毎回エラーを引きずりながら作業をしていらいらが募っていたためである。 そろそろやけくそ気味になっていて、少し冒険してもいいという気になっていた。 これまでは、安全を先にと思って、このノートパソコンに付属しているリカバリーパックを使ってWindows 2000のリカバリーを優先してきたが、どうしてもエラーは消えない。 そして、今回挑戦していたのが、娘にもらったMac i-Podという新しい携帯音楽機器に音楽を取り込もうという作業であった。 ところが、この作業に必要なi-Tunesというソフトをインターネットからダウンロードする必要に迫られた。 この作業はWindows 2000というOSでは、どうしてもうまく動かないのである。 新しいサービスパックを使ってアップデートしてみたり、いろいろ試みたがどうにもうまくいかない。 とうとう業を煮やして、えいっ一気にWindows XPに変えてやろうという賭けに出た。 ヨルダンでもらったWindows XPのCDをいつか試してみようというのが、ついに実現したのである。 しかし、日本語版はうまく動かず。 英語版はうまく動いた。 Windows 2000に比べると、かなり安定がよさそうである。 ところが、うまくいったのはすべて英語版の入力である。 やっぱり、MS WordでもExcelでも日本語入力ができないとなんとも不便である。 そして最後に娘の日本語版Windows XPを借りて、漸く日本語XPのOSまで辿りつく。 この作業を繰り返すだけで、丸々二日間を要して、目も頭も肩もくたくたの態である。 疲れた疲れた。 しかし、これでもまだまだ問題は尽きない。 ひょっとしたら、このOS CDはWindows XPのお試し品で、一ヶ月の期間限定の恐れがあるのだ。 外付けのDVD装置がうまく動かない。 日記のフロッピーが蹴られてしまう。 何ひとつ思い通りには進まないのだ。 ただし、念願のi-Tunesのダウンロードには成功した。 いよいよi-Podが使えそうになったきたのである。 長い道のりである。 OSとしても大分安定しているように見える。 ただ、多少重くて遅くなるのは否めないが、Windows 2000でも決して速いとは言えないCPUだったので、この点は多分我慢できるのだろう。 ひとつの大きな革命を迎えたのかもしれない。 清水の舞台から飛び降りて成功したのかもしれない。 御節三昧のお正月気分も漸く終わりつつある。 また、普通の日常が戻ってきた。 それとともに、ひたすら待つ身の辛さも蘇っている。 もう後二週間の運命にまで辿りついてはいる。 ただ、蜘蛛の糸1本の命綱だから、まことに心細い。 もし駄目だったらの不安は消えない。 これも後数日の我慢ではある。 蓋が開いたら、そこからまた出直すしかない。 三年前のあの苦しみを思い出せば、何事もそう大変には思えない。 ただ、やっぱり同じ境遇にはあるのだから、同じテーマの恐れとおののきが再燃する可能性はいくらでもある。 開き直ったといっても、何からも解放されている訳でもない。 ただ、健康問題も進んできている分だけ、諦めは進んでいるのかもしれない。 少しは仏教改革の話も読んでみてはいるが、頭の知識集積でしかない。 心の安らぎにはつながらない。 心老が募るばかりである。 かなり急な速さで坂を駆け下りている感じになっている。 妻の方はそれほどでもないのだろう。 従来からの生活スタイルが特に変わったわけでもないところが強い。 旦那が働いていようが、いまいが、生活苦がない限りは同じような日常が続くのだ。 これは得である。 夫の代わりに子供たちが、毎朝働きに出る光景は、これまでと何も変わっていない日々を与えてくれる。 日々の時間割も変わらない。 旦那の方の失業状態とは大分違う。 老いのスピードの違いもこうした環境変化への適応力の違いとも関係するのだろう。 こちらは毎日の朝のテレビのつまらなさだけでも腹を立ててみる。 妻の方は、まったく逆だ。 自分が従来から慣れ親しんだテレビ番組で一日を組み立てられる。 なかなかこのギャップは埋まらない。 やはり用済みの粗大ごみという比喩は当たっているのだろうと思うしかない。 こうした馬鹿げた僻みだけが募る日々でもあるのだ。 早く結果が出て次の2年の過ごし方が決まらないことには。 健康問題、心老問題、みんな時間との競争になってきている。 内面探求難 平成18年1月18日(水) ひたすら待つ身の辛さ。 身の置き所の難しい身の上である。 三年前と同じような立場ではあるが、気分はまったくの楽勝である。 もしも駄目だったらの不安は多少あるが、この前とは大分違う。 絶望感は全然ない。 ただフランス語、イスラム教、パソコンの学習に終始するだけである。 依然として社会とのつながりがある前提での行動である。 もう世を捨てた身の上であるはずであるが、銀行問題だけではつながっているのだろう。 生きて死ぬという目標は、大分達成されているのだろうと思うが、なかなか回りは許してはくれない。 回りと言っても家族、あるいは妻だけであるが、放っておいてはくれない。 自分の時間潰しの相手が要るのだろうが、やはり少しは厄介に感じる。 これにいらだって日々を暮らすという情けない状態ではある。 ひたすら待つ間はしようがないのだろうが、その後どうするのかは難しい。 こんな生活苦でうろうろしているのは情けないが、それもこれも生活苦、飯を食わねば生きていけないという人間の業にさいなまれているのだろう。 その飯を握られている間は、なんとしても逃げられはしない。 本来なら、今こそ自分の内面の探求をしなければならないのだが、そんな方向にはまったく向かえないでいる。 というより、何も探求されるような内面がないかのような状態である。 これまでは生活苦から逃れるための内面逃避があっただけなのかもしれない。 こうして平和が達成されそうな環境ができつつあっても、実はそれを求める対象がないという話になると、まったくの漫画ということになる。 完全に内面が俗化されていると事実だろうか。 心の平和を求めてきたはずなのが、最後に悩まされるのが妻の老後だけという話になるのは何とも情けない。 まだまだ社会生活が続くという事態であろう。 或いは、老後にとってこの環境が一番悪いということを意味しているのかもしれない。 こんな狭い部屋にすることもなく向かい合っていると、どうしても性格のぶつかり合いしか残っていないのだ。 大人二人だけで暮らすのはいかに難しいかである。 結婚して、もし子供がいなかったらと思うとぞっとする事実だ。 そんなぞっとする時代が、いまや事実となって目の前にあるのかもしれない。 こんなに年とっても性格は変われないのだから、いつでも来るものは来るということなのだろう。 とにかく困ったものだ。 健康問題から信仰問題へが課題であるが、もっぱら健康問題の方である。 こちらは物理的な問題であるからタックルしやすい。 こちらの血圧問題は、少しずつ実態が掴めかかってはくる。 こうして毎日観察しているのだから、こちらは進むのだろう。 自分の体は、自分が一番分かるという訳であろう。 なんとか運動と食事療法で血圧を下げる対策である。 少しずつは成果が上がりつつあると見たい。 水泳が一番効果的な運動とみられるが、この寒さでなかなか実践できないでいる。 入れ歯の治療も水泳ができない理由になっている。 歯が一本もなくなって、接着剤だけで着ける入れ歯は、水の中では浮いて外れてしまうのだ。 これは問題である。 新しい入れ歯ができるまではほんとに泳げるようになるかどうか分からない。 次のテーマである。 こちらの物理的健康問題も、何とか社会的生き残り運動としての活動である。 健康問題の深刻化に伴って、信仰問題に移っていかなければならないのだが、ほとんど深刻化していかない。 もう用意ができているという前提なのだ。 もう少し、「生きとし生けるもの」の問題としての捉え方が足りないのだ。 自分の身の回りしかがテーマにならない狭さがある。 これもまた情けない話である。 なかなか思うようにはいかない。 ただただ待つ身の辛さのみである。 それもこれも、後一週間の命なのだ。 ストレス 平成18年1月23日(月) 待つ身もいよいよ後残すところ二日となった。 こう近づいてくると、本格的ストレスがかかってくる。 こんな風に目前に迫った危険におののいて感じるストレスは久しぶりである。 ストレスとはこんなものだったのか、という記憶再現である。 いてもたってもいられないという心境なのだ。 やはり「失敗」に対する備えがないという不安である。 駄目だったらどうしようという不安に苛まれるというストレスである。 どうしようもないとは分かっていても、不安は隠せない。 駄目だったらまた一から出直しだと分かっているはずでも、その時に狼狽を想像して悩むのである。 今更、なんでうろたえるのかという覚めた目もないではないが、まだまだどうしても先を約束されて生きたいという社会的欲求を捨てきれないということなのだろう。 やはり、社会に帰属していたい、家族の一員でいたいという欲求から離れられのだ。 というより、これまで生きてきたやり方、つまり自分のしたいことをする、或いは本当の自分の探求をしたければ、姿をくらますために社会に埋没するしかないという方法論の踏襲である。 身についた方法は、今更変えることができないという訳だ。 社会に帰属して、誰にも指刺されないような体制を整えないと安心して本当の自分にはなれないという前提である。 しかし、こうしてもうそれもせずに済むはずの時代が来ているはずであるが、やはり其処から抜け出せない。 逆に、本当に自分のしたいはずのこと、自分の探求なるもの、そんなものがもうどこにも無いのかもしれないという現象である。 ただただ自分が彼岸に渡る準備だけは整えたと思っているだけで、渡航時間をひたすら待つだけの身の上のように感じ始めているのだ。 例の「もういい、もう沢山だ」の感情が先行しているのだ。 その時が来るまでは、やはり最後まで社会に帰属して身を潜めるしか手がないかのようである。 つまり、自分の中にも他人の中にも、もはや何も隠されたものはないという諦めであろうか。 銀行、健康、信仰の三命題が、社会的な活動として残っているだけ、という今までの延長でしかないという次第である。 だから、土壇場に来て、やはりこれまでと同じストレスを感じているのだ。 全く社会生活から離れていない。 イスラム教を勉強してみたり、禅の学習をしてもたりしても、すべてはこの先の社会的生活を想定しての話である。 その前提となる社会的生活がないとしたら、という不安に苛まれるのだ。 やはり、不用の長物とみなされる不如意生活は耐えられないという事情があるのだろう。 周囲の目というやつである。 勿論、これまでよりはずっと簡単にはなっている。 明日成仏しても誰にも文句を言われないところまでは来ているはずである。 問題は、こちらの側にあるのだ。 まだまだ見られているという感情が残っているのであろう。 この自己の誤謬、これを心身正さないと、いつまでたってもこのストレスの犠牲にならなければならない。 半合格 平成18年1月25日(水) 来るべきものが来た。 もう待つ身の辛さからは解放された。 ただ結果は怖れていた方の内容だった。 シリアのコーディネーターで、派遣期間は1年間である。 すべてが中途半端の結果になった。 それでも落ちなかったことを喜ぶしかない。 妻も覚悟は出来ていたようである。 何とか納得しているようだ。 まずまずの結果として喜ぶべきだろう。 慣れによって、大分贅沢になっているようだ。 一回目の藁をも掴むような解放感とは少し違っている。 なんとかつないだかという感じである。 それでも、これでいよいよ老後の一年目の職は得たことになるのだから、まずまずとしよう。 ヨルダンからシリアへ、なんとも皮肉な流れではあるが、あまりいい思い出のないシリアだから、少々複雑な思いではある。 ひょっとしたら、シリアで命を終えるかもしれないと思ったこともあるのだから、そんな意味では因縁の場所になるのかもしれない。 今回は、初めから作戦の失敗の一言に尽きる。 コーディネーターなど選択したのが、すべての間違いの元である。 黙って普通の技術職にでも応募していればと、作戦ミスを悔やんでみる。 日本語教育の世界に飛び出して、そこの実態を見た時と似たような失敗感がある。 やはり分野や世界が違いすぎて、そこにはそこの激しい競争が待っていたということになるのだろう。 それでも、二本に一本の確率に残れたことは良しとするしかない。 本命のトルコの方は、またやっぱり70倍もの競争があったのだろう。 前回、三年前と全く同じ結果になったのである。 そしてその逃げ場がヨルダンからシリアに変わっただけである。 そして任期は一年、ほとんど同じような場所なのだから、こんなもので十分なのかもしれない。 とりあえず、ヨルダンからシリアへとアラブ圏を巡ってJICAは終わりなのかもしれない。 3年ほど頑張らせてもらったということになろうか。 国民事業としての機会配分の論理から言えば、こんなもので良しとするしかないのだろう。 これから団塊の世代の激しい競争が繰り返されるのだろうから。 なかなかうまい生き所などないのである。 姥捨ての道が残っているだけなのだから。 やはり、テーマは信仰への道ということになろうか。 銀行を卒業して信仰へという最後の道である。 少なくとも待つ身の不安が終わるのは大きい。 行き先はどこでも、この地を離れるのは、生きて死ぬの実現を続けていることになる。 鈴木大拙の禅の研究でも同じようなことを教えていそうだから、こうしてひとりで淡々と歩いていくしかないのだろう。 梵我一如の道である。 こうした都会にいるよりは、外国の田舎にでもいる方が、自然と交わる機会が多そうだからである。 静かにそんな道を歩くための一年が準備できたことに感謝しよう。 後一年は次を考える余裕が出来たことを喜ぼう。 当面の不安は去ったである。 なかなか試練の道は遠い。 鈴木大拙の文化周圏論 平成18年1月27日(金) 禅などは何とも難しい。 よくぞこんなものを考え出したものだと感心するばかりではある。 こういう方法論が、本当に可能かどうか理解できるとは思えない。 まあ、すべては解釈の仕方しだいではあるのだろうが。 つまりは梵我一如ということなのであろうが、それを具体的に実行するというのは、確かに難しいというか不可能なことなのだろうと思う。 既成概念のすべては邪魔物であるという所は、確かにその通りだろうと思う。 その既成概念のすべてを離れて、無一物の世界から再出発する。 つまりは赤子のように何もインプットされていない状態に立ち返れということなのだろう。 自然と一体になれる状態、つまり生まれたばかりの状態で、自然の只中に立つというか、自然という母の胸に懐かれる状態を作りだそうという試みであろう。 しかし、本当にそんなことが可能だろうか。 素朴さの獲得ということに近いのかもしれない。 誰かの言った最も素朴な農民が救われるというような話と似ている。 雑念、欲望、煩悩、そんな世間の汚れを身につけない人、それが望まれているだろう。 それが、人間の元々の姿としての「無」と言われるものだということなのか。 しかし、ひとたび穢れた凡人が、そうした汚れの全てを断ち切って無垢の状態に到れるのか、その道を示しているのが禅だというのだろう。 風のごとく、流れのごとく、静かな自然の一端として人生を駆け抜けてしまうこと、それが人生の極意で、極楽往生の秘訣というわけである。 でも、こうして考えたりしても何にもならない。 禅は実践でしかない。 原理が分かろうが分かるまいが、自分が梵我一如の境地を達成できなければなんにもならないのだろう。 以前考えたように、座禅の試みは、生きながらにして彼岸を経験しようとすることである、というのと似てもいる。 向こう岸をこの世で体験できれば、死を恐れることはなくなるという実践であると考えてみた。 結構近い原理である。 まあ、いくら本を読んでみてもよくは分からない。 ほとんどの本が、インドや中国の古い時代の教訓から成り立っているため、ほとんど身近に迫ってはこない。 つまり、現代人の生活では、相手とする自然、溶け込むべき自然が見当たらないのだから、なかなか実感をもって昔の人たちの悟りの境地が想像できない。 只の読書になってしまう。 鈴木大拙が、英語でこれを世界に伝達しようとしても伝わるのかどうかは疑問ではある。 確かに珍しさや異国情緒としては神秘的である。 多くの外国人が、これを神秘主義と呼ぶのもなんの不思議もない。 私たちにでさえそうしか感じられないというのが、本音なのだから。 まあ、その世界の人たちにとってどのくらい現実味をもって禅問答が交わされるのか実体験してみたい気もするが、とても時間がたりない。 今日のテーマは、こんな禅の話ではない。 鈴木大拙が、禅の研究の中で、日本の禅が、インドからの仏教伝道の道の最終駅になっているという自覚をしていたことがテーマである。 文化周圏論と同じような発想が、そこにあって、ここから先に行くところがない。 しかし、その先はアメリカ、つまり西洋があって、日本の役割は、この東洋の洗練されつくした文化を西洋に発信することだと自覚していた点である。 つまり、インドに発して、中国という一大文化圏で揉まれて十分に成熟した禅という文化をもらった日本が、さらにそれに日本的洗練を加えて、西洋に伝えていくという発想である。 そして、もうひとつ面白いのは、法然や親鸞の大乗が、この日本禅の精神と一致しているというから面白い。 天職 平成18年1月31日(火) 健康問題を身近に控えて、いよいよ究極のカウントダウンに入っているのだろう。 体調は一進一退で、もう元に戻ることはないだろう。 下り一方向であろう。 そうして残り少ない時間を抱えて、さあこれからどうしようかという迷いがある。 勿論銀行問題もあるが、もはやメーンテーマにはなりえない。 もう食っても食わなくてもではある。 ただ、実体としては日々三色食らうということが、いかに大変な業であるかは、身にしみて感じる。 健康問題も食うことと表裏一体である。 ただ、これはもうテーマではない。 食い欲は十分あるが、何を食うとかのこだわりはない。 もう歯は残っていないし、内臓だってもうへばっているのだろう。 残されたテーマは、最後の信仰問題だけと見ていい。 最後の仕事、或いは天職として信仰人、或いは詩人として活動するだけなのだろう。 詩人として目指すもの、それは「心の平和」である。 信仰問題の主題も同じである。 もう食う食わずを離れて、この最後の天職に一刻一刻向かわなければという気持ちだけだ。 社会生活としてのうわべとは別に、真の天職として、こちらのテーマに向かわなければならないのだろう。 何事も愚のせいにして逃げてきたことをご破算にして、いよいよ自分の内面の探求を始めなければならない。 とは感じるが、問題なのはその内面である。 社会から離脱して自由の身になってみると、肝心の内面も一緒に空になった感じなのだ。 これが、戸惑いである。 さあ、やっと待ちに待った時間が来た、と思った瞬間に、実はそこが終着駅同様に、この先線路がないという訳である。 つまり、あるはずと思っていたものが、実はないのだから、これからは道無き道に入っていくしかないのだろう。 ここから、一からの学習から始めなければならなそうなのだ。 外国語や音楽や絵やらなら、今すぐ始められる素材は揃えてきているのだろうが、肝心の天職、心の探求は、と問われると、すっかり呆然として立ち尽くすしか手がかりがない状態なのだ。 これは一大事である。 こうして禅の本や、イスラム教の本を読んだりしていても、少しの参考にはなるが、知識だけで何の実践にもつながらない。 心の平和など、どこ吹く風という感じにしかならない。 やはり、旅に出たり、孤独になったり、という修行が必要なのだろう。 こうした都会の日常から得られるものは、梵我一如でも、空の会得でもなく、ただ年取った社会のあぶれ者の憂き目だけなのだろう。 宇宙も風も空もここからは感じられないのだ。 花や蝶と遊ばない限り、梵我一如の悟りには達しないということなのだろう。 この大都市の一刻一刻が仏の技という感覚にはならないのだろう。 この狭い世界で、どんなに実験を試みても、あまり修業の効果にはつながりそうもない。 やはり、すこしずつ詩作、思索の習慣を取り戻すようにして、内面に沈潜していくしかないのだろう。 より深いブッダやキリストの理解を図っていくしかないのだろう。 ただし、もう頭の訓練は要らない。 心の訓練を残すのみなのだ。 天職への道、日々一刻一刻が急がれるはずなのだが。 幼な馴染み 平成18年2月7日(火) 35年振りに幼な馴染みと対面した。 子供の頃に一番良く一緒に遊んでいた友達である。 足立区の方で立派な焼き鳥屋を開業している。 会社を経営し、店を二軒も持っているという。 東京に集団就職してきた同窓生の中で最も成功した人だという。 もう孫も4人もいるという。 なかなか立派なものである。 ふらふらと雪の中を遊びに行って、ビールや料理をすっかりご馳走になってしまったものだ。 東京に出ている小学校、中学校の同窓生の世話係もやっているという。 立派なものだ。 こちとらは、まったくの無関心でやってきた世界である。 もうすべてが終わりになって、また子供の頃の話をしても始まらないと思っていたから、なんとも今更と思うしかない。 もうそれぞれが老後を歩み始めているばかりだから、お互い静かにしていたいと思うばかりである。 我々サラリーマンと違って、自家営業者は定年がないだけ、老後の生き方は楽であろう。 そのままの生き方が続けられるのだから、私たちの感じるような疎外感、喪失感は持たないで済む。 まあ職業の違いなのだから、それまでだ。 これまで、我々よりずっと苦労してきたことだろうから。 まあ、余り乱されないように相手していくしかないというところか。 そんな感想である。 研修開始 平成18年2月14日(火) 昨日から派遣前研修が始まった。 JICAのSV制度も過渡期に当たっていて、3年前の研修とは色々変わってきた。 これも、もう今年で最後になるらしく来年度からは、JOCVと一緒に駒ヶ根や二本松の合宿研修になるようだ。 大分、私が最初にイメージしていたような本格的ボランティアに変わっていくようであるが、応募者は減るどころか、どんどん増えていっているという。 これからいよいよベビーブーマー世代の登場になると、やはりこうした失業対策事業は栄えてくるのだろう。 前回、12名一緒にヨルダンに出かけた同僚も、また6人参加している。 半分がリピーターというわけである。 全体でも、200人中110人までがリピーターで占められているという。 今回一番変わったのは、前に比べると随伴家族の数が少し多いことだろうか。 私の妻も、その一人である。 そして、私以上に張り切っているのを見るのが、ひとつの楽しみではある。 これがいつも私の理解できないことなのであるが、3年前もそうだったのだが、私の方は、妻は母親や姉のそばにいるのが好きで、決して外国生活など望まないのだろうと思っているのだが、結果はいつもその反対に出ている点である。 結構、こうして私と一緒に外国生活するのを望んでいるようなのだ。 家にいて、子供の世話をしたり、親族の世話をしているより、研修会に出たりする方が楽しそうに振舞っているのには驚いている。 生来が内弁慶で、親族や家族といちゃついている方が得意なはずなのだが、結構外に出て人前に出るのも嫌がらずにやっている。 中でも好きなのはショッピング、いやウインドウ・ショッピングというべきだろうが、買い物の時間帯だけは、文句も言わないし、疲れも見せない。 ほんとに好きなのだろう。 それに付き合う私の方は、買い物は最も苦手ときているのだから、ほんとに性格の不一致か、趣味の不一致とでも言うのだろうか。 まあ、こんな話で、研修会が始まって任地への出発が近くなって、張り切っているのはむしろ妻の方であるというのが実態である。 もうすぐ、大好きな荷造りも始まるし。 一方、本人の方は、二回目ということもあって、余り新しさもないことや、健康問題が気になること、任地の選定に失敗したことなど、気に病むことはあっても、それほど楽しめることはない。 まあ、淡々とノルマをこなしていくだけである。 風邪でもひかないように気をつけなくては。 相変わらずパソコン整備、カラオケ体制作り、i-pod整備に追われてはいるが。 0歳宣言 平成18年2月19日(日) 今日は、我が家で一番大切な誕生日である。 長女と三女の合同誕生日である。 それぞれ31歳と23歳だという。 今日は、雪は降らなかったが、二人とも生まれた時には、雪の残っていた思い出のある日である。 そして、この頃はちょうどひな祭りの季節に当たっている。 つまり、私の誕生日の季節でもあるのだ。 つまり、娘たちの誕生日の二週間後には、私自身の誕生日もやってくる。 これが、大切な季節の理由になっている。 特に今年は、還暦の年に当たっており、この日を特別な気持ちで迎えようとしている。 つまり、すべてからの解放記念日にしたいと思って迎えるのだ。 これまでが、私の人生、十分に生きた人生の終わりとしようという意識である。 ここまで生きれば十分という感じで迎えるのだ。 そして、これからはおまけの人生、というより、全く新たな人生ということにしようということだ。 生まれ変わるのだ。 誰にも邪魔されない新たな幼年時代を向かえようというのである。 0歳宣言である。 これまで、やろうとしてやれなかったことを新たに始めても遅くはないという宣言である。 60歳にしての手習いを始めようということである。 すべてのやりたかった文芸、これをする余裕もなかったし、出来てこなかった。 一番遅れてしまったのは、絵である。 手が動かない。 ここまできてしまったが、これから赤子の手習いをしようということである。 音楽もこれからヤマハ音楽スクールに通おうという訳である。 ギターの弾き語りで笑われているが、これから本当のリズムを身につけるのだ。 本や理屈はもういい。 こちらは、何も仕組まなくても出来るくらいに熟練している。 これは、飯食うための手段として使っていくのはいい。 全くの時間潰しになるのだ。 本当の手習いは、0歳からの学習である。 指がどう動くのか、手がどう動くのか、この訓練である。 体を使っての学習である。 幼稚園のお絵かきから始めなくてはならない。 頭はいやというほど大きい。 こいつに文句を言わせずに、手を動かす訓練である。 なかなか素直に手を動かせない。 色んな大人の屁理屈で逃げ回ってしまう。 簡単な方へ簡単な方へと逃げ回ってしまう。 これをなんとか子供の好奇心に戻して手を動かしていかなくてはならない。 そこには「生きとし生けるもの」へつながる道も見えている。 子供の好奇心と自然の恵みと、そんなすっかり忘れてしまったものを一から始める時節がきているのである。 これを阻もうとするのは、年齢から来る健康問題だけである。 そんな嫌気におかまいなく、ただ、無邪気に始めるしかない。 覚悟 平成18年2月22日(水) 芭蕉の覚悟などを読んでいると、当時の素朴な生活の味が懐かしくなる。 自然と一体となって生きていられる時代のいいところなのだろう。 数寄こそ物の上手なれ、という覚悟が良く伝わってくる。 私の覚悟は、大学生の時代に読んだ日本の近代史から覚えた「戦争絶対反対論」である。 日本人は、よく戦争をしてきたものだと痛感した。 そして、自分の生きている間だけでも、一度も戦争に会わずに生涯を終えたいものだと誓った。 戦争をしそうになったら、体を張ってでも反対しようと覚悟を決めた。 でも、幸いそう覚悟したのは、私だけではなかったらしく、日本人は本当に戦争を嫌いになっていたのだ、いや戦争はこりごりだと思っていたようだ。 どうやら、私の覚悟も一度も発揮せずに人生を終えられそうな気配であるのは嬉しい限りだ。 そんな役に立たない覚悟の代わりに、何か数寄を育てていくしかない時代だったのだろう。 それはそれでいい時代に生まれ育った幸運と思うしかない。 ただ、これまでは数寄よりも生活優先で生きてきた分、芭蕉のような晩年は迎えられない。 いざこれから弟子入りの方である。 語学、音楽、絵画となるのだろうが、もはや60の手習いになってしまう。 それでも恥じも外聞もなくやっていくしかないのだ。 今度は本当のカウントダウンとの争いである。 このカウントダウンは、先が読めない。 いつでもサドンデスありの競争である。 健康問題破綻の兆候は、いくらでもある。 ちょっとした変化でも、これで終わりかなと思う日々である。 のんびりゆっくり、時間と戦っていく戦争の覚悟になるのだろう。 行く道も大分寂しくなってくる。 こころとの最後のふたり旅になるのだろうか。 JICAの事前研修もあと一日を残すところまで来た。 後一月で再び出発である。 今度は、出戻りの感が強くて、あまり新鮮さも決意もない。 研修終了 平成18年2月24日(金) 9日間の研修が終わった。 あっという間である。 特に目新しいこともなかったが、SVだけの研修のやり方がこれからJOCVと合体する方向に変わっていくという流れが、より鮮明に見えてきたことである。 つまり、少なくとも次に受ける時からは、こんな短い研修ではなく、駒ヶ根での35日間の合宿研修になるということである。 その後平成19年度以降は、JOCVと一緒になって75日間の合宿研修になるという。 まだ健康が許されるなら、一度参加してみたい気にもなっている。 こうした方向は、私の感じている援助方法に近いものであるから、きっとこれが正しい方向だと思う。 今のSV援助方法を見ていると、なんとなくまた年寄り派閥のようなものが出来上がってきて、普通の人は入れない雰囲気が出来つつあるような気がしている。 援助お仕着せ人間の集団のような気がしている。 目立ちたがり屋の冒険家集団とでもいうのだろうか。 何か異文化理解というよりも異文化進出という感じなのだろうか。 これは、昔の海外移住というのに少し近いかもしれないが、やはり九州や瀬戸内海あたりの人たちの海外移住指向の延長戦上にあるような雰囲気を感じる。 私の指向するような、知的海外援助や異文化理解というものとは、何か違った雰囲気を感じてしまうのである。 老後の健康誇示というか、若いものには負けないわよ指向なのだろうか。 特に女性隊員が「税金の無駄遣いよ」などと怒鳴り散らすのを聞いていると、外交政策とか日本の世界的地位などをどれだけ見て発言しているのかと、少々ぞっとする次第なのだ。 それに似た現象が、「愚や愚や、汝をいかんせん」の続編である。 これからひとりで、語学研修に出かけることになるが、たらたらと嫌味、愚痴の連続である。 相変わらず受身、受身の抵抗路線だけである。 ほんとに何を考えているのかと疑ってしまう。 甘く育ってきた我儘っ子というだけなのだろう。 しかし、ここへ来て感じるのは、これまで30年以上も一緒に暮らしてきているのだが、こうして身近に妻の性格を観察するのは、ここへ来て初めてであるという驚きである。 これまでは、子育てという唯一の絆の下で、それぞれが役割分担が出来ていて、お互いが余り干渉しあわずに自分の分担を果たしてきたので、お互いのことを余り観察したり、分析したりということはなかった。 そんな必要もなかった。 妻の方は、子供や親族にまかせておけばそれで済むような感じで、食事とかテニスとか共通にやる時に顔を合わせていただけで、相手の性格まで見る暇も手間もかけなかった。 それでやってこれたのだ。 それが、こうしてほとんどの時間を二人だけで過ごすようになって、それぞれ独立してやっていきたいとは思ってみるものの、妻の方にはそんなやり方がない。 いつでも傍にいる人を、馬鹿だちょんだといいながら自分のうさをはらしていく。 いつでも誰かにくっついているという前提がある。 こうして、英語研修のように一人で放り出されると、人が違ったような弱虫の性格が頭をもたげてくる。 知らない人の間で、自分の苦手なことをやらせられると、嫌で嫌で居ても立ってもいられないほど苛苛が募って、ノイローゼにでもなりそうである。 健康さえ損ないかねない。 こうした好き嫌いの部分が、激しくてそれが不眠や体の痛みになって現れてくるというのだから、やっかいである。 出来るだけ聞き流して、背中を押し出してやろうとは思ってみるが、少し可哀そうかなという気もする。 ずっと周りの人に寄食して、自分に都合のよいところだけをつまみ食いしてきた結果だろうが、なんとも扱いにくい性格ではある。 これを今から変えるというわけにも行かないのだろうが、当たらず触らずサポートしていくしかない。 残り少ないお付き合いと思うしかないのだろう。 自分のペースを乱されないようにぼちぼちと付き合っていくしかない。 昔の恋とか愛とかはどこへ行ってしまったのかと、つくづくと感じる今日この頃の悩ましさである。 最後の最後まで、決して一人で生きるわけではないという証である。 これから当分、こちらが家庭の主婦役を担わなければならない。 一月後の出発に向けて荷造りもしなければならない。 またまた慌しく社会参加しながらの余生となるのだろう。 過客 平成18年2月28日(火) 芭蕉は旅を家とする。 私の憧れでもある。 自分も今は旅を身の上とするような立場に立てている。 しかし、芭蕉の旅は生業そのもののような旅である。 俳諧を求める旅である。 こちらは生業はサラリーマンとして立てている。 芸の道は日陰の身である。 ほとんどお遊びでしかやってきていない。 だから、旅も嫌な生業からの逃避のような旅になっている。 人を避けたり、世を避けたりという旅になっているのだろう。 若い頃の出だしの旅は、まだ詩を求めての旅でもあった。 あれをそのまま続けるはずだったのが、いつの間にか挫折してしまったのだろう。 結婚して家族を持って、社会に帰属して人並みの幸せを求めたところが、その終点だったのだろう。 そして、それも終わりかけている今は、再びまたその頃を思い出してみようという旅の企てである。 芭蕉によって呼び覚まされるような旅への郷愁である。 しかし、今はもはや一人の旅ではない。 一人で彷徨う旅にはならない。 いつも傍に愚や愚やが付いている。 詩作など全く念頭にない旅になっている。 これが芭蕉との大きな違いである。 もう一度復古しなければならないのだろう。 脇紙と硯、筆がパソコンに変わっていようとも、旅の感懐は当時と同じものがあるはずだ。 芭蕉の旅は、かなり禅僧的であり、宗教追及型である。 私の問題も残りは信仰問題だけである。 そこに詩作がついていようがいまいが、心の平穏を求める旅には違いない。 当時は中華文明だけしか、身の回りにはなかった。 今は西欧文明まである。 物の見方の変化は激しい。 しかし、求める心は同じなのだろう。 最晩年の心の平穏、それを求めての旅路についてみるしかないのだろう。 芭蕉は自然に囲まれて、それを求めることができた。 しかし、今は自然のようにやさしい環境は身の回りにはない。 天候、風景や樹木を見て何かを感じていく世界、それはこれまでの東洋の文化の築いてきた真髄である。 今は回りに人工物しかない。 そこから何を感じるのか。 こちらの方がきっと難しい。 それでもそこに何か共通する心の平穏がなければいけないのだろう。 人間と人間の軋轢が激しくなって久しい。 江戸時代のような離れ小島の物語ではなくなっている。 旅も空を駆け巡るものである。 この間に共通点を見出すのもまた難しそうである。 でも「月日は百代の過客」はいつでもその通りである。 後一月で出発である。 新しい入れ歯はどんな風に出来上がるのか、持っていくパソコンの整備はどうするのか、予防注射は無事終われるのか、荷物をどの程度にするのか、現実の課題の方が悩ましい。 還暦前夜 平成18年3月2日(木) いよいよ還暦である。 十二支を5回も回ってしまったことになる。 ここ三年間の経緯を振り返ると、ここまで無事にたどり着いたというのは感慨深いものである。 社会を引退して、年金受給者になるまでの戦いの終わりであり、激動の期間だったと言える。 一時の不安はすっかり消えて、実に落ち着いた還暦になったことは感謝に耐えない。 やはり、捨てる神ありゃ、拾う神もあったことになる。 ここまでくれば、それも一段落といえよう。 昨日は、これからのサイボーグ健康の最初である立派な入れ歯が出来上がった。 三ヶ月もかけた大作である。 臨時の入れ歯に比べれば大分楽である。 これなら、水泳も安心して出来そうである。 常時着用が迫られているようで、また昔の歯に戻った錯覚を覚えてしまう。 汚れをどうやって掃除するのか、新たな課題が出てきた。 明日から年金の支払い請求も出来る。 老後環境の整備が整っていく。 三年前とは様変わりである。 あれほど、恐れられた愚妻のため口も終わりつつある。 それより、嬉々として英会話の研修に通っているのは、見ていても嬉しいしほっとする。 相変わらずな避けない弱音は吐いているが、その割には元気にがんばっている。 これも三年前と比べると変われば変わるものだ、という感想である。 いよいよ長女も、一人暮らしをしに引越しをするそうだ。 とはいっても目と鼻の先である恵比寿のマンションだから、三女の学生時代の一人住まいよりは気楽だろう。 事務所代わりということだから、いよいよ仕事の上でも一人立ちできているのかもしれない。 これはこれなりに楽しみだろう。 それぞれが独立してやる時代は、もう来ている。 私たちも月末には出発する。 後一年間の見通しはついた形だ。 これからはますます気楽になっていくはずである。 愚と自分の身の振り方を探っていくだけである。 まずまずほっとしている今日この頃である。 ノー天気が続く。 ようやく暖かくもなってきた。 還暦 平成18年3月4日(土) とうとう辿り着いた。 五順が廻って60年である。 この日も何事もなく過ぎていった。 このところ朝から血圧の高いのが気になっていたので、無理やりプールに行ってみた。 血圧を下げる運動には水泳が一番よさそうである。 プールで測る血圧は、いつでもやたらと低い。 家の血圧計が嘘のような数値が出る。 これまでは血圧を測るところがプールでくらいだったから、いつも110〜120程度で安心してきた。 時々健康診断で測る血圧が、それより高い130台であったので不思議に思っていたくらいである。 こうして常時血圧を測ってみるようになって、もう140〜150台まで上がっているのを見てびっくりというのが近況であるのだ。 平均はやはり140まで来ている。 限界値になっているのだ。 狭心症の方は、よく調べてみると、安定労作性狭心症と呼ぶものらしく、それほど危険なものではないと分かって、とりあえず一安心ではある。 慢性病となるのだろう。 一病息災として、気をつけていくしかない。 血圧の高い日に起こっているかどうかは、余り定かではない。 ただ、規則正しく朝食の後、1時間半から2時間の間に起こることはつかめている。 その辺りに準備をして迎えれば、なんとか軽く防げそうではある。 ただ、ここ数日間のように、全くその症状が出ない日もある。 こちらが、どうしてそうなるのかを解明しなくてはならないと思っている。 まさに、還暦を迎えて銀行問題におさらばして、健康問題にパラダイムシフトしていくのだろう。 厚生年金の受給申請も始めた。 まさに、あの苦しい1000日の父時代にお別れできる日が来たのだろう。 そういう意味では、この誕生日は少し嬉しい気持ちで迎えている。 もう子供達も育ったと言っていいのだろうと思う。 それぞれ、この先どうしていくのかは、これまで育てた結果として生きていくのであろうが、まあなんとも手の出しようはない。 子供教育の失敗は、責められてはいるが、まあ言われるほどの失敗ではないだろうと安心している。 性格なども、少し難しい部分もあるが、これも私一人の子供でもないし、半分位の責任で済まされるのだろう。 出来れば、もう少しおっとりとした子供であってくれればとは思うが、こうした生き馬の目を抜く大都会の生活では、とてもそんな性格は望めるものではないことは承知の上での願望である。 とりあえずいい伴侶でも見つけてくれればと願うだけである。 私たちだって、こんなに性格が違ってもやってこれたのだから、うまく子供にでも恵まれればなんとか普通にはやっていって欲しいものである。 もう、私たちの手に負えるものではない。 最大の努力は、何とか子供に手をかけないように老後を過ごしていくことに集中だけである。 そのためにも、何か手仕事に専念するようにしなくてはならない。 どうしても楽な方に楽な方に流されてしまうのだが。 こうして向かえた還暦も、後3週間後の出発に向けての準備に明け暮れることが出来るだけでも幸いとして捉えるべきであろう。 一日一日と向かっていくしかないのだろう。 健康の許す間だけである。 芭蕉日記はもうすぐ終わりである。 五巡り 腑に浸み込む 節句雨 還暦の 腑に浸み込む 雛嵐 雛嵐 腑に浸み込む 夜半雨 夜半雨 昼見た雛は 濡れ地蔵 夢追い人 平成18年3月10日(金) ふとしたことから思いがけない発見をする。 出かける前に一度読もうと思って、シンキェビッチの「クォ・ヴァデス」という本を探してあるいていたら、肝心の本はどこに行っても見つからないのに、他の本に行き当たってしまう。 今回は歌の本である。 前から少しは気にはかかっていたが、始めてみると相当にやりたがっていたのだなと気がつく。 実は、しばらく日本の歌のカラオケ作戦は準備万端に用意してきていたが、外国の歌にまでは手が回っていなかった。 というより、丁度都合のいい楽譜付の本は、なかなか見当たらない。 楽譜があれば歌詞のないピアノ演奏用の本であったり、歌詞があれば楽譜やコードのついていない本であったりした。 そのためほぼ諦めかけてはいた。 また例の如く、ピアノ演奏用の懐かしの外国の名曲楽譜があった。 中身の曲は、昔良く英語や仏語の勉強に使った歌ばかりがずらりである。 しかし、肝心の歌詞が見当たらないのである。 そんな中で、ふと思い当たる節があった。 そう言えば、昔作った「My Songs」のノートがあったっけと。 これが大発見なのだ。 思えば今から丁度三年前の今頃、会社を定年退職することが決まって、何もすることがない窓際の干され状態にあったあの苦痛の日々にやったこと。 実はこの「My Songs」をデジタル化してフロッピーに入れていたという事を。 期せずしてそのフロッピーが役に立ったのである。 そのフロッピーの中から歌詞をとりだして、そしてピアノ演奏本を見ながらコードを付けていくという作業である。 うまく楽譜が読めないので、どの部分がどの歌詞に当たるのかを見つけるのに苦労した。 しかし、これが好きこそ物の上手なれの道理で、この作業にぴったりはまってしまったのである。 初めは一曲でも二曲でも、これからの手慰みになんと思って始めたはずが、なんとつもりつもって十曲も写譜できたことになったから驚きである。 しかも、丸々三日もかかりきりになって、まさに一心不乱である。

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