二宮 金次郎 は 何 を した 人。 二宮金次郎って何をした人?わかりやすく解説【農業の発展につくした偉人】

二宮金次郎の生き方に学ぶ、人としてあるべき正しい道【超訳報徳記 書評】

二宮 金次郎 は 何 を した 人

最近は座像スタイルもあるそうですが、昔ながらの姿というとやはり立像タイプ 「負薪読書」と言われるこのスタイルは、金次郎の弟子・富田高慶が金次郎の没年に出した『報徳記』の中の記述に基づいているそうです。 ところが。 「うちで作っている金次郎像は、薪に似ていますが違うものを背負っているんですよ」 と語るのは、二宮金次郎の銅像を90年に渡って作り続けるトップメーカー、平和合金さん。 一体どういうことなのでしょう? 二宮金次郎像作りの大手、平和合金が語る真実 全国の銅像の9割を作る銅器の町、富山県高岡市。 その中でも「二宮金次郎像」といえばここ、と名前が挙がるのが、株式会社平和合金です。 昭和5年頃から90年にわたり、金次郎像を作り続けています。 玄関先には早速、金次郎像が。 江戸後期に、現在の神奈川県・小田原市の農家に生まれた二宮金次郎。 幼い頃に両親を亡くしながら勉学と家の手伝いに励み、24歳で家を再興します。 その才を買われて幕府に取り立てられ、全国各地の村を復興。 建て直した村の数は600にのぼりました。 「大事をなさんと思わば小なることを怠らず勤むべし、小積りて大となればなり」 などの格言が象徴するように、農家一軒一軒が身の回りでできる工夫を奨励して村全体の再建に取り組んだ、農業の改革者。 一方で、勉学に励みながら家を助けた少年期の姿は、親孝行の模範として明治以降の教科書にしきりに取り上げられるように。 これが、昭和の「金次郎像」ブームに繋がっていきます。 「まぁ簡単に言うと金次郎像は親孝行せいと、こう言っとるわけやから」 と真顔で息子の和耕さんに告げる藤田社長。 大型の銅像も作れるよう天井の高い平和合金さんの製造現場 「こうして先祖の預かりもので商売させてもらう以上は、像を通して二宮金次郎の哲学や生き様を知ってもらうことが、何よりの恩返しで、また次の仕事にも繋がっていくと思っています。 銅像を作りながら、日本の誰もが知っている人の思想を広められるってすごいことじゃないですか」 像を売るのでなく、金次郎の哲学を売りたい。 そんな平和合金さんでは、普及活動の一環で全国の自社製・金次郎像の目撃情報を募集しているそうです。 実は古い像は問屋さんを介して納めていたため、どこに設置されているかわからないものも多いとのこと。 手がかりは技術の証である背中の「柴」と、90年前から変わっていない端正な顔立ち。 見かけた方はぜひお知らせを! <取材協力> 株式会社平和合金 富山県高岡市戸出栄町56-1 0766-63-5551 文:尾島可奈子 写真:浅見杳太郎 *こちらは、2019年3月30日の記事を再編集して公開しました。 合わせて読みたい 〈 見慣れたアレの意外な真実 〉 普段何気なく使っているもの、見かけているもの。 こんな背景があるってご存知でしたか? 鮭をくわえた野性味あふれる熊の彫刻。 そういえば、実家にある!おばあちゃん家で見たことがある!という方もいるかもしれません。 ひとくちにハンカチと言っても、今日を共にしているその姿はきっと人それぞれ。 こんなに身近なのになぜ四角い形をしているのか、その理由も知りません。 ハンカチがどのようにデザインされ生まれてくるのか、ハンカチブランドのデザイナーさんに教えてもらいました。 子どもから大人にまで注目される、本物さながらの食品サンプル。 どのようにして作られているのでしょうか?その最先端の現場へお邪魔してまいりました!.

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二宮尊徳(金次郎)の名言23選!仕事/人生/お金/学問の格言もご紹介!心に刻む。

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社員による、パワースポット探訪記。 二宮尊徳(通称・金治郎、なぜか一般的には金次郎で定着)を奉る神社です。 おそらく日本で二番目に、「何をしたかわからないけれどすごい人」ではないかと思われます。 (一番は新渡戸稲造) 有名なのはこの薪を背負って歩きながら、勉強している姿ですね。 母校の小学校にもありました。 もちろん学校7不思議のひとつとして、夜中の校庭を走り回っていました。 金次郎は現在の江戸時代後期に現在の小田原市で、農民の家に生を受けました。 14歳で父を、16歳で母を亡くし、伯父のもとで農業に励んだそうです。 荒地を開拓し、土地を貸してお金をため、24歳までに一家の再興を果たしました。 その後、小田原で武家奉公人として働いていましたが、実家復興の実力を買われて小田原家家老の服部家の財政再建の依頼を受け、見事に成功させます。 それで一気に名声を広めた尊徳翁は、旗本の財政再建や農村復興事業を携わるようになります。 尊徳翁が救済した村は600以上に渡ります。 尊徳翁の生き様を思わせる、質素なつくりの拝殿です。 報徳二宮神社は、ここの他に相模原と日光市今市にあります。 (「二宮神社」はたくさんありますが、直接は関係ないそうです) お近くにお住まいの方は、ぜひどうぞ。

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二宮尊徳って結局なにをやった人?今日から始める報徳の心|日本史|趣味時間

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二宮金次郎ご存知でしょうか? 名前だけ知ってるって人が多いかも。 ぼくはほとんど知らなかった。 「銅像の勤勉な少年」のイメージだけです。 荷物を運びながら本を読んでる。 あれ、危ないですよね。 スマホ見ながら配達してるようなもの。 コンプライアンスの時代、アウトじゃないかな。 かなり面白い本でした。 明治以降の近世が頭にすっと入る。 なぜ彼がもてはやされたかというミステリーもきっちり解き明かされる。 長くなるので、まず箇条書きで簡単にまとめます。 ・1787年生まれ。 1856年没。 ・金次郎は14歳で父、16歳で母を亡くす。 弟は13歳と4歳。 ・子どもらは親戚にばらばらに引き取られる。 ・18歳で奉公に出る。 さらに廃田の開墾も行う。 ・20歳で貯めた金で手放した農地を買い戻し、一家のあった場所に小屋を建て自活始める。 ・24歳の時には1町4反5畝の田畑を所有。 実質的に一家を再興した。 ・31歳では3町8反をもつ村内で有数の地主になる。 ・金次郎は買い戻した田畑は小作に出し、自分は賃仕事をして現金収入を得た。 ・金を貸してその利息でも稼いだ。 米の売買も手掛けた。 ・薪山の伐採権を買って、薪の販売でも収入を得た。 ・語られないが、じつは功利的な起業家。 ・小田原藩筆頭家老の服部家で奉公人になったのは26歳。 奉公人のリーダー格になる。 ・服部家の家計は火の車。 家政立て直しをまかされる。 仕事場から帰らない金次郎。 ・生まれた長男は生後1月で亡くなる。 それでも仕事バカ。 奥さんから離縁される。 ・服部家の立て直しの取り組みが評価され、藩主にも知られる存在になる。 ・小田原藩主からも財政など立て直しを任される。 ・小田原藩以外にもいくつもの藩や領地の再建を任される。 ・天保の改革で老中水野忠邦に、幕臣として採用される。 ・死後に弟子たちが金次郎の業績をたたえまとめる。 ・これを明治天皇がたたえる。 政官界に金次郎の名が広がる。 ・売れっ子作家が一般大衆向けに金次郎のファンタジーを書く。 日本人みんなが知る。 ・富国強兵時代の国民像に金次郎は理想的。 日本中の教科書が金次郎のことを教育する。 ・GHQが日本の共産化を防ぐために、金次郎をたたえる。 ・しばらく金次郎は消えていたが、ふたたび復活のきざしあり。 以下に読書メモを。 二宮金次郎の考えた方策 ・当時の利息は2割と高く元金が減らない。 藩主に窮乏する藩士への低金利融資を提案する。 ・凶作で米の生産高が減じていた。 米は人口と田畑に制約される。 他藩から移民受け入れ。 ・長年の収入と支出を把握してその平均を求める。 収入以上の支出をおさえ倹約する。 ・農民の意欲を出させる。 表彰したり、功のあったものには金やコメを与え低利融資する。 金次郎の考えた冥加金はいまでいうファンド 金次郎が実施した困窮者の救済方法。 まず収入と支出の平均値を求める。 収支計画がたてば無利子の金で借金を返済させる。 10両の借金なら毎年2両払えば5年で完済する。 従来の2割の利息なら永遠に元金は減らないが無利子なら5年で終わる。 金次郎はそこで終わらせない。 無利子のお礼として1年から数年、2両を供出させる。 この供出金を「冥加金」という。 冥加金は貸主の利益にはしない。 それは積み立てられ、また誰か必要な人に貸し出される。 助けられた人が次の人を助ける。 金次郎はこれを「勤倹譲」といった。 収支計画を立て、決まった範囲で生活を営ませることは「倹」である。 そして余剰を出せば必要な人に「譲」る。 譲った金を積み立てたものを「報徳金」といった。 いまでいうファンド。 相互扶助の仕組み。 もちろんその前提に「勤」がある。 こつこつ働き生産を上げる。 毎日縄1本あめば1年後に360本になる。 塵も積もれば山となる。 これを「積小為大」という。 1年後に草履や縄を買い上げてその代金を渡すしくみもつくった。 なぜ二宮金次郎は広まったのか? 弟子たちは金次郎の偉大な業績をまとめていた。 「報徳記」という。 旧藩主経由で明治天皇が読まれた。 天皇は「広くこれを知らしむべし」と。 いろんな団体が印刷配布した。 1891年当時売り出し中の若手作家の幸田露伴。 「報徳記」を下敷きに少年少女向けに流麗な文語で金次郎の一生を描く。 この本が爆発的に売れた。 一般大衆の知るところになる。 銅像の薪と本。 これは事実とは言えない。 幸田露伴のその姿の挿絵があった。 その元は「報徳記」の「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず」という、事実とはいえない一文。 その後、品川弥二郎がドイツ留学する。 1871年ドイツはめざましく発展していた。 信用組合が原動力。 靴職人の原材料の共同購入と購入費の融資を行う購買組合と信用組合を設立。 それは貧しい農民にも広がり、農民信用組合、農協組合銀行ができた。 品川は信用組合は資産資本をもたない日本の大半の零細農民の発展の基礎となることを実感する。 1882年品川は現在の農林水産省事務次官の立場になる。 品川の産業政策は「政府自らことをなさず、一般国民をしてこれをなさしむる」。 いまでいう民間主導。 予算の多くは軍事費。 明治20年代は約3割が軍事費。 日清戦争時は7割、日露戦争時は8割になった。 金はない。 しかし殖産興業を推進する必要はある。 品川の頭には信用組合があった。 しかしドイツのものを日本に持ってきても反発される。 そこで二宮金次郎だ。 「報徳」だ。 品川は明治天皇に二宮金次郎への贈位を推薦。 内務大臣になった品川は「信用組合法」を議会に提出。 とうぜん反対派もいる。 議会で品川は訴える。 「贈従四位二宮尊徳翁の遺法から成り立ってます報徳社は徳をもって徳に報いる精神でありますが、これはほとんど信用組合の制度に異ならぬもの」と、金次郎への贈位をさっそく演説に盛り込んだ。 法案を通すために金次郎を利用し、その強引な手法が批判を呼び、学会や農商務省の反発を呼ぶ。 明治24年の議会は大幅増額された軍事費をめぐって紛糾。 衆議院は解散し信用組合法は廃案になってしまう。 結局明治32年「産業組合法案」として帝国議会に提出され成立する。 品川は同法案が議会を通過した三日後に病で逝く。 教育勅語とは?教科書と二宮金次郎 教育勅語とは一言でいえば、「万世一系天皇主権の国において、その臣民たる国民が果たすべき役割を説いたもの。 道徳的なふるまいがたくさん書かれている。 それが天皇を頂点とする国体を維持するために必要だから。 結局は天皇の言葉は絶対的に正しいので、けっして逆らうことなく命じられたらしっかりと自らの勤めを果たせ、というのが教育勅語の精神」 徴兵制度には各地で一揆がおこるなど、国民の反発が強かった。 教科書は検定化され国定化された。 1897年ごろから修身教科書に歴史上の人物を登場させ、模範を示させるようになった。 この中に二宮金次郎のエピソードが取り上げられるようになる。 全27課のうち「孝行」「勤勉」「学問」「自営」の4つの課で取り上げられており、中には全課の3分の2が金次郎の逸話で構成された教科書もあった。 ちなみに2018年4月より、小学校で教科書と評価のある「特別の教科 道徳」の授業が始まった。 検定に合格した8社の教科書のうち3社が「二宮金次郎」のエピソードを取りあげた。 中学校は19年度開始予定。

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