イングリット バーグマン。 イングリッド・バーグマン~愛に生きた女優~

イングリッド・バーグマンの映画作品

イングリット バーグマン

最近、オードリー・ヘップバーンの孫娘、エマ・ファーラーが米国版「ハーパース・バザー」でモデルデビューを果たし話題になりました。 エマ・ファーラーは美しい娘さんですよ… — のぼりお manganobo エマ以外にも、古き良きハリウッドの銀幕を彩ったスーパースターの孫娘たちは現在各界で活躍中だったりします。 エレットラ・ロッセリーニ・ヴィーデマン(Elettra Rossellini Wiedemann) — わすちゃ SharieRanders 1983年生まれのエレットラは見るからに聡明そうなクールビューティーで、New Schoolの政治学科を卒業し、現在はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで生体臨床医学を学んでいるという才媛でもあります。 Elettra Rossellini Wiedemann: バーグマンのDNAは、いずこへ。 綺麗だけどね。 — バルデラマ maxies1957 彼女の祖母は、あの伝説の映画「カサブランカ」で「君の瞳に乾杯」というセリフを流行らせた、往年のハリウッド・スター、イングリッド・バーグマンです。 was born 99 years ago today. She made her American film debut with INTERMEZZO in 1939. — AFI AmericanFilm 際立った美貌と知性で「アメリカ人女性の理想」と呼ばれたバーグマン。 Ingrid Bergman as Ilsa in 'Casablanca' 1942 portrayed emotions so well — Universic Times universictimes バーグマンの娘でエレットラの母親にあたる女性は、デイヴィッド・リンチ監督の「ブルーベルベッド」をはじめとする数々の話題作に出演した演技派女優、イザベラ・ロッセリーニで、エレットラの父親はハーバード大卒で元モデルのジョナサン・ウィードマンという男性です。 Isabella Fiorella Elettra Giovanna Rossellini. — JuanEduardoFernandez JuanEduardoFdez 少女時代のイザベラと母の希少なツーショット写真も残されています……顔立ちに母の面影を残しつつも、ハンサムな女であったバーグマンと比べてスイートで女性らしい雰囲気だったイザベラ、そこにドイツ系である父親の遺伝子が加わったことによって生まれたのが、少年のように凜とした美貌のエレットラです。 Ingrid Bergman イングリッド・バーグマン さんとIsabella Rossellini イザベラ・ロッセリーニ さん。 1967年の写真です。 ハーバードの学費を稼ぐためにモデルをしていたといわれる父親がその後表に出る仕事をしている情報は見つかりませんでしたが、彼女の祖母や母とは少し趣の違うクールな顔を見ていると、父親も人並み外れた美形でであることは想像に難くありません。 グッチがアイシャドウ、リップ、ネイル、ベースメイク等のコスメを9月に発売。 グレースケリーの孫のシャルロット カシラギがミューズ。 でも限定店舗発売なのね。 日本でも売られるのかな? — MICHIRU SHIMANO barbiemichiru ハリウッド女優からモナコ公妃になったグレイスの孫ということは、生まれながらの王族。 そんなリアルプリンセスがイメージモデルとして登場した「グッチ」のPVは、日本でも話題になりました。 lanza al mercado su primera linea de cosmeticos :Starring Charlotte Casiragh. Photoset: R4R Saturday Spam: Royal Christenings 21- Pierre Casiraghi — Ready4Royalty Ready4Royalty 特に兄のアンドレア・カシラギは、祖母グレイス譲りのノーブルな美貌で日本女性にも大人気です。 アンドレア・カシラギ 知る人ぞ知るモナコの王子 このころがかっこよさの全盛期とか今は劣化したとか言われてるけど私はどのアンドレア王子も好きだ! — あやーね grgrcoco 弟のピエール・カシラギもメガネの似合う知的な美男子で、少年時代は「ハリー・ポッター」に出てきそうな愛らしさでした。 最近では、ディズニー映画「美女と野獣」に登場するプリンス・アダムにそっくりなことも話題になりました。 Prince Pierre Casiraghi Totally Looks Like Prince Adam beast : Prince Pierre Casiraghi Totally Looks Like... — Reeky reekycheeks 兄弟の中で一番グレイスの面影が濃いのは長兄のアンドレアでしょうか? 長髪ということもあり、ロック・スターのような色気を感じる一枚も。 Andrea Casiraghi(アンドレア・カシラギ 生年月日 1984年6月8日 出身 モナコ公国 身長 175cm 職業 モナコ王子 スポーツ万能頭も良くイケメンでまさに絵に描いたような王子様。 — 絵になる人物bot eninaruhito ピエールの恋人、伯爵令嬢のベアトリーチェ・ボロメオも宗教画の天使のような可憐な美女です。 もしご成婚と言う運びになれば、さぞかしかわいいご子息が生まれるだろうと想像してしまいます。 El look de Beatrice Borromeo — magazinespain magazinespain まだあまりメディアでお姿を拝見する機会は少ないですが、カシラギ三兄弟にとっては従妹に当たるポリーヌ・デュクリュエもポップ・スターのようなキュートな美少女です。 14 Pauline Ducruet, Princess Stephanie's Daughter, Is Pretty — Sepehr 2014 soulscan 2010年のシンガポールユースオリンピックに飛び込みの選手として出場したスポーツ少女で、彫刻のように整った顔立ちと健康的な笑顔が魅力的です。 Pauline Ducruet sigue los pasos de Charlotte Casiraghi — Noticias Bolivianas NBolivianas 少女マンガの中から飛び出してきたような美しき王族たちですが、それでもやっぱり、一番美しいのは彼らのおばあちゃんであるグレイス・ケリーではないでしょうか。 明日はグレイス・ケリーの上品さが欲しいのねー。 — いつもあくび itumoakubi 高貴で硬質な美貌からほのかに香る色気の破壊力はすさまじく、露な背中がSEXYなバックショットは、生身の人間とは思えない神々しさです。 Grace Kelly — History In Pictures historyepics グレイス・ケリーは1982年、自動車事故により53年の生涯を閉じます。 グレイスの死の2週間後には、イングリット・バーグマンも長きにわたる乳がんとの闘病生活に破れ、67歳で亡くなっています。 15人の実在の美女たちの生涯を描いた森瑤子の著書「美女たちの神話」(講談社)によると、イングリット・バーグマンは、グレイス・ケリーがまだ駆け出しだったころに目標としていた憧れの女優であったとのことです。 I have two this week; Grace Kelly and Ingrid Bergman. When I was in high school, I... — Jasmine Ladjevardi JasLadjevardi 同書の中でグレイス・ケリーの生涯をとりあげた章は 「グレイス亡き後、私たちはモナコの国を思う際、なにか灯が消えたような気がするのは、どうしようもなくいなめない。 」 という言葉で締めくくられていますが、出版されてから20年以上の時を経てひさしぶりに読み返して、今再びモナコにいくつもの灯がともりはじめていることに気が付きました。 私の躰に流れる過去の夥しい先祖の人々の血を意識したのは。 その何万人という人々の血のざわめきが、無数の蟻のように、私を内側から噛み始めたのは、その時からだった。 以来私は、たえず自分の中に流れる血に急き立てられて、生きているような気がするのだ。 」 という一節が記されています。 Happy Birthday Ingrid Bergman - one of our all time favs! — Retro Classic retroclassics1 自身も1993年に永眠した著者・森瑤子が綴ったそんな言葉を眺め、かつて同書の中で紹介された女優の孫たちが美しく成長した姿を想うと、美貌や才能も含め個人の持つあらゆるスペックが衰え消えてゆく一方で、体から体へと脈々と受け継がれる遺伝子の神秘について思いを馳せてしまいます。

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イングリッドバーグマンの身長【当時としては超高身長な女優】

イングリット バーグマン

業績 [ ] を3回、を2回、のの受賞経験があり、AFI()選定の「」の女優部門では第4位となっている。 バーグマンが演じた役でもっとも有名な役と言われているのが、と共演した『』(1942年)のイルザ・ラント役とと共演した『』(1946年)のアリシア・ヒューバーマン役である。 バーグマンはアメリカで女優として成功をおさめる以前から、スウェーデンでは名を知られた女優だった。 バーグマンがアメリカ映画に初出演したのは、スウェーデン映画の『間奏曲』をリメイクした『』(1939年)である。 その際立った美貌と知性でアメリカ映画に「北欧からの瑞々しい息吹」を吹き込んだバーグマンは、すぐさま「アメリカ人女性の理想」となりを代表する女優の一人となったと『ポピュラーカルチャー百科事典』 に記されている。 映画監督がリメイクした映画『』(1941年)に出演したバーグマンは、後に自身をハリウッドへ招くのに認められた。 セルズニックはバーグマンのことを、今までともに仕事をしてきた中で「もっとも完成された誠実な女優」と評価している。 セルズニックはバーグマンに7年間の出演契約を提示し、その後の女優活動をプロデューサーとして支えていくことになる。 バーグマンがセルズニックとは無関係に出演した映画には『カサブランカ』(1942年)、『』(1943年)、『』(1944年)、『』(1945年)『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)があり、独立系映画としては『』(1948年)がある。 この作品がきっかけとなり、バーグマンとロッセリーニはともに既婚者であったにも関わらず、不倫関係を持つようになる。 この不倫関係とその後の二人の結婚は大きなスキャンダルとなり、バーグマンはその後の数年間アメリカに戻ることができなくなった。 1956年の『』でハリウッドに復帰したバーグマンは、この映画でを受賞するとともに、旧来のファンもバーグマンを許したといわれている。 バーグマンに関する私生活や映画関連の文献は、のシネマ・アーカイブが多く所蔵している。 前半生(1915年 - 1938年) [ ] 14歳のバーグマン。 バーグマンは1915年8月29日にスウェーデンので生まれ、スウェーデン王女にちなんでイングリッドと名付けられた。 父親はユタス・ベリマン(「バーグマン」は「ベリマン」の英語読み)で、母親はフリーデル・アドラー・ベリマンである。 バーグマンは3歳のときに母親を、13歳のときに芸術家・カメラマンだった父親を失った。 生前の父親はバーグマンがオペラ歌手になることを望んでいたため、バーグマンは3年間声楽を学んでいる。 しかしながら「最初から女優の道に進むことを夢見ていた」バーグマンは、誰もいない父親の写真スタジオで亡き母のドレスを身にまとって一人芝居を演じることもあった。 バーグマンの父親は死去するまで、誕生日には毎年バーグマンの写真を撮影していた。 バーグマンが初めて出演した映画『ムンクブローの伯爵』より。 1934年に撮られた写真で、当時のバーグマンは19歳だった。 父親の死後バーグマンは叔母に引取られたが、この叔母も心臓合併症のために6カ月後に死去してしまう。 そしてバーグマンは5人の子持ちの叔母フルダと叔父オットー夫妻の家に身を寄せた。 バーグマンにはエルザ・アドラーという名前の叔母もおり、この叔母が11歳のバーグマンに生母フリーデルにはおそらく「ユダヤ人の血が混じっている」ことを最初に告げた人物である。 ただし父ユストは結婚前からこのことを知っていた。 エルザは、バーグマンがもしこの血筋を他人に話すようなことがあれば「ちょっと厄介なことになるかもしれない」と忠告している :294。 バーグマンは17歳のときに、ストックホルムの王立ドラマ劇場 の役者になるためのオーディション参加を一度だけ許可された :30—31。 バーグマンはこのときのオーディションの様子を次のように回想している。 私たちは貴女の一見傍若無人にも見える落ち着き振りに感銘を受けました。 貴女個人も話しぶりも素晴らしい。 これ以上何十人ものオーディションを実施するのは時間の無駄です。 貴女には天賦の才があります。 将来素晴らしい女優になることでしょう :31—33。 オーディションに合格したバーグマンは国からの奨学金を受け、王立ドラマ劇場付属の演劇学校へ入学した。 この演劇学校は、数年前までが同じような奨学金を得て学んでいた学校でもあった。 バーグマンは入学した数カ月後に、ジークフリード・シーウェルツの戯曲『犯罪 Ett Brott 』に出演している。 しかしながらこのバーグマンの行動は、演劇学校の「慣例とは全く相容れない」ものだった。 この演劇学校では、少なくとも3年間演技を学んでからでないと外部の作品に出演してはならないという不文律があったためである :33。 バーグマンは最初の夏休みにも映画スタジオからの仕事を受けた。 そして一年後に、映画女優に専念するために通っていた演劇学校を退学した。 退学後にバーグマンが得た最初の出演作は1935年に公開された『ムンクブローの伯爵』である(1932年の映画『 Landskamp』でエキストラとしての出演経験はあった)。 その後バーグマンは、1941年に主演で『』という題名でリメイクされることになる『女の顔 』(1938年)の主役アンナ・ホルムを始め、12本のスウェーデン映画に出演したほか、ドイツ映画の『4人の仲間 』(1938年)にも出演している。 ハリウッド時代、1939年 - 1949年 [ ] 『別離』(1939年) [ ] バーグマンが初めてアメリカに渡ったのは1939年のことで、アメリカ映画『』(1939年)に出演するためだった。 『別離』はバーグマンが主演した1936年のスウェーデン映画『間奏曲』の英語版リメイク作品で、の映画プロデューサーのが、バーグマンをハリウッドに招いて製作した映画である。 この映画でのバーグマンの役は、演じる名ヴァイオリニストのピアノ伴奏者で、妻子あるこのヴァイオリニストとの恋愛関係に落ちていくというものだった。 自身が英語をろくに話すことができないことと、アメリカの観客からの受けも不明瞭だったため、バーグマンはアメリカで出演する映画は『別離』が最初で最後で、すぐにスウェーデンに戻るものと思い込んでいた。 バーグマンの夫の医師ペッテル・リンドストロームはスウェーデンに残っており、1938年に生まれた一人娘であるとともにバーグマンの帰国を待っていたという背景もあった :63。 『別離』の撮影のためにバーグマンは1939年5月6日にへ到着し、宿泊先が見つかるまでセルズニックの家に滞在した。 当時まだ子供だったセルズニックの息子ダニーは、セルズニックがバーグマンについて「英語が話せない、背が高すぎる、名前があまりにドイツ風だし眉も太すぎる」という欠点を挙げていたと語っている。 しかしながら、このようなセルズニックの懸念は外れ、バーグマンは外見も名前も変えることなく、すぐにアメリカの観客たちに受け入れられた :6。 『』誌はバーグマンの特集記事で「彼(セルズニック)が彼女(バーグマン)を成功へと導いた」と指摘している。 セルズニックはバーグマンが、どこの誰だか分からなくなるくらいに厚化粧を施すハリウッドのたちに恐怖心を抱いていることを知っており、バーグマンのことを「そっとしておくように指示」した。 またセルズニックはバーグマンが持つ天性の美貌が「人工的に飾り立てた」ハリウッドの女優たちに勝るとも劣らないことも確信していた。 当時のセルズニックは『別離』と並行して『』の製作も手がけていた。 このときにセルズニックは広報担当のウィリアム・ハーバートに、バーグマンの印象を綴った書簡を送っている。 バーグマンは今まで私がともに仕事をした中で、もっとも優れて誠実な女優だ。 何も考えていないように見えるかもしれないが、その仕事ぶりには文句のつけようがない。 撮影スタジオを離れることもほとんどなく、彼女の控え室は撮影の間中そこで暮らすことができるんじゃないかと思うくらいに整えられている。 彼女は午後6時になると同時に仕事をやめてしまうような女優じゃない。 『風と共に去りぬ』には4人の映画スターが出演していて、みんな最上級の控え室を占有しているから、彼女にはもっと小さな控え室しか用意できなかった。 それでも彼女は今までこんなに豪華な控え室は初めてだといって大喜びだったよ。 まったく気取ったところのない稀有な女優だから、彼女を売り出すときには重々しさを付け加えるようにすべきだね。 生来の美しさ、思慮深さ、誠実さは、彼女を伝説的な女優にすることだろう。 さらに、このうえなく清らかな性格と容貌が、私に彼女との契約を決心させた理由だ :135—136。 『』の予告編より。 1941年。 『別離』は大きな興行的成功を収め、バーグマンは一躍人気女優となった。 『ライフ』誌の特集記事によると、監督のグレゴリー・ラトフ はバーグマンを「まったく驚くべき」女優であると評した。 さらに『ライフ』誌には、撮影現場の作業員たちがバーグマンのためならば自身の仕事を後回しにしかねないほどに心酔し、さらに共演者やスタッフも「すぐに(バーグマンに)信頼を寄せるようになり、彼女の演技の方向性や台詞まわしに細心の注意を払うようになった」と記されている。 イギリス人映画評論家ディヴィッド・トムソン はバーグマンが「大きな衝撃をハリウッドとアメリカに与えた」とし、化粧っ気のないその容貌が「気高い雰囲気」づくりに貢献したと指摘している。 『ライフ』誌には、バーグマンがハリウッド映画に出演してからは、背が高く(バーグマンの身長は約175cm 「栗色の髪と青い目を持つ女性は、極度に内気ではあるけれど、内心は親しみやすく温かで、誠実かつ控えめな笑顔の持ち主」という一般的な印象を持たせるまでになったと記されている。 セルズニックはバーグマンの独自性を高く評価し、その妻アイリーン とともに、女優バーグマンの全キャリアに渡ってかけがえのない友人となっていった :76。 『カサブランカ』(1942年) [ ] と共演した『。 1942年。 が勃発したときにバーグマンは、ドイツで『4人の仲間 Die vier Gesellen 』に出演したことを「間違った選択だったと自責の念にかられ」るようになった。 バーグマンの伝記作家の一人シャーロット・チャンドラーは2007年の著書で、バーグマンはを「一過性の異常な状態で、まじめに受け止めるにはあまりに馬鹿げている」と考えており、ドイツが戦争を始めることはありえず「ドイツの良識派が戦争を容認するはずがない」と信じていたとしている。 さらにチャンドラーは「イングリッドは終戦時にドイツにいたことについて生涯にわたって罪悪感を感じており、ナチスのを誰かと訪れることに恐怖感を抱き続けていた」と書いている :293—295。 スウェーデンで最後の映画に出演した後、1941年にバーグマンは『四人の息子』、『天国の怒り』、『』の3本のアメリカ映画に出演し、どの作品も大きな成功を収めた。 翌1942年には、現在でもバーグマンの代表作と目されている『』でと共演した。 『カサブランカ』の舞台はの影響力が及ばない中立地帯であるフランス領モロッコので、バーグマンはが演じた反ナチス地下組織の指導者ヴィクター・ラズローの妻である美しいノルウェー人女性イルザ役を演じた。 世評とは裏腹にバーグマン自身は『カサブランカ』に必ずしも満足しておらず「私は多くの映画に出演し、なかには『カサブランカ』よりも重要な役も演じてきたつもりです。 しかし人々が話題にしたがるのはボカートと共演した映画のことばかりなのです と語ったこともある。 しかしながら後にバーグマンは「すでに『カサブランカ』は独り歩きしている映画なのでしょう。 人々を惹き付ける不思議な魅力を持つ作品で、映画に求められていた想いを十分に満足させることができる作品といえます」とも語っている :88。 ただし晩年には、「こんなに良い映画だったんですね」と言っている。 『誰が為に鐘は鳴る』(1943年) [ ] バーグマンは1943年に、自身初のカラー映画作品となる『』にマリア役で出演し、初めてにノミネートされた。 『誰が為に鐘は鳴る』は、アメリカの文豪の同名小説『』を原作とした映画である。 原作の映画化権がに売却されたときに、原作者のヘミングウェイは「この役を演じるのはバーグマン以外にありえない」と言い切った。 ヘミングウェイはバーグマンと面識はなかったが、アメリカでの初主演作『別離』でバーグマンのことを知っていたのである。 数週間後この二人は顔を合わせ、バーグマンのことを理解したヘミングウェイは「貴女はマリアだ!」と叫んだ。 『ガス燈』(1944年) [ ] 『』の予告編より。 1946年 バーグマンは『』(1945年)、『』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)と、3本のの監督映画作品に出演している。 これらの映画のうち史劇の『山羊座のもとに』だけがカラー作品だが、『白い恐怖』や『汚名』ほどには評価の高い作品とはいえない。 また、バーグマンは1940年代に俳優、演出家のもとで演技を学んでいた。 チェーホフはバーグマンが主演した『白い恐怖』にブルロフ役で出演しており、これがチェーホフ唯一のアカデミー賞のノミネートとなっている。 『ジャンヌ・ダーク』(1948年) [ ] バーグマンは1948年に公開された『』でもアカデミー主演女優賞にノミネートされた。 この作品はの戯曲『ロレーヌのジャンヌ』を原作としたもので、ウォルター・ウェンジャー製作、監督、配給の独立系映画作品である。 バーグマンがこの映画で主役を射止めたのは、以前に戯曲版の『ロレーヌのジャンヌ』をブロードウェイの舞台で演じていたことも理由の一つとしてあげることができる。 しかしながら『ジャンヌ・ダーク』は興行的成功を収めたとはいえない。 この作品の公開中に、バーグマンとイタリア人映画監督との不倫スキャンダルが明るみに出てしまったことにもその一因があった。 さらに映画関係者からの評価もよくなく、複数のアカデミー賞にノミネートされ、とを受賞したが、最優秀作品賞を受賞することはできなかった。 公開時にはオリジナルのストーリーから45分がカットされていたが、1998年にもとの長さに復元され、2004年にはこの完全版がDVDでリリースされている。 ハリウッドでのバーグマンは映画だけでなく舞台にも出演していた。 『』、『アンナ・クリスティ』 、そして『ロレーヌのジャンヌ』である。 『ロレーヌのジャンヌ』のプロモーションのためにで開催されたプレス・カンファレンスの場で、バーグマンは自身が出演していた劇場で直接目にした、人種差別事件を非難したことがある。 この出来事は大きな注目を集め、嫌がらせの手紙がバーグマンに届いたこともあった。 またバーグマンはにアラスカのアメリカ陸軍を慰問したことがある。 さらにバーグマンは軍の慰問でヨーロッパにも渡り、戦争が引き起こす荒廃を目の当たりにした。 有名なカメラマンと知り合ったのもこの時期のことで、二人は一時期不倫関係にあったともいわれている。 私生活 [ ] バーグマンは1937年に21歳で歯科医ペッテル・アロン・リンドストロームと結婚し、翌1938年9月20日には娘のピアが生まれた。 『別離』の完成後にいったんスウェーデンに戻っていたバーグマンだったが、1940年に再びアメリカへ渡り、ブロードウェイで舞台女優を続けてハリウッドでの映画出演に備えていた。 1941年には夫リンドストロームと娘ピアがアメリカを訪れ、ニューヨークのに滞在している。 このアメリカ滞在中にリンドストロームはで薬学と外科学を学んだ。 バーグマンはニューヨークに小さな家を借りて夫と娘を住まわせ、撮影の合間を見つけてはニューヨークを訪れ、数日間から数ヶ月間にわたって家族との時間を持っていた。 『ライフ』誌の記事では「リンドストロームは自身こそが家長であり、バーグマンも喜んでそのことを認めていると考えていた」とし、リンドストロームが「ハリウッドで飾りたてられた人工的な美女と関連性を持って見られることを毛嫌いしていた」ために、バーグマンは女優としての生活と私生活とをはっきりと分けていると断言していたと書かれている。 リンドストロームは後にニューヨークからサンフランシスコへと居を移し、当地の私立病院でインターンシップを終えている。 そしてバーグマンも映画出演の合間にサンフランシスコを訪れて、家族と共に過ごす生活を続けた。 ロベルティーノが生まれてから一週間後にバーグマンはリンドストロームと離婚し、でロッセリーニと再婚した。 1952年6月18日には双子の娘イゾッタ・イングリッドとが生まれた。 しかしながら1957年にバーグマンとロッセリーニは離婚した。 翌1958年にバーグマンは富裕なスウェーデン貿易商一家出身の演劇プロモータのラルス・シュミットと結婚したが、この結婚も1975年に破局している。 ロッセリーニとのイタリア時代(1949年 - 1957年) [ ] マシアス・ヴィーマンと共演した1954年公開の『不安』。 バーグマンはアメリカ滞在中に目にした、イタリア人映画監督の2本の映画に深い感銘を受けた。 1949年にバーグマンは、自分がいかにロッセリーニの映画を賞賛しているか、いかにロッセリーニ監督作品への出演を望んでいるという内容の手紙をロッセリーニに送った。 撮影中にバーグマンはロッセリーニに好意を抱くようになった。 二人は不倫関係となり、バーグマンはロッセリーニの子供、レナート・ロベルト・ラナルド・ジュスト・ジュゼッペ・ロッセリーニを身篭った :18。 バーグマンとロッセリーニの不倫はアメリカでも大きなスキャンダルとなり、 アメリカ上院議会でも二人の関係が非難されるほどだった。 は自身のTV番組に、聴衆からの出演希望でバーグマンが一位だったにも関わらず、バーグマンを番組に呼ぼうとはしなかった。 しかしながら、エド・サリヴァン・ショウと同じくらいに人気のあったテレビ番組の司会者スティーヴ・アレン はバーグマンを自身の番組に出演させた。 後にアレンは「私生活をもって芸術活動を断罪するかのような危険な賭けだった」と語っている。 伝記作家ドナルド・スポートは、バーグマンが演じた役やキャラクターのイメージを壊さないために「高く自身を律していた」と指摘している。 『』では修道女を、『』では聖女を演じたバーグマンは後に「人々は私にジャンヌ・ダルクを重ね合わせ、聖女のような人物だと思っていました。 そうではないのです。 私はただの女、普通の人間なのです」と語っている :300。 ロッセリーニとのスキャンダルに追われるように、夫リンドストロームと娘ピアを残して、バーグマンはアメリカからイタリアへと戻った。 そしてリンドストロームとは離婚が成立し、娘の養育権を巡る争いへと発展していった。 バーグマンとロッセリーニは1950年5月24日に結婚した。 二人の間には結婚前に生まれたロベルティーノと、1952年に双子の姉妹イゾッタ・イングリッドとイザベラが生まれた。 長じては女優、モデルに、イゾッタ・イングリッドはイタリア文学者となった。 1951年。 1949年から1955年にかけて、ロッセリーニはバーグマンを主役とした映画を5本撮影した。 1953年にはオムニバスのドキュメンタリー映画『』の、ロッセリーニが監督した第三話に映画女優の本人役で出演した :18。 ロッセリーニの伝記作家ピーテル・ボンダネッラは、バーグマンとロッセリーニの結婚生活での言葉を巡る意思疎通のトラブルが、ロッセリーニ作品の中核テーマである「倫理的価値観とは無関係な、孤独、品位、高い精神性」をもたらしたのではないかとしている :19。 ロッセリーニは自身の監督作品にセミプロの役者を配することが多く、の映画作品へのハリウッド映画スターの起用は、周囲に否定的に捉えられることもあった。 バーグマンが最初にロッセリーニの映画に出演したときには「観客の期待を裏切る」演技を求められた。 ロッセリーニからの演技指導はなく、バーグマンは「自らの考えで迫真の演技を着想する」ことを余儀なくされた。 これはボンダネッラが「内省感を表現した新しい映画」と呼んだスタイルだった :98。 ただしバーグマンは、ロッセリーニの「基本的な着想があるだけで、(撮影の進行と共に)ごく僅かずつ考えを深めていく」という手法を撮影前から知っていた :19。 ロッセリーニとの結婚生活がすでに破綻を来たしていた1956年に、バーグマンはジャン・ルノワール監督の『』に主演した。 『恋多き女』は恋愛コメディ作品で、バーグマンは政治的陰謀に振り回されるポーランドの公爵夫人を演じている。 公開当時のこの映画は商業的に成功したとはいえなかったが、徐々にバーグマンの演技がもっとも優れている作品のひとつと見なされるようになっていった。 後半生(1957年 - 1982年) [ ] 『追想』(1956年) [ ] 1956年公開の『』でを演じる バーグマンは1956年の映画『』でアメリカ映画に復帰し、この作品で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞した。 この授賞式でバーグマンの代理としてオスカーを受け取ったのは、バーグマンの昔からの友人であるだった。 ロッセリーニとの不倫スキャンダルが発覚して以降、バーグマンがハリウッドで大衆の前に初めて姿を見せたのは、1958年度のアカデミー賞授賞式である。 旧友ケーリー・グラントからの紹介を受けてのプレゼンターとしてステージにあがったバーグマンは、観客からのスタンディング・オヴェーションで迎えられた。 その後のバーグマンはアメリカ映画とヨーロッパ映画の両方に出演し、ときにはテレビドラマにも出演している。 1959年に出演したテレビドラマ『』ではを受賞した。 また、この時期のバーグマンはいくつかの舞台作品にも出演している。 1957年にロッセリーニと離婚したバーグマンは、1958年12月21日に演劇プロデューサーのラルス・シュミットと結婚したが、1975年に離婚している。 シュミットと結婚してからバーグマンの映画出演の本数は減少していたが、1964年の『』以来5年ぶりになる映画『』で、、と共演している。 バーグマンとロッセリーニとの不倫関係が一大スキャンダルとなったのは、当時のエドウィン・ジョンソン が上院で二人を弾劾する演説を行ったことにも一因があった。 その22年後の1972年に同じく上院議員のが、この演説に関して公式に謝罪の意を示している。 また、1973年にバーグマンは、の議長に選ばれた。 『オリエント急行殺人事件』(1974年) [ ] 彼女(バーグマン)は端役を選び、私にはその決心を変えることはできませんでした。 彼女は愛らしくも頑固な女性だったといえるでしょう。 とはいえ、あまりにグレタ・オルソンが小さな役だったために、私はひとつの決断をしました。 彼女一人をスクリーンに写して、ひとつのテイクで5分間にわたって喋らせ続けたのです。 ほとんどの女優はこのような演出を嫌がります。 でも彼女はこのアイデアを気に入って、やりとげてくれました。 彼女はあらゆる感情をこのシーンで表現しつくしました。 このような経験は私にとっても初めてことだったのです :246—247。 バーグマンは母語であるスウェーデン語のほかに、ドイツ人の母親に教わったドイツ語、アメリカ滞在中に覚えた英語、イタリア滞在中に覚えたイタリア語、学校で習ったフランス語を話すことができた。 バーグマンはこれらの5カ国語で喋る役を演じたこともあった。 『オリエント急行殺人事件』でバーグマンと共演し、『コンスタントワイフ』でバーグマンの演出にも携わったは、冗談口調で「彼女(バーグマン)は五カ国語を話すことができる。 しかしそれらのどの言語でも演技は出来ない。 (" can't act in any of them" 」と語ったことがある。 『秋のソナタ』(1978年) [ ] 1978年にバーグマンはイングマール・ベルイマン監督のスウェーデン映画『秋のソナタ』に出演した。 最後の映画となったこの作品で、バーグマンは演じる過去に見捨てた娘を訪ねるために、ノルウェーへと旅する裕福なピアニストを演じた。 ノルウェーで撮影されたこの『秋のソナタ』で、バーグマンはアカデミー賞に通算7回目のノミネートを受けた。 また、バーグマンはが、1979年にヒッチコックへ生涯功労賞を授与したときの司会進行役を務めている。 『ゴルダと呼ばれた女』(1982年) [ ] 1982年にバーグマンは、の女性首相を主人公としたテレビドラマシリーズ『ゴルダと呼ばれた女』の主役のオファーを受けた。 この『ゴルダと呼ばれた女』はバーグマンの最後の出演作であり、二度目の主演女優賞を受ける作品となった。 オファーを受けたバーグマンは当初、世界的な著名人を演じることが想像もつかず、ゴルダ・メイアと自分とでは身長などの容姿があまりに違いすぎるとして出演に難色を示した。 バーグマンの娘イザベラ・ロッセリーニは、バーグマンがこのオファーに驚いていたことと、プロデューサーが「大衆は貴女(バーグマン)を信用、信頼しています。 それこそが私が求めているものなのです。 ゴルダ・メイアも人々から信頼されていた女性だったからです」とバーグマンを説得しようとしたことを紹介し、さらに「そして母はこの言葉に心を動かされました」と語っている。 さらにプロデューサーは、ゴルダが「スケールの大きな女性」であり、人々は実際よりもゴルダを長身の人物だと思っていたとしてバーグマンを説き伏せた。 バーグマンの伝記作家シャーロット・チャンドラーはこのゴルダ役が「彼女(バーグマン)にとって非常に重要な意味合いをもっていました。 イングリッドは第二次世界大戦中にドイツでひどい過ちを犯してしまったという罪悪感に捕らわれ続けていたからです」としている :293。 チャンドラーは「イングリッドの急速な体調悪化は非常に深刻な問題となっていました。 イングリッドの命を永らえさせることは不可能でした。 彼女が患っていた癌は全身に転移しており、もしイングリッドの病状を本当に知っている人がいたのなら、この作品への出演を止めさせようとしたでしょう」としている。 そして完成した『ゴルダと呼ばれた女』を、バーグマンの死後に観た娘のイザベラは次のように語っている。 生前の彼女(バーグマン)はこのような女性ではありませんでした。 母は強いといわれます。 でも彼女はどこか傷つきやすい人でした。 強さを見せるときもありましたが、本質的には弱い女性だったのです。 ただ、母にはゴルダのような側面もあったのでしょう。 彼女の演技を目にしたときにはとても驚きました。 私が見たことがない、本物の勇気を持った母がそこにいたのです :290。 『ゴルダと呼ばれた女』の撮影中にもバーグマンの病状は悪化していったが、バーグマンが弱音を吐くことも態度に出すこともほとんどなかった。 そして『ゴルダと呼ばれた女』が完成してから4カ月後にバーグマンはこの世を去った。 『ゴルダと呼ばれた女』で受賞したエミー賞を、バーグマンの代わりに受け取ったのは娘のピアだった :296。 死去 [ ] ストックホルム北霊園のバーグマンの墓。 バーグマンは67歳の誕生日に当たる1982年8月29日に、長きにわたる乳がんとの闘病生活の末にロンドンで死去した。 遺体はロンドンのケンサル・グリーン霊園で火葬に付され、遺灰がスウェーデンへと送られた。 遺灰のほとんどはスウェーデン西海岸のの小島にある漁村フヤルバッカ周辺の海に散骨された。 この小島は、バーグマンが1958年から死去する1982年まで夏季の多くを過ごした場所だった。 海に散骨されなかった遺灰は、の北霊園 の、バーグマンの両親が眠る墓の隣に埋葬された。 バーグマンの伝記作家ドナルド・スポート はバーグマンのことを「エンターテインメント史上、もっとも国際的なスターであることは間違いない」としている。 5カ国語をあやつって舞台、映画、テレビで活躍し、3つのアカデミー賞など数多くの賞に輝いた名女優だった。 レスリー・ハワードと共演した1939年のアメリカでのデビュー作『別離』の公開以来、ハリウッドはバーグマンのことを、メイクアップを必要としない完全に自然体の他に類を見ない女優であると評価してきた。 映画評論家はバーグマンが「およそ人が想像しえる理想的な女性というだけでなく、彼女は演技というものを根本から理解していた。 詩的な優雅さと徹底的な現実主義とを両立させた女優である」と語っている。 バーグマンは背が高く、自然体で、知的な女性であり、スウェーデン出身ではあったが流暢な英語を操った。 映画評論家デイヴィッド・トムソン はバーグマンが「つねに「本物の」女性であろうと努力していた」とし、多くの映画ファンがバーグマンを次のような女優だとみなしてきた。 1940年代初頭から半ばにかけて、バーグマンはこれまで類を見ないほどにアメリカから愛された。 そして、スキャンダルの渦中にあったバーグマンが聖女ではなく激しい情熱を持つ女優のように振舞ったことが、大衆の愛情の裏返しとなって大きな騒ぎへと発展してしまった :76。 バーグマンのハリウッド時代初期の伝記を記事にした『ライフ』誌は「バーグマンの女優としての道のりは順風満帆で」「すべてがうまくいっており、バーグマンにはなにも心配することはなかった」としている。 当時のバーグマンは、プロデューサーであるが素晴らしい役どころをバーグマンにもたらすマネジメントに十分満足していた。 収入の面でもバーグマンは満足しており「私は女優であり、演じることに生きがいを見出しています。 決してお金のためではありません」と語っている。 『ライフ』誌はさらに「彼女(バーグマン)は、他のあらゆるアメリカ映画の女優よりも多才だった。 彼女が演じた役は適応能力と感受性を求められるものばかりで、ほとんどの女優にとって演じることが非常に困難なものだった」としている。 バーグマンは8年間に及ぶがんとの闘病生活を続けながらも女優を止めることはなく、死去する直前に演じたゴルダ・メイア役でも国際的な賞を得た。 スポートは「彼女(バーグマン)の精神は、驚くべき優雅さと勇気に満ちていた」と記している。 映画監督のは、バーグマンが映画界に果たした貢献についてバーグマンに「私がどれほど貴女のことを敬愛しているかご存知でしょうか、イングリッド。 貴女の魅力は一言でいえば自然体であるということです。 カメラは貴女の美しさ、演技、そして個性に惚れ込んでいます。 映画スターには個性が必要ですが、その意味でも貴女はまさしく大スターといえるでしょう」と語ったことがある :11。 にはエンターテインメント界に貢献した人物を称える星型のプレートがあるが、バーグマンのプレートもハリウッド大通り6759番地に存在する。 ガスリー自身はこの歌をレコーディングすることはなかったがその死後に「イングリッド・バーグマン」が発見され、イギリス人ロック歌手ビリー・ブラッグ が曲をつけて、自身のアルバム『マーメイド・アヴニュー』に収録している。 自叙伝 [ ] 1980年にバーグマンは自叙伝『マイ・ストーリー』を出版した。 アラン・バージェス の協力で書き下ろされたこの自叙伝には、バーグマンの子供時代、女優としてのキャリア初期、ハリウッド時代、そしてロッセリーニとのスキャンダルとそれにまつわる出来事が綴られている。 バーグマンがこの自叙伝を書くきっかけとなったのは、もしバーグマンがこのまま自身のことを何も語らないままであれば、噂やインタビューを通じてしかバーグマンのことが知られなくなることを危惧した子供たちの勧めによるものだった。 また、と不倫関係にあったことが知られるようになったのも、この自叙伝を通じてのことだった。 Jekyll and Mr. Hyde アイヴィー・ピーターソン 天国の怒り Rage in Heaven ステラ 1942 Casablanca イルザ・ラント 1943 For Whom the Bell Tolls マリア 1944 Gaslight ポーラ・アルキスト・アントン 受賞 1945 サラトガ本線 Saratoga Trunk クリオ The Bells of St. Mary's メアリー・ベネディクト Spellbound コンスタンス・ピーターソン 1946 Notorious アリシア・ハバーマン 1948 Joan of Arc Arch of Triumph ジョアン・マドゥ 1949 山羊座のもとに Under Capricorn ヘンリエッタ 1950 Stromboli, terra di Dio カリン 1952 ヨーロッパ一九五一年 Europa '51 イレーネ 1953 Siamo Donne 本人 オムニバス映画。 第三話「Ingrid Bergman」に出演。 Viaggio in Italia キャサリン・ジョイス 1954 不安 La Paura イレーネ Giovanna d'Arco al rogo ジャンヌ・ダルク 1956 Elena et les Hommes エレナ・ソロコフスカ Anastasia アンナ・コレフ 受賞 1958 無分別 Indiscreet アンナ The Inn of the Sixth Happiness グラディス・エイルウォード 1961 Goodbye Again ポーラ・テシエ 1964 訪れ The Visit カーラ The Yellow Rolls-Royce ゲルダ・ミレット 1969 Cactus Flower ステファニー 1970 春の雨の中を A Walk in the Spring Rain リビー 1973 クローディアと貴婦人 From the Mixed-Up Files of Mrs. Basil E. 主演女優賞が2回、助演女優賞が1回である。 2013年時点で、助演男優賞3回受賞の、主演男優賞2回、助演男優賞1回受賞の、主演女優賞2回、助演女優賞1回受賞の、主演男優賞3回受賞のと並んで、アカデミー賞受賞回数としては歴代2位である。 歴代1位はで、主演女優賞を4回受賞している。 Obituary Variety Obituaries, 1982-9-1. Forvo. 2016年6月10日閲覧。 American Film Institute. 2006年10月20日時点のよりアーカイブ。 2006年10月23日閲覧。 James Encyclopedia of Popular Culture, St. James Press, Gale Publishing 2000• 、ウェズリアン大学• Ingrid: Ingrid Bergman, A Personal Biography. 21; 294. Life Magazine, 26 July 1943, pp. 98—104• Selznick, David O. Memo from David O. Selznick, Selected and edited by Rudy Behlmer, Viking Press 1972 , in letter dated 22 June 1939• - (英語)• The New Biographical Dictionary of Film, Alfred A. Knopf, N. 2002• の項を参照。 Adam J. Ledger. Literary Encyclopedia. The Literary Dictionary Company Limited. 2007年3月6日閲覧。 Marton, Kati 2006. The Great Escape: Nine Jews Who Fled Hitler and Changed the World. 176. The Films of Robert Rossellini, Cambridge University Press 1993• The Mike Wallace Interview. ABC, New York City. 1957年7月7日放送. Notorious: The Life of Ingrid Bergman, HarperCollins 1997 , Intro. Internet Movie Database. 2006年10月23日閲覧。 Gary Moody. OscarSite. com — A celebration of all things Oscar. 2006年12月10日閲覧。 Cannes Film Festival. 2006年10月23日閲覧。 [ ]• Leamer, Laurence 1986. As Time Goes By: The Life of Ingrid Bergman. Las Vegas Review-Journal. 2002年8月26日. 2006年10月22日閲覧。 Internet Movie Database. 2006年10月23日閲覧。 Anna, Canoni. Interview. 2013年7月4日閲覧。 参考文献 [ ]• Bergman, Ingrid and Burgess, Alan 1980. Ingrid Bergman: My Story. New York: Delacorte Press. 『イングリッド・バーグマン マイ・ストーリー』 アラン・バージェス共著 (永井淳訳、新潮社 1982年) 回想記• Chandler, Charlotte 2007. Ingrid: Ingrid Bergman, A Personal Biography. Leamer, Laurence 1986. As Time Goes By: The Life of Ingrid Bergman. 『イングリッド・バーグマン 時の過ぎゆくまま』 ローレンス・リーマー (大社淑子訳、朝日新聞社 1989年) 伝記• Dagrada, Elena 2008. Le Varianti Trasparenti. I Film con Ingrid Bergman di Roberto Rossellini. Milano: LED Edizioni Universitarie. 日本語関連文献 [ ]• ・福田千秋責任編集『イングリッド・バーグマン:生きて恋して演技して』(シネアルバム48、、1977年)• 筈見有弘編『大女優の一生:イングリッド・バーグマン』(SCREEN Pictorial、、1983年)• - 日本語吹替をほぼ専属で担当。 - DVD版の吹き替えの多くを担当。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 - (画像アーカイブ). 2014年9月3日閲覧 伝記、出演作 [ ]• - (英語)• - (英語)• - (英語)• 公式サイト [ ]• at Wesleyan University インタビュー [ ]• with Ingrid Bergman's daughters on the 60th anniversary of Casablanca• 映像 [ ]• (フランス語) by Radio-Canada reporter Judith Jasmin on 15 July 1957• (フランス語) on JT 20H on 22 February 1959• Radio rich media may be found in the radio credits table. 1983• 1984• 1986• 1987• 1991• 1992• 1996• 1997• 1998• 1999• 2000• 2001• 2002• 2003• 2004• 2005• 2006• 2007• 2008• 2009• 2010• 2011• 2012• 2013• 2014• 2015• 2016• 2017• 2018• 1966• 1967• 1968• 1969• 1970• 1971• 1972• 1973• 1974• 1975• 1976• 1977• 1978• 1979• 1980• 1981• 1982• 1983• 1984• 1985• 1986• 1987• 1988• 1989• 1990• 1991• 1992• 1993• 1994• 1995• 1996• 1997• 1998• 1999• 2000• 2001• 2002• 2003• 2005• 2006• 2007• 2008• 2009• 2010• 2011• 2012• 2013• 2014• 2015• 2016• 2017• 2018.

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イングリット バーグマン

ストーリー [ ] 10代の若き皇女含めての一家がの後にによって殺害されたと推測されてから10年が経過した。 の元将軍ボーニンはニコライ2世が4人の娘のためにに預金した1000万のの遺産に目をつける。 ボーニンは街で拾った記憶喪失の女性アンナ・ニコルを生存が噂されるアナスタシア皇女に仕立てて遺産を手に入れようと、彼女に各種レッスンを施して「本物」らしく仕立てる。 ついにで甥のポール王子と余生を過ごすとの「涙の対面」にまで漕ぎつける。 ふとした妙な咳から皇太后は彼女が本物のアナスタシアであることに気付く。 資産目当てでボーニンに協力するポール王子とアンナの数週間後の婚約発表も決まったが、ボーニンのアンナへの想いも「本物」になってしまい、二人が愛し合うという誤算が生じる。 そして婚約発表当日。 披露の場にボーニンとアンナの姿は無かった。 孫娘が行方不明になった理由を説明する必要に迫られた皇太后は「芝居は終わった」と高らかに宣言した。 キャスト [ ]• チェルノフ -• リーフェンバウム男爵夫人 - ()• チェンバレン - ()• 脚注 [ ]• Aubrey Solomon 英語. Twentieth Century Fox: A Corporate and Financial History The Scarecrow Filmmakers Series. Lanham, Maryland: Scarecrow Press. 248. 英語 The Top Box Office Hits of 1953. Variety. 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)139頁 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - (英語)• - (英語).

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